うじさん
ほら「うじさん」が来たわよ、と母が言うので祥子は初めそのような苗字の人なのだと思った。しかしその「うじさん」は一人ではなく数人で、しかも皆一様にマスクやフードで顔を隠したまま、向かいに住む老婆の家へと入っていくのだった。
「うじさん? どの人がうじさんなの」
黒い服を着た母に手を握られながら、祥子は彼らの様子を自宅の玄関から眺めていた。
「皆、蛆さんよ。おばあさんには身寄りがないから、あの人たちに引き取っていただくの」
「どうして?」
「蛆さんは……、そうね」
今思えば母は彼らについて説明をするつもりもなかったのだろう。当時からなぜなにの多かった祥子があれこれ当人たちに聞く前にそれだけ言ってしまおうというつもりだったのかもしれない。
だからまだ当時幼く、自分も何故黒い服を着ているのかさえ分かっていない祥子の純粋な質問に、随分困惑したに違いない。事実、笑っているようで、しかし確かに困っているような母の顔は祥子の初めて見るものだった。
「おばあさん、お星様になったでしょう。でもおばあさんには『みよりがない』から、蛆さんたちにお星様にしてもらうの」
「おほしさま?」
それこそ星のように目を輝かせて祥子は母を見上げる。母は「ええそうよ」とだけ答えた。
魔法使いだ。祥子は少なからず空に輝く星に憧れてもいたから、「うじさん」があの優しい老婆をお星様にするのだと聞いて大変に驚きまた喜んだ。
「すごい! すごいね!」
「……そうね」
母は困りながらも「ええそうよ」とだけ答えた。
「すごい! すごいね!」
「……そうね」
しまった、という顔をしていた。
しかしお星様の童話に憧れ、魔法使いを夢見る祥子は構わなかった。彼らは魔法使いなのだ。星を作ることができるのだ。あの遠い空に輝く、きらきらとしたお星様を。
「祥子!」
「うじさん!」
気づけば祥子は母の手を振り解いて走り出していた。悲鳴にも似たような絶叫が辺りに響いたが、魔法使いに憧れる子供には届かなかった。
母は必死に走り出すと、祥子がフードの一団にたどり着く前に、彼女を抱きすくめた。興奮のまま、大声で怒鳴る。
「祥子! やめなさい! 汚いでしょう!」
魔法使いを汚いと言い切った、母のその時の顔は穏やかでやさしい普段に似ず醜悪で、鬼のようでもあった。母は鬼のまま、祥子を、そして「うじさん」をねめつける。まるで殺人鬼に子供を殺されんとしている母のような動作で、祥子はただ強く抱き締められる痛みの中から「うじさん」の顔を見た。
薄鼠色のフードの中から覗く一人の「うじさん」の顔は、母の強硬な態度にもかかわらず穏やかで、それでいて何かを諦めたような優しいものであった。
「うじさん」はにっこり笑って言った。
「お嬢ちゃん。私たちのことは、忘れておくれね」
男の人だ。お父さんと同い年くらいだろうか。母は祥子の抱擁を解くと、何も言わず強い力で彼女の手を引いて、自宅へ祥子を押し込んだ。
母の矛盾、差別に慣れきったような男の人の顔。
田舎の夏の暑い日の、しかし忘れられない出来事である。