第一話 そらいろの
――現代日本に、男女の幼馴染みというものがある。
あるが多くは、小学校中学年辺りを境にしてよそよそしくなり、距離を取り、多感な中学では絶縁、高校辺りで「ご近所さん」程度の関係になるのが関の山だ。
「ごちそうさまでした」
「あら、ご飯足りた?」
「うん。おばちゃんいつもありがとう。俺、お皿洗いやるよ」
「ありがとう。ほら、清香《さやか》も居間で転がってないで。睦実《むつみ》くんを手伝って」
「はあい」
無論、木山《きやま》睦実と巽《たつみ》清香もご多分に漏れず当人同士はご近所さん程度の付き合いにしたいのだが、睦実に少し複雑な事情があるためか、清香の両親は彼をひどく労い、息子のように扱い、果ては彼と同い年である実の娘より可愛がり、娘の誕生日は忘れて睦実の誕生日は盆と正月とクリスマスと結婚式が一気に来たような騒ぎで祝う、というミラクルが起きる状態なのでそうもいかない。
若干根に持ってはいるものの誕生日の件はそろそろ水に流そうと清香も思ってはいるのだが、当人同士がご近所さん程度の付き合いにシフトしていきたいと思っていることを両親は理解しないので、幼い頃よろしくこうして二人ワンセットで扱われると清香は何だか残念になるのである。
高校生になって色んな服を試そうと思っているときに中学生向けブランドの服を「好きでしょ」と買ってこられるような残念さがある、と思いながら清香は布巾を用意する。食洗機など巽家にはないのだ。
「清香、俺がやるからいいよ」
「いや、後で私が怒られるし」
「そう? あー、じゃあこのまま全部お願いしようかな」
「……うちのお母さんの前で猫被りすぎじゃない?」
水道の音で掻き消しながらも睦実がにっこり笑うので清香はじっとりと睨み返す。お手伝いを言い出したのは睦実のはずだ。
(世間の皆様、男女の幼馴染みでラブロマンスなんてありえないですよ。せいぜい姉弟みたいな関係になるくらいです)
姉弟だって長じるに従って気まずくなるのに血の繋がりのない他人ならなおさら――。
「いやあ実の親が冷たいからどうしてもねえ、いい子しちゃうねえ」
「……」
にこにこと、何でもないことのように言う睦実に、清香は言葉が返せなくなる。ああ、ほらやっぱり。気まずくなるから二人にしないでほしいのだ。
清香は自分より幾分背の高い睦実の真っ黒な、それこそ不自然なくらいに黒い色をした髪を見る。同年代では珍しい長髪なのは、毛髪の根元を見せないための彼の工夫だ。
(……青、だもんなあ)
この不自然なくらい真っ黒な髪は染めたものである。睦実は本来、髪色は青、目の色は空色という、医者が学会に出していいかと問うような色素異常で生まれた。このため彼は黒色のカラーコンタクト装着も余儀なくされている。好奇や侮蔑を逃れるため、何より家族を慮ってだ。
(……うちの家なら、私が急に青い目になっても『高校のうちは染めちゃダメよ』で終わるだろうなあ)
生来のんびり屋しかいない巽家であれば青髪青目でも「まあなんとかわいい赤ちゃんでしょう」で済んだだろう。しかし木山家は巽家と違ってのんびり屋のいない、少しばかり厳格で昔風の家であったゆえに、睦実の異常は色素異常ではなく、睦実の母の不倫であると決めつけられた。
DNA鑑定をしてまでの争いのあと「睦実が一人立ちしたら離婚する」との協定が結ばれており、一人立ちカウントダウンに入った十七歳の今や、家庭は冷えに冷えきっているのだという。
争点になっている睦実自身に何の罪もないとはいえやはり相当に居心地が悪いらしく、ちょくちょく巽家へ避難しては、盛大に誕生日を祝われたり、男子高校生の食欲のままご飯を大盛り三杯食べたり、皿洗いを申し出ては清香が一方的に気まずくなったりしている。
友人の家に行かないのかと一度聞いてみたが、やはりどうしてもこの「家族」感は巽家でないと味わえないと言われてしまった。
(……)
当然のことのように、むしろ嬉しそうにしてさえそう言われると、清香は返す言葉がない。
「スキンヘッドにしてみるのもありなのかな」
清香なりに心配はしているので、解決策はないかと考える。
皿を拭きながら呟いた清香の言葉にぴくりと反応し、睦実がゆっくりした動作で水道を止める。
「いずれさあ……」
睦実の表情に般若が映っていた。よく見れば睦実の手が震えている。あっと気づいた時にはもう遅い。震えは怒りなのか未来への恐怖か不安なのか、いずれにしても睦実の目は一切笑っていない。地雷スイッチを押した。清香は押し黙る。
「スキンヘッドがおしゃれかそうじゃないとかいう話じゃなくてさ? 小学生からずっと黒染めして馬鹿みたいに髪いじめてるから俺いずれハゲるじゃん? それを諦めずに必死に守り育てて保った長さをそんな全部諦め……、ねえ? ねえ清香? 何でそんな地雷踏んだみたいな顔するの? こっち向いて? 俺と髪の話しよ?」
般若と目を合わせたら終わりなのを清香は良く知っている。
「あ、あ、あー、後よろしくね……、あとごめんね……」
洗う皿もちょうど残り一枚だったので、清香は般若に布巾を押し付けると、自室へ逃れることにした。
しまった。まずった。地雷を踏んだ。
階下に戻るわけにもいかず、逃げ込んだ自室で清香はノートを広げる。数学の宿題があった。小問をいくつか解かねばならない。睦実は高校も違うので中学までの時のように頼れないし、何より今はすごく怖い。
「……」
数学教科書の表紙の色。青色。水色。空の色。
(きれいな色なのにな)
のんびり屋の巽家の血がそうさせるのか、幼い頃見た睦実の髪の色も時折見る目の色も、清香にとっては「きれい」以外に感想を持ち得ないものだった。
代わりにもらおうかなんて無神経なことはこれ以上言えないけれど、でも、本当に困った時にはそうしてあげたいくらいの気持ちはある。
「清香」
ノックの音がして清香は飛び上がりそうになった。思わずフォローを口にする。
「だ、大丈夫だよ、睦実はまだハゲてないでしょ」
「『まだ』って何?」
四分の一くらい般若を降臨させながら、睦実は清香の部屋の扉を開ける。その手にはチョコレートコーティングされたバニラアイス。
「おばさんがアイスくれたよ」
「食べる食べる。いただきます。……さっきごめんね」
「許してやる」
勉強机に向かう清香から少し離れて、睦実は部屋の中央にあぐらをかく。
お互い無言になったのが何だか辛くて、清香はテレビをつける代わりに声をかけた。無神経なことを言った謝罪のつもりもあった。
「でも、髪が青色だろうが目が空色だろうが、『きれいだね』で済む世の中であってほしいね」
「そうだね……」
睦実は長い長いため息を吐く。
目が渇いて痛い、本当はコンタクト好きじゃない――という言葉も彼からよく聞いていた。やがて自嘲と諦観の間のような声でつぶやく。
「俺さあ、前世犯罪者か何かだったのかな」
声は笑っているが天井を見上げる背中に悲哀が漂っていて、清香はかける言葉がない。睦実が決して悪い人間でないのは十七年共に過ごしていてわかりきっている。何故彼がこうも苦労しなければならないのか。
大丈夫だよ、と無責任に励まそうとした清香の台詞を誰かが取った。
「いえ。立派な宰相でしたよ。その手に持つ『導き』で皆をよく教え、家庭も円満。子煩悩で穏やかな男性でした」
「そっかあ。なら多少は救われるかなあ」
「お話を聞いていましたが、異端扱いは辛いですねえ。僕なんか見てください、髪の色がこんなに銀色」
清香と睦実の間に立っているのは長い銀髪の男性だった。
「本当だ。でも手入れがすごい行き届いてて、きれいな髪してるね」
「ハゲなそう」
「睦実もうそれやめようよ」
「ははは。おほめに預かり光栄です」
「……」
「……」
場が和やかになったところで、清香は違和感に気づく。
「……お兄さん、誰?」
「正しくは、お兄さん方、ですかねえ」
銀髪の彼は微笑しながら、部屋の入口の辺りを指さす。つられて目を遣った清香の目に映ったのは、白銀の甲冑に赤茶けた髪の映える騎士。唐突な事態に清香は唖然とする。
目を丸く見開いて、思わず大声で――。
(あれ、でも……)
妙だ。
「こんばんは。僕はレイと申します。あそこで突っ立っているのがルウスです」
清香がルウスを凝視しながら硬直している様子も構わずに、レイと名乗った男性は自己紹介を続ける。
やや冷静に事態を見ていたらしい睦実も、思わず立ち上がったようだった。
「うん。あのさ。そうじゃなくてさ」
「一度滅びかけた国の王族に仕えるおとぎ話の住人です。『女子高生異世界転移系物語』のお誘いに参りました」
睦実のおおよそ問いたかったであろうことを簡潔に、しかし分かりにくいように答えると、彼は清香に歩み寄る。
「王の龍の娘、セイカ王女。再びお会いできて光栄です」
跪いた銀髪の男性は、真っすぐに清香を見据えていた。