カラスアゲハの翅の色
雲の晴れ間に蝉が鳴く。じゃあじゃあやかましい声の中、雨の匂いも抜け切らぬベランダを一匹のアオスジアゲハが飛んでいた。真っ黒の翅に、目の覚める一筋の青。幼い時分に亡くなった、姉の好きな蝶だった。
まだ私が四つか五つの頃だっただろう。姉は病弱な彼女がずっとお世話になっていた病院のベッドの上で、買ってもらったばかりの図鑑を広げ嬉しそうに蝶の名を一つ一つ教えてくれた。まだひらがなもカタカナも曖昧だった私は美しい蝶の名を知ったことで得意になって、聞いたばかりの知識を母に教えた。しかしカラスアゲハとアオスジアゲハの話をした時に、そしてそれは反対だ、青い筋のある方がアオスジアゲハだと母に訂正された。
「カラスアゲハはカラスと一緒で黒いのよ」
「そんなはずないもん、黒じゃないもん」
しかし抗議する私をよそに、姉は私の驚いた顔を見ておかしそうにクスクス笑っていた。一つだけわざと間違って教えていたのだ。
「お姉ちゃんは意地悪だ」
「意地悪じゃないのよ」
姉はそういう嘘をよく教えた。白衣のことを黒衣と言い、カラスのことも鳩と言った。小難しい言い回しでつい信じてしまうものもあれば、明らかに嘘と分かるものもあった。いつだか、どうしてそんな嘘ばかり言うのか直接聞いたことがある。母は姉がか弱い真面目な女の子と信じきっていたから私の声に耳も貸さず、訴える相手がいなかったのだ。
季節は夏だった。
「だって、××ちゃんは、真っ黒なものが怖いでしょう」
「もう五つだから怖くないもん」
「本当? もう怖くない?」
本当はまだ、黒いものが怖い時だった。
当時私は喪服というものの名前は当然知らなかった。しかし人が死んだときには黒い服を着るのだと言うことをほかならぬ姉から教えてもらって知っていた。姉としては、ただ年上のきょうだいとして妹に知識を与えたかっただけなのかもしれない。しかしもう私は教えてもらった途端に途端に黒いものが怖くなってしまった。幼心に姉の死の近いのを理解していたのかもしれない。
黒いものが姉を連れていく。黒いものは怖いもの。豆電球がついていないと怖くて眠れなくなったのもちょうどその頃だ。
だから姉は、姉なりの贖罪で嘘をついていたのかもしれない。
「××ちゃんは怖がりだからなあ」
五つ上の姉は、その頃もう大分悪かった。年中男の子と一緒に外を走り回っていた私と違って、雪のように白い肌をしていた。窓を閉めていても蝉の声がするというのに姉の周囲だけまるで季節に置いていかれたようだった。
慣れ親しんだ病室の真っ白なベッドの上で、姉が困ったように笑っていたのをよく覚えている。
「名前だけでも黒じゃなければ、怖くないでしょう」
結局よくわからない答えだけをくれて、夏の終わりに彼女は亡くなった。
「××ちゃん」
呼ばれた気がしてはっとする。気づけば私は窓の縁に手をかけたまま立ち尽くしていた。ベランダにはまるでこちらをうかがうように、一匹の蝶がひらひらと舞っている。黒い翅だ。アオスジアゲハじゃない。カラスアゲハだ。一筋の青が見えたのは、雨上がりの空を見違えたのかもしれない。翅はあんなに真っ黒だ。そこまで思って、光に照らされる翅の色にふと気づく。
「……真っ黒じゃない」
夏空よりも深い、濃い青色の翅。今まで何度も見かけたはずなのに、その色に気づかなかったらしい。どうしてだろう。
カラスアゲハは真っ黒ではないのだ。
無意識に黒いものを怖がっていたからその翅の色に気づかなかったのか、幼い頃だったから一も二もなく黒と思い込んでそのままだったのか、それとも。
「××ちゃん」
もう一度懐かしい声がした。どう、真っ黒じゃないから怖くないでしょ。そう言われているようで私はふっと力なく笑いかける。
「怖くないよ」
それだけ呟いたら、カラスアゲハは少し上下して抜けるような夏空へと消えていった。
姉の死から二十年も経った、お盆近くのことだった。