樹憶と死神
無人になって長い隣家の庭の老木は、真冬の夜に花を咲かせた。
「いかがです」
「いえ、酒は嗜みませんので」
「そうですか」
――不思議なこともあるものだ。そう思いながらコップを呷る。
窓辺から見下ろした老木の枯れ枝いっぱいに咲く薄紅の花はぼんやり発光していて大層美しい。冴え冴えとした冬の空気にぴったりで、私はこんな夜桜見物も良いものだと電灯も消した自室の窓辺から眺めて喜んでいたのだが、先程唐突に訪ねてきた専門家に言わせればどうもこれは桜の木ではないのだという。
「思い出しているのでしょうね」
「はあ」
専門家は私の隣に立って同じように窓辺から桜を見下ろし、嫌みなほど美しい横顔でそう言った。断られた分の酒を空け、私は続きを促す。
「稀にあることですよ。まあ、普通は自分の花を咲かせるのですが。……ああ、向かいの家に桜があるようだ。だからでしょう」
「木が? 何でそんなことを?」
「死ぬからです。向かいの桜に恋していたのかもしれない。誰だって美しい思い出の中で亡くなりたいでしょう」
「はあ」
私の曖昧な返事に男は口の端だけを上げる。そういえば何の専門家なんだろう。冬の夜桜の話はどこから。それに何でこの家に。「どうしてそんなことがわかるんです」、聞きたいことの代わりに口から滑り出ていたのは別の言葉だった。
男はようやくこちらを振り向き、にっこりと笑う。
「僕は木の死を見届ける専門家なので」
「……。そうですか」
一瞬言葉を失うような凄い笑みで、それ以上踏み込むことはできなかった。また不思議なことに先ほど聞きたかったことの答えにもなっていて、私もつい口をつぐんでしまう。そう、確かに男は死神めいているのだ。
夜のような真っ黒な服を身に纏い、同じく黒い長髪をひとつにまとめた端正な顔立ち。これだけきれいなのだ。ならばそういう専門家であっても不思議ではない。
「もうお帰りですか」
「はい。晩酌中失礼しました」
「いえ」
専門家は気が済んだらしく、急に玄関の方へ歩き出すと、来た時同様丁寧なお辞儀をしてあっという間に扉から出ていった。何だか全く現実味もない、酔いの間の夢のような体験だと思いながら私は窓辺へ戻る。
「あ」
隣家の庭を見下ろして驚いた。先程まで薄紅に発光していた夜桜はあっという間に闇に溶けて、寒々とした老木が突っ立っているばかり。
「……死んじゃったのか」
専門家の言う通り、冬の夜桜は木が死ぬ前の最後の光だったのだろう。ならばきっと、それを見届ける人も必要なのだ。だってあんなにきれいなもの、誰かが見てあげないと。
「良い仕事だなあ」
私は空き缶を片付けながら、そんなことを考えていた。