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氷のような怪物の

 氷で作られた人魚像の前に文士が立つと、なるほどその美しい怪物は透き通った青い瞳をぎょろりと動かし彼を見た。
「先生、もう帰りましょう」
 文士の横で傘を差しかける小使いは震えながらもしきりに帰ろうと勧めている。雹の容赦なく降り注ぐ地獄のような夜。極寒の防波堤に佇むこの青く澄んだ人魚の氷像は三メートルもの大きさと、何百年もの長い時を経ても未だ「生きている」という噂ゆえに怪物と呼ばれていた。 
「何の用だ」
 文士の頭上からは地を這うようなしゃがれ声が響き、小使いはひっと悲鳴を上げて傘をガタガタ揺らし出す。果たしてこれが人魚の出す声か。
「ははは。押し掛けてすまないねお嬢さん」
 小使いの様子など意にも介さず、老紳士が一人進み出る。整った総白髪と口ひげに穏やかな瞳。好々爺然とした彼は震えのひとつも見せぬまま人魚像を見上げ微笑んだ。
「僕はNというしがない三文文士だ。何でもこの辺りには美しき氷の人魚がいると聞き、急いで取材にやって来たというわけだ」
「せ、先生」
「君のことを書かせてくれないか。興味がある」
 文士の自己紹介は謙遜であった。書けば飛ぶように売れる彼の小説を知らぬものなど日本におるまい。民話やおとぎ話をベースにした穏やかな筆致。人をよく惹きつけ、また彼自身も素晴らしき人格者と讃えられた。
「何を今さら!」
 人魚は雷鳴のように咆哮する。
「貴様ら人間が私の同胞を全て殺し、私の声を奪い、あまつさえここに縛り付けて見世物にしたのだろうが!」
「なるほど素晴らしい!」
 港の船をも揺るがしそうな人魚の声に小使いはとうとう傘を放り出し耳を塞いで縮こまったのだが、辺り一帯響き渡ったのはむしろ咆哮に呼応した文士の叫びの方であった。人魚の宝石にも似た青い瞳は大きく揺れ、たじろいでさえいるようである。雹はますます激しく降り、荒れる波の音が静寂を打ち消す。文士はただの一歩も後ろに引かず、むしろ嬉しそうに前へ歩み出で、憑かれたように喚き出す。
「何と素晴らしい嘆きの言葉か! 何と素晴らしい創作の種か! この三文文士がきっと君のお役に立ってみせよう。人々はもう、私の書く優しい物語には飽き飽きなのだ。私もそうだ。復讐劇、大いに結構! さあ是非とも君の悲しい物語を聞かせてくれ!」
 人魚の氷像は奇異なものを見るような視線をしばらく文士にくれていたが「お前もまた怪物か」と諦めたように笑い直し、よかろうと頷いた。小使いはその頃になってようやく耳を塞いでいた手を離して傘を拾いに走っていった。いつの間にか雹は止んでいた。

「もう一度あの町に行かないかね」
 文士の出した悲劇の人魚の物語は異色作として世で受け入れられ、あっという間に舞台の港までもが知れ渡った。そしてこの田舎の港町は、意地悪な人々の住む場所として噂されるまでになった。怪物の復讐は成功したようである。
「今度は町の人たちの心情を書きたいのだ。悪意ある噂を立てられるのはどんなものか」
 かの人魚の復讐などどうでも良いと言うように、文士は人好きのする笑顔を浮かべている。小使いは誹謗を受けているかの港町出身である自分にさえそれを言う文士の異常さにようやく気づき、その時初めて戦慄した。

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