終末美術館
終末の世の中に、新たにオープンした美術館がある。周囲は皆物好きなと言って敬遠していたが、私はどうしても気になって訪れることにした。どうせ壊れる世界に生まれた命なのだから、価値ある美しいものを見て死にたかったのもある。
「入館料は無料です」
誰も住まなくなった住居が半ば崩れても、人がいれば自然と道ができていく。かろうじてガレキを押しのけられた道の奥に目立つ真新しく真っ白な箱へ入ると受付のお姉さんが顔を上げて会釈した。終末の世界でもたまにこうして人間社会らしい一面に出会い驚くことがある。この事務のお姉さんは二十代前半だろうか、あるいは同い年くらいかもしれない。とても私には真似できないことだ。労働など金銭が価値を失ったときに諦めてしまった。
「すごいな……」
入ってすぐ目を奪ったのは濃淡色とりどり、形も様々のカラータイルだった。壁、床、天井がカラータイルに埋め尽くされ、あちらには夕日、足元には草原、窓には海、あるいは砂漠の太陽と様々な表現がなされている。タイルは円形のもの、カットされたもの、ギザギザのものなど大きさも様々、何とも鮮やかで、それでいてステンドグラスのように透き通り空もガレキだらけの外もうっすら抜けて見えている。
世の終わりに開かれた美術館だというから、さぞ無機質で、苦しみを表す場所かと思っていたのに。広くもない一続きの間であるここで、思わず色酔いをしてしまいそうだ。
(石か? これ)
怪我をしないための工夫だろう、足元はガラス張りだがその向こうは緑色のタイルで埋められている。向こうには砂漠エリアもあるようだ。原初に戻り、石で芸術を表す試みだろうか。しかし、タイルにしてはずいぶんとまばゆい。
(いや、これは)
「ご来館ありがとうございます。当館の館長です」
「ああ、これはどうも」
革靴の音を響かせて、まるで前世紀の絵本から飛び出してきたかのような紳士が現れた。しゃがんでじっと自分の足元を見つめていた私はなんだか恥ずかしくなり、立ち上がって会釈をする。恰幅の良い白髪の好々爺。スーツを着たサンタクロースとでも言えそうだが、今の世にしては珍しく口髭はきちんと刈り揃えられていた。
「これは宝石……、ですか」
館長、という肩書きに思わず真偽を問いたくなって、さっき圧し殺した疑問を投げ掛ける。館長はにっこり微笑んでしかし首を振った。
「いえ、石です。ただ色が美しいだけの」
「そんな馬鹿な」
どう見たってタイルの一つ一つは美しくカットされた宝石と、またはその原石とであった。形もバラバラなそれらを組み合わせて、ありし日の自然を描いている。
館長は私の疑問を当然というように首肯して、そして笑顔を崩さぬまま問いかけた。
「あなたは何をもって『宝石』と判断されていますか? 硬度? 美しさ? 珍しさ?」
「それは、何か『宝石』と決められるそういう基準を……」
「誰が決めた基準なのでしょう?」
言葉と共に館長の開いた瞳は青く澄んでいて、思わず息を飲み込んだ。
「金銭もようやく価値を失えた。この世界が終わった後、『宝石』と決められた彼らもようやくただの石ころに戻れる」
私は何となく館長の身に付けているものに目を配る。仕立ての良いスーツ、質の高そうな革靴、重厚な装飾のついた杖、胸に抱えられているのはスーツと色の揃った濃茶の帽子。どれもきっと上等のものだ。この人はもしかしたら、世界の終末が判明する前にはそれなりに高い地位の人だったのかもしれない。私と違って。
「当館は人の世で人に振り回された彼らに安らかな終末を与えることを目的として開かれました。……ああ、これは失敬、パンフレットを受付でお渡ししていないな」
館長がパンフレットを渡してくれたことでようやく私ははっとした。彼はにこにこと笑いながら順路を指し示す。
「働きを終えた世界に、石に、人に休息を。価値など世界が滅べば無価値です。どうぞゆっくりご観覧ください」
私はようやく会釈だけを返すとまっすぐに順路を行く。しかし美しく光り輝いて表現されたはずの海の窓も、砂漠の床も、森の壁もどうしてか目に入らなくてただ館長の言葉をぐるぐる考えていた。
世界が終わることでようやく価値をなくせるもの。初めから壊れることが決まっている世界に産まれた価値ない命。終末を迎えればいずれどちらも等しく無に還る。
バカみたいに起きる自然災害、ヤケも起こし疲れて打ちひしがれている人々。何とも無駄なことだ。変な気を起こして美術館など来なければよかった。こんなことをしたって、しなくたって、この世界は壊れるし、あるいはとうに壊れている。
こんなところ、来なければよかった。知らなければよかった。
「もしもし」
美術館を出てすぐ電話を掛ける。相手の声が心地よく響いているうちに首尾よく用件が終わった。パンフレットの裏にあった受付事務員の求人募集を見返す。
無駄だと分っているはずなのに、何でこんなことをしたのか自分でも良く分らなかった。それでも心に後悔はないから、間違いではないのだろうと無理やり納得すると、ガレキを押しのけて無理やりできた道を家に向かって歩き始める。
もう一度だけ、あの真新しい美術館を振り返った。