茶を啜る老人
どこだか見知らぬ真白い壁の部屋で、老人と差し向かいに座っている。座っているからには互いに椅子に腰掛けていて、間には卓がきちんと挟まっている。足元は板敷のようである。
老人は新聞を読んでいる。薄くなった半白の頭に皺くちゃの顔をくっつけて、気難しそうな表情を貼りつけている。着古された鼠色の単衣に、濃緑の羽織である。時折老眼鏡を直すしぐさに見覚えのありそうなものだったが、それでいてやはり全く知らない人物のようだ。
老人は茶を啜る。奇妙な夢だとNが考えていると、茶がなくなったらしく、しわがれた声で不機嫌そうに、老人はNに指示をする。
「おい。茶を注いではくれんかね」
「ええ。ただいま」
自らの意に反して飛び出した言葉と、自らの意に反して動き出す足を不可解に思いながらもNは座を立つ。
どうやら足と手の方で、茶筒のある場所もやかんのある場所も知っているようであった。
知っているようではあったが、果してそれがどこなのかも分らぬままに、気づけばNは熱い茶の入った急須を手にしていた。
そして気づけば、老人の湯呑茶碗を手にして注いでいた。
湯呑茶碗は年季の入った紺の地で、縁を白く染めた富士山のような柄であった。
――貧乏老人め。
確かに富士山柄の湯呑茶碗はそう高そうでもないが、Nはそれだけのことでなく容易でない悪意を、見知らぬ老人に抱いていた。
老人は一口茶を啜ると、気難しそうな顔をさらに難しくして見せた。
「何だこれは。ぬるいではないか」
突っ返された湯呑を手に取ると、Nは思わず取り落としそうになった。
渡した時よりも随分熱くなっていた。しかし老人は平気そうな顔をして、新聞を読み進めている。
「淹れ直してまいります」
Nはまた足と手の任せるままに茶を淹れる。今度は先ほどよりも随分熱い茶をやっとの思いで運び、老人に手渡す。
老人はまた一口啜って、変な顔をする。
「まだぬるい。何故だ。いつもならもっとよく淹れられるだろう」
「淹れ直してまいります」
老人は訝しんでいる。Nは、自らが老人のことを全く知らぬ、または全く覚えていない人間であることを悟られてはなるまいと感じ、少し焦りながら再び茶を淹れに戻る。
足と手ばかりに任せていてはきっとまた失敗する。そうすれば老人は、俺の正体に気づくかもしれない。俺が、老人のことを全く知らない人間だと気づくかもしれない。そうならぬように、煮えたぎるような、熱い茶を淹れてやらねばなるまい。
Nは考えられうる限り最も熱いであろう茶を淹れて老人のもとへ運んだ。
「ああ。これだ。よく淹れられたな」
「恐れ入ります」
老人は漸く満足したらしい。Nは再び老人と差し向かいに座る。茶はまだ煮えたぎっている。煮えたぎる茶は、赤銅を溶かしたものであるとNは知っている。
Nは、地獄の裁判官が溶けた赤銅を飲む話を思い返していた。