鬼の棲んだ森
真っ赤な楓の中を走り抜ける。後ろから迫りくるのは悲鳴にも似た「待て!」の叫び。落ち葉を踏み抜くような一人の足音。誰が追っているかは知っている。鬼だ。逃げ出した先も知っている。捕まって八つ裂きにされるのだ。それでも今しか時間はない。もう二百年も鬼の奴隷だったのだ。
「どうして逃げる! 逃げたらお前は」
追っている側のくせに却って追われてさえいるような悲しみ方だ。振り返りそうになって首を振る。どうせ鬼の顔はこの紅葉に紛れて見えにくい。向こうからだってこっちを見つけにくいはず。振り向いてはならない。こちらの方が小回りが利く。随分距離が開いた。今だ。足音を忍ばせて木の上へ。鬼にはできない芸当のはずだ。そもそも地面に散らばる大量の落ち葉は逃亡には不適だった。しかしどうしても、今しかなかったのだ。
(……)
木の上で彼女は呼吸を整える。余裕があれば美しいと息を呑むような、真っ赤な楓と銀杏、赤茶けた桜の林立する山。この山はとても美しかった。だから鬼も気に入って、頂上に庵を結び結界としたのだろう。
生贄にされてからのこの二百年。何も、ひどい扱いをされたわけではなかった。それはもう大切に丁重に扱ってくれた。私を食うのかと問えば食わぬと言い、家事をしようかと問えば人は体が弱いのだからいらぬと言った。
「生贄を、奴隷を希望したのではないのですか」
「そうだ。毎日おれの傍にいてくれる者を欲した。愛させてくれる者を欲したのだ」
ある日問うたことへの答えはそうだった。寂しい鬼だと思った。ならば命尽きるまで傍にいるくらいなんでもないと考えた。どこが奴隷だ、居るだけでいいのなら努めようと思った。
しかしそう思えたのは、初め百年の内だった。
毎日毎日時も経つことのない結界のなかで、代わり映えのない日常を過ごす。何度季節が巡っても代わらない言葉を交わしておままごとのような毎日を過ごし、愛され甘やかされる日々が続く。
これが鬼の寿命尽きるまで続くと思ったら、気が狂いそうになった。
「なぜ逃げる、あんなに大切にしていたのに」
木の上で、泣き叫びそうな鬼の声を聞く。鬼の言い分は間違っていない。間違っているのはこちらだろう。しかしこの、死ぬこともない毎日をただ無為に過ごすことの、これのどこが、奴隷でないのだ。
「愛しているのだ」
その言葉には耳を塞いで、二百年ぶりの変化を求めて、木の上を慎重に伝いながら彼女は結界の半歩先へ足を伸ばした。
「どうして……」
白骨の前で鬼は慟哭する。つい先ほどまで生きていたのに。結界の外へ出れば生きられぬと教えたのに。たった二百年前に手に入れたはずの人間の伴侶は、初め優しかったはずだった。おそろしい見た目から、嫌われぬようにと気も使っていたはずだった。
「どうして、こんなことをしたのだ」
もう返事もせぬ白骨に問いかける。そう言えばここ百年は塞ぎこむことが多かったように思う。どうしたのだと問うてやれば良かったのか、それとももっと大切にすればよかったのか。人間はどうしてこうも儚いのか。
「……仕方あるまい」
鬼は白骨を丁寧に埋葬する。人の真似をして、墓のようなものも作ってやった。
そうして鬼は次の贄を求め、――人里へと下りることにした。