白昼夢
進太郎が目当ての宝物を見つけたころには、辺りはもうかなり暗くなっていた。
「……いた」
驚かさないように小さな声で呟く。うっそうと茂る森林の中、進太郎が身を隠している木から二三本離れたクヌギの木。その樹皮が破れたところにたくさんの虫が集まっているようで、もうその時には暗闇に慣れ切っていた進太郎の目に、はっきりと大ぶりの角が目に入った。一匹だけだ。緑色に輝いているカナブンがたくさんいて、小柄のミヤマクワガタが二匹、メスのカブトムシが一匹。しかしその隣には確かにオスのカブトムシがいる。
見つけてはじめて、進太郎は辺りがもうずいぶん暗いことに気がついた。同時に、網を川の近くに置いてきたことにも気づきぎょっとした。
もう時間はないというのになんてことだ。元気者の進太郎も、さすがに、手づかみで虫を捕まえたことはなかった。バッタやカマキリぐらいなら捕まえられるが、カブトムシは一匹しかいない。何よりもう時間がない。ここで逃してしまったらおしまいだ。
「……」
あいつなら手で捕まえてるんだろうな。そう思った瞬間、進太郎は覚悟を決めてそろそろと、目的の木に近づいた。
――後ろから、そっとだ。木に捕まる力も強いから気をつけて。
自分で思ったのだか、誰かの声だか分からないアドバイスが何となく聞こえてきて、進太郎はその通り手を伸ばした。一瞬の勝負だ。
「あ」
堅い感触が手に触れ、指の間でカブトムシがもがく。逃がさないよう、潰さないようそっと木から外して、興奮冷めやらぬまま虫かごに入れると、そこから進太郎は走った。
初めて自分で捕まえた。その興奮と、勝てるかもしれないという興奮と、綯交ぜのまま進太郎は走った。
もう日はとっくに暮れている。あいつを家に帰してやらなきゃいけないし、悟のことも放ってきてしまった。
「やった……、やった!」
そんなことを考えてもいたが、一方では自分でカブトムシを捕まえられた嬉しさと勝てるかもしれないという期待が勝っていた。
随分森林の奥まで来ていたはずだったが、どうしてか集合場所への道は何となくわかった。虫かごをできるだけ揺らさないように気をつけながら進太郎は走り続けた。
ようやく集合場所へたどり着いた。街灯なんてないから、もう真っ暗だ。
「進ノ介? いるのか」
静かな山には自分の声しか響いていない。もう帰ったのだろうか、そうだよなと思いながら足元を見ると、何かが動いていた。
舗装されていない道路には動いているのはミヤマクワガタの小さいのが一匹。
「あ」
進太郎は根拠もなく、これは進ノ介が捕まえたものに違いないと思った。嬉しさがじわじわと上がってきた。勝ちだと思った。違いない。暗くなったから帰ってしまったけど、勝負のために置いていったんだ。きっとそうに違いない。
そして進太郎はミヤマクワガタも虫かごに収めると、ニヤッと笑った。どう見たって、自分の勝ちだ。
「やった! 見たか進ノ介! 俺の勝ちだぞ!」
静かな山に声が響いた。今度あいつに会ったら、クワガタもカブトムシも出して目の前で大きさ比べをしてやる。そこから虫相撲をしてやったっていい。
進太郎がそんな風に勝利の空想を色々巡らせていると、目の前がチカッと光った。何だろうと思う間もなく、大人の足で走るような音が近づいてくる。
「……進太郎!」
「父ちゃん」
懐中電灯の逆光のせいもあっただろうが、その時見た父の顔は今まで進太郎が見たことないほど恐ろしかった。
進太郎の勝利の雄たけびの後に響いたのは、彼の父の怒声である。
「お前は今の今までどこに行ってたんだ! 今皆でお前ひとりを探しに出ているんだぞ! 悟君が教えてくれなけりゃ……」
山に響くのも気にせず進太郎を土の上に正座させ怒る父の声に、一つ二つと懐中電灯の光が集まってくる。
ざわざわという喧騒と、彼が見つかったことを知らないのか「進ちゃーん」と叫ぶ聞き知った大人の声があちこちで響いている。
さっきまでは聞こえなかったはずなのにおかしいなと思ったが、父が度々「聞いているのか」と叫ぶので進太郎には考える余裕もなかった。
ただ怒声の中、言い訳のようにして経緯を話し、そして進ノ介はもう帰ったのかとだけ進太郎は聞いた。
「……進ノ介?」
「これくらいの、俺より小さくて、着物着てて……」
一瞬だけ、怒っていたはずの父が驚いたような顔をした。
どうもその名前に覚えがあるらしく少し思案した様子を見せ、そしてすぐに首を振り、「だとしても」と説教に戻った。
周囲の人が「まあまあ」となだめ始めるまで、二十分はかかっていたように記憶している。
それから進太郎は、結局進ノ介に会うことなく父に連れられ帰宅の途に就いた。叱られたのは不本意だったし、まだ勝負もついていないが父は進ノ介について知っていそうだから、きっとまた会えるのだろうと暢気に考えていた。
田舎の夏の夜は、星が良く見えていた。肌を刺すようだった昼の日差しは身をひそめて、じーじーと鳴く虫の声が代わりに埋め尽くしている。風は爽やかで、涼しかった。
空を見上げながら歩く進太郎に父は振り返って声をかけた。
「進太郎」
その声はもう怒っておらず、いつもの、少々のやんちゃくらいは笑って許してくれる父の声だった。
進太郎は未だどう答えたものか迷っていたから、顔だけ上げて返事をする。
「……」
「その『進ノ介』っていう子供については家についてから教えてやる」
進太郎の様子を苦笑して見つめながら父は言い、やがて進太郎の虫かごの中身を尋ねてくれた。
カブトムシを捕まえたよ。クワガタもいる。それはすごいな。父は褒めてくれたが、進太郎はそれよりも、また進ノ介に会う日のことだけが楽しみだった。
語り終えた進太郎は満足しきったような表情でアイスコーヒーをもう一杯注文した。
そろそろ夕食の時間も近く、外からはじーじーと虫の声がする。夕陽もかなり傾いているが、外はきっと蒸し暑いのだろう。
進太郎は外の風景を眺めている。悟は進太郎の不思議語りの感想を言うでもなく、何となく聞いてみた。
「お前からすると随分田舎だろう。数年ぶりに帰ってきてみて、どうだ」
「ははは」
進太郎は笑った。ちょうどアイスコーヒーが運ばれてくる。
ストローで中身をかき混ぜながら、俯いて静かに呟いた。
「忘れそうになる。あんなに楽しかったのに。それはいけないと思った」
「……何がだ?」
悟は進太郎の表情と対峙して、はっと気づいた。
「ふと、誰かの息子であることとか、誰かのひ孫であることとか。昔あった不思議なこととか、虫取り少年だったこととか。ここの風景とか。……忘れそうになる。夢だったんじゃないかって。白昼夢だったんじゃないかって思う」
こいつは初めから、こんなに疲れた顔をしていただろうか。
精悍な顔立ちは昔と変わらないが、どこか少し老けても見える。
「どうしたって忘れたくなくて、目の奥に焼き付けたくなって、帰ってきた。……どうだ、これも都会人の意見か」
「いいや」
悟は首を振った。そう言えば進太郎は、山狩りのあった日から急にわがまま大将ではなくなったような気がする。
ガキ大将はガキ大将だったが、それでも人を置いて行ったりすることや無鉄砲さは鳴りを潜めた。何でもできて一番だったが、それを鼻にかけることもなくなり名実ともに人気者となった。
きっとそれだけ、こいつにとって印象深い、思い出深い出来事だったのだろう。
そんな出来事をまるで嘘だというように一蹴した自分の言動を悟は思い返す。忘れていたのは自分も同じなのかもしれない。気がつけばあの土地に、コンビニの前は何が建っていたか思い出せなくなっている。何より進太郎の行方不明になった事件なんて、彼が言い出すまで思い出せなかった。
二人の間のテーブルに西日が射している。悟は顔を上げた。
「……虫取りでもするか」
「今じゃあ熱中症になるぞ」
進太郎に笑われながら、悟も窓の外を見つめた。
蒸し暑いだろう景色の中、田んぼの苗だけがその青々とした葉を空に向かって伸ばしていた。