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それは苺の乗ったレアチーズケーキ

 優しくしかし急かすように説教を続ける父が終日家にいた日曜日の憂鬱は、夜が明けてもなかなか晴れそうになかった。
 父にとってフリースクールとは悪魔の呪文らしい。いや、フリースクールそのものと言うよりも、父の描いていた理想コースを瑞樹が外れそうになっていることが何より悔しいといった様相で、お気に入りらしい「手間隙かけて育てた野菜が不良品だった時の農家のような気持ち」というフレーズを何度も繰り返し、瑞樹はその夜野菜の追っかけてくる夢にうなされた。
(……良い天気)
 よくない寝覚めと裏腹に、空はきれいに晴れている。
 季節は冬から春に移り変わりつつもあったので、きっと苺を使った新メニューも出ているだろうと大きな期待をしながら、瑞樹は馴染みの喫茶店の扉を開けた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
「え?」
「いらっしゃいませ、瑞樹ちゃん。……河合(かわい)、何でお前まで言うねん」
「言ってみたかったんだよ」
 いつもより一つ多い出迎えの声。顔なじみの店主に河合と呼ばれた男性はカウンター席で悪戯っぽく笑った。
 ダークウッドを基調とした落ち着いた店内には、いつもの通りJPOPのジャズアレンジが流れている。
「お前な。ああ、ごめんな瑞樹ちゃん、お好きなお席にどうぞ」
「う、うん」
 店主の川原は一つ息をつくと、瑞樹に席を促す。今日は河合と瑞樹の他に客もいないらしく、どの席でも選べる状態だった。
(あ、でも、取られちゃってる)
 空席は多いのだがいつもの瑞樹の特等席、カウンターを挟んだ店主の真正面のまさにそこに河合が座っているものだから選びあぐねて瑞樹は辺りを見回した。
 それを戸惑っていると取ったのか、河合はその端正な顔でにっこりと笑いかけた。
「瑞樹ちゃんって言うの? よければ俺の隣も空いてるよ」
「じゃ、じゃあお邪魔します」
「嫌がってるやん、無理やり座らしなや。……瑞樹ちゃん、無理せんとソファ席でええで」
「ううん、ここで大丈夫」
 川原は助言してくれたが、お冷を持ってきたらしいいつもの女性店員が所在なさげに苦笑しているのを見て心を決めた。
 第一、ソファ席では川原と話がしにくいし、寂しい。
「ほら、俺の隣来てくれた。いい子だねえ」
「気遣いしいやからな。ごめんな瑞樹ちゃん。こいつに奢ってもらい」
「えー? いいけど」
「ええんかい」
「ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ光栄ですお嬢様」
「三文芝居やないか」
 ははははと、二人が和やかに笑うのにつられながら、瑞樹は河合をじっと観察した。
(……綺麗な人だなあ)
 男性に、しかも年かさの人間に思うべきことではないかもしれないが、それでも美しい細面の横顔であった。
 足も長く、すらりとした体に纏った清潔そうな白いワイシャツと黒いベストが、シンプルながら野暮ったくなくどこかしゃれた雰囲気だ。年は川原より少し若いか同い年くらいだろうか。
 昨日散々味わう羽目になった父の雰囲気と全く違う――、という感想を頭から追いやって瑞樹はメニューを開き苺を探す。河合はその動作を年長者特有の慈愛をもって見つめていた。
「瑞樹ちゃん、高校生?」
「えっと、ちょっとだけ違うよ」
 所属は「高校生」だが、通ってはいない。いつもならここで「高校に行っていない不良だ」なんて冗談混じりに自己紹介するところなのだが、先日知り合った人にも釘を刺されたし何となく答えあぐねて瑞樹は言い淀む。何より今は、そう言えば自分が傷つくような気もした。
(……もう当分は、お父さんの顔見たくないなあ……)
 河合が何か言いかける前に、川原が助け舟を出す。
「ほら河合、初対面でおっさんがいきなりぐいぐい来たら話しにくいて」
「ええ? 俺まだ若者のつもりでいるよ。ねえねえ、瑞樹ちゃん、俺らどっちが若く見える」
「え? ええ?」
 別のことを考えていた瑞樹はメニュー表から顔を上げ改めて河合と川原を見比べる。あっさりと答えは出たのだが、川原の手前もあり逡巡した様子を装って二人の表情を窺った。
 川原は「また始まった」というような呆れを浮かべている。じゃあ答えても問題ないだろう、と瑞樹は素直に感想を口にする。
「河合さんの方が若く見える、かな」
「やった。嬉しいなあ。まあ役者だから多少有利だね」
「役者さん?」
「そうだよ。舞台役者。テレビもちょっとだけ出てる」
 案外なことに面喰ったが、それでも瑞樹は漸く彼の若々しい容姿に合点がいった。また河合の正体が分かったことで、初対面特有のはにかみがどこかへ霧散していくのを感じていた。
 そう言えば人より少し大きな声もしているし、発声もはっきりしている。
 川原が驚いたような顔をした。
「何や珍しい。普段自分から言わへんのに」
「いいじゃん」
「ふふ。あ、おじさん、苺のレアチーズケーキと、いつもの紅茶」
「おおさすが、目敏く見つけたな。苺のレアチーズケーキとダージリンのストレートね。少々お待ちください」
「女の子だなあ」
「苺が食べたかったの」
 喫茶店に来た甲斐があった、瑞樹がそう笑うと河合も頷く。珈琲を一口飲んでから続きのように河合は話し出した。
「瑞樹ちゃん舞台は? 見たことある?」
「中学の時に、文化祭で見たかなあ」
 瑞樹はおぼろ気な記憶を呼び起こす。中学の文化祭。タイムスリップしたシンデレラの話で、人気のある先生や生徒の内輪ネタをてんこ盛りにした、劇なのだか漫談なのだかよくわからない代物を見たきりだった。
 河合はうんうんと頷く。
「なかなかねえ。それこそ役者じゃなきゃ見ないよねえ」
「うん。あ、そのチラシ、河合さんが出るの?」
「そうだよ。ヒロの言う通り目敏いなあ」
 河合はカウンターに積んであったチラシを一枚、瑞樹に手渡す。舞台は大正か昭和頃だろうか。見慣れぬレトロな雰囲気の衣装を纏った役者が目に留まる。中央には美しいがどこか虚ろな目をした女優。タイトルは漢字だが難しくて読めなかった。
(あれ、河合さんどこだろう)
 公演チラシの重苦しい雰囲気に圧されたのもあって、瑞樹はすぐに河合を見つけられなかった。
 忙しく目を動かしていると、ここ、と河合が指を指してくれる。挑むような目でこちらを睨み付ける壮年の男性が居て、瑞樹は思わず河合とチラシとを見比べる。
「全然違う」
 にこにこと、年少に対する慈愛で瑞樹を見つめる河合の雰囲気とはまるきり違っていて、瑞樹は呟く。いつのまにか厨房から戻ってきていた川原がくすっと笑ったようだった。 
「ありがとう。……瑞樹ちゃん、よければ舞台を見においでよ」
「舞台を?」
「お待たせしました、苺のレアチーズケーキです」
「ありがとうございます」
 女性店員がケーキと温かい紅茶を運んできて、瑞樹は反射的に頭を下げた。粒揃いの苺がたくさん乗ってきらきらと輝いている。
「そう。劇場はいいよ。それに俺は瑞樹ちゃんに舞台を見てほしい。あまり触れたことがないのなら尚更、劇場に来てほしいな」
 河合はじっと瑞樹を見つめる。熱心に誘ってくれる理由が何かありそうな気がして瑞樹は何故、と聞いてみた。
「劇場ではね。演者も観客もみんな、『いつもの自分』から脱却できるんだよ。まあ俺たちはもちろん頭の中ではあれがこう来て、これがああ来てというような計算はしているわけだけれど――」
「……お客さんも?」
 ジョークを交えながらも真剣に話す河合の目が輝いているので、瑞樹はつい続きを促した。
「そう。お客さんもだ」
「舞台に上がらないのに?」
「面白いだろう」
 河合は瑞樹の言葉を肯定する。会話を邪魔しないように、川原がそっとダージリンのカップを置いてくれた。河合も珈琲のおかわりを注文する。
 瑞樹はチラシに目を落とした。非日常的な衣装の登場人物たちが、様々な表情でこちらを見つめている。豆を挽く音が響いている。
 ――「いつもの自分」。
「劇場に来るとね。どんなお客さんも皆『いつもの自分』から一様に『物語を見る一観客』になってしまうんだ。普段の悩みも何も捨てて、物語に没頭できる。その、没頭する時間を作る、手伝うのが俺たちの仕事だ。そのために、お客さんに『日常』を捨ててもらうために俺は『河合夏生(なつき)』ではなくこの陰険な、片足のない元軍人になるんだよ」
 ――「若いよね。高校生?」
 ――「うーん、ちょっとだけ違うよ」
 河合の真剣な目は、先の会話で全てを見通してしまった故のものではないかと、何となく瑞樹は確信していた。
(……)
 自分も日常も捨ててただの観客になって、一時の休息を得る。喫茶店でも十二分に得られているが、より一層物語のなかに没頭するのもきっと、楽しいだろう。
「もう一つ劇場のいいところは、ドラマを見ている最中のように『ごはんよ』とか『早くお風呂入りなさい』と言ってくるママもいないことかな」
「ふふふ」
 ――父の説教も、母の気遣わしげな視線もない場所。
 確かにいいかもしれない。瑞樹は苺を口に運び、うんうんとうなずいた。
 川原がふっと笑って珈琲を差し出す。
「口説き終わったかいな。珈琲どうぞ」
「えー、ヒロ、人聞き悪くない?」
「大事な常連さん守っとんの。……まあでも、確かに良い舞台やったし俺も押しとくわ」
「でしょ。少なくとも、若い女の子に疲れた顔はさせないと思うよ」
(あ、やっぱりバレてる――)
 現役舞台役者のウインクは、芝居がかっていながらも不自然さがなく、それでいてどこかお茶目で、瑞樹は自然と心が軽くなっていた。
 
「お母さん、この人有名な俳優さんなの?」
「河合夏生? まあ、いわゆる名脇役ね」
 帰宅後夕飯を終えた瑞樹は、母と共にドラマを見ていた。
 ――「そうだ。散々舞台の魅力を語っておいて何なんだけど今日の『バディ』よければ見てね」。
 瑞樹もよく知る高視聴率ドラマ。知性の初老刑事と体力の若手刑事が様々な難事件に対峙するストーリーだ。河合演じる、飄々としてお茶目で、それでいて狂気の犯人は、二時間スペシャルのゲストにふさわしかった。
 昼間に会った、優しげな男性と同じ顔をしているのに「河合さん」はどこにもいない。「没頭させる手伝いをしている」。こういうことか、と何となくわかった。
「瑞樹、そろそろお風呂入りなさい」
「え」
「お父さんそろそろ帰ってくるのよ」
 気づかわしげな母。エンドロールに差し掛かった辺りのことだった。

 何でも載っているウェブの百科事典には、例にもれず河合夏生の経歴も載っていた。「高校中退」の文字を見つけて、瑞樹は思わず目を見開く。もしかしたらこのこともあって、気を遣ってくれたのかもしれない。
(また会えたらいいなあ。でも忙しいよなあ)
 湯上りの体をベッドの上でごろと転がし、同時にがばっと跳ね起きた。
(やばい)
 階下から、父の帰ってきたらしい声がした。考えている暇はない。急いで部屋の電気を消し、布団をひっかぶって寝たふりに入る。せっかく今日は楽しかったのに、すっかり昨日のことも捨てて忘れきっていたというのに、現実に引き戻されたくはない。
 しかし瑞樹の三文芝居は、呪詛を吐く酒くさい父にさえ見破られるようだった。
「瑞樹。起きているんだろう」
「……」
 ――「いつもの自分」。
「俺の稼ぎを無駄にして、ごまかしの芝居ばかりうまくなって。頼むから、頼むからまともに生きてくれよ――」
(……)
 祈りにも呪詛にも似た言葉。父は優しくしかし急かすように説教を続ける。
 逃げることができるわけではない。ただしかし、どこかで少し「いつもの自分」を捨てられる場所がほしい。
 瑞樹はその夜、観劇の夢を見た。 

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