春雷
私の兄は、春のような人だ。
「春花、来てくれたのか」
彼の住まう離れに向えば、ぱっと花の咲くような笑顔で春花を迎えてくれる。
「ここ最近、来られなくてごめんね」
「いい。春花が来てくれたことが大事だ。それより何が食べたい。この間好きだと言っていたショートケーキもあるし、ドーナツもある。最近はパンケーキが流行りらしいな、持ってこさせようか」
「そんなに食べたら太っちゃうよ」
甘えた笑顔を浮かべる彼は春花より六つ年上だ。通った鼻筋に切れ長の目、いわゆる整った造形は平凡な顔立ちの春花と似ても似つかないが、まごうことなく実の兄妹である。春花にはもう一人兄が居るが、三人が実の兄妹である証拠には、地毛でありながらその少し髪色が明るいことだった。
散乱した日用品で荒れた居間を片づけながら春花は辺りを見回す。
彼が常にいるこの部屋は八畳ほどのスペースで古くなった畳を敷いており、余りもので少し古い、こげ茶の古いちゃぶ台が置いてある。その上にあるノートパソコンはちょうど何かのプログラムを動かしているらしく目まぐるしく動き「正」の文字を吐き出し続けている。彼の部屋ではこのパソコンだけが外界とつながっていた。
テレビはブラウン管だからとっくに動かないし、その他にあるものと言えば座椅子だけで、障子はぴったりと閉め切ってある。
その障子の破れ具合に目を遣った後、春花は満面の笑みで笑う春隆を見つめる。
「隆兄は何か食べたいものないの、作ろうか」
「俺はない。春花はどうする」
「私もまだ、お昼を食べていないから。……うどん?」
「そうだな。俺もうどんが『見えて』いる」
「じゃあ、見えた未来に従って」
春花はそのまま、居間から部屋続きの狭いキッチンに向かう。こちらはフローリングだが、春隆自身はめったに使わないから少し埃っぽい。冷蔵庫の中も、ほとんど春花の好物で埋まっている。ただ、端にはひっそりとうどんのあることがわかった。きっと春隆が準備していたのだろう。
ほとんど新品同様の鍋を取り出して水を入れ火をつける。めんつゆがないかコンロ下の戸棚を探していると、すぐ近くに気配を感じて春花は笑った。
「隆兄、そんな近くに居るとぶつかっちゃうよ」
「そんなの『見えた』か? 俺の見えないものも見えるようになったのか。春花はすごいんだな」
「ううん、見えないけど」
「でも、見ていないと、春花がいつ消えるかが分からない。それだけが俺には分からない。いつも俺はそれが怖い」
春花は振り返らないまま、春隆が怯えた目でこちらを見据えている様子を脳裏に見た。
振り返ると『見た』通り、竦むようなそれでいて睨むような視線とぶつかったので、準備していた言葉を投げる。
「私はそんな簡単に消えないよ。それに火を点けっぱなしで消えたら、離れが燃えちゃう」
「ああそうだ。確かにそうだ。俺が燃えて死ぬ未来は見えない。だから春花は今消えないな」
春隆は安心したのかほっと息をつく。だが春花から離れるつもりはなさそうに、卵や葱を探す春花の姿を見つめていた。
「良かった。良かった。……なあ春花」
「なあに?」
「俺は狂っているのか。未来が見えるのはやはり狂う元なのか」
きっと春花から返ってくる答えだって全てわかり切っているだろうに春隆は問う。
「……そうだとしたら、私も仲間だね。隆兄ほどは見えないけれど」
「同じところまで堕ちてくれるか」
春花は横目で、文字を吐き出し終わったらしい遠くのノートパソコンを見つめた。春隆が見た未来を打ち込んだものと現実との整合性を測って、全て「正」と診断し続けるプログラム。春隆はいつか「誤」の文字を見るためだけに、見えた未来を書き綴り続けている。
いつのことだっただろうか。ある日春隆はそれなりの地位にいる遠い親戚からの現実的な、つまりは金銭的な誘惑に負けて、幻想的な力を現実に転用した。それまでは小さなことに使って少しばかり要領よく生きていただけのはずだったのに、脅迫と懐柔の中で深みにはまり、柔弱な彼はやがてその罪悪感に苛まれた。
果たしてそれが今に至る初めだったか、彼の見た全てを書き起こしたのが初めだったか。
見えるもの全てを呪い恨み始め、親戚が彼から全てを搾り取ったからと壊れた彼を捨て去った今でも、彼は未だ恐ろしい夢と現実との間でうろうろしている。
「春花。同じところまで堕ちてほしい。俺と一緒に生きて欲しい」
「うん。兄妹だからね。きっと一緒だよ」
「嘘つきだ。そうやって春花は嘘をつく……」
春隆は顔を覆う。今日は未だ大人しい暴れ方でよかったと春花は心の底で思いながら火を止める。
しばらくぶつぶつと何やら呟いた後、春隆は大きな息をついた。
「でも俺には春花しかいない。だから俺は春花さえいればいい」
「……たまには晃兄も入れてあげてね」
「春晃は俺たちと違って、未来は見えないだろう」
冷淡な口調で切り捨てる春隆に、春花はかつて三兄妹で仲良く暮らしていた幼い頃を思い返した。
未来が見えるという能力なども、春隆と春花だけの秘密だった昔。どこにでもいる当たり前の三兄妹でしかなかった。
考えてみれば春隆は昔から、離れで厭世的に閉じこもる未来が見えていたのだろうか。過去を見る能力の備わらない春花には分からない。
「おうどん食べる?」
「食べる未来が見えている。少しゆですぎかもしれない」
「ごめんね」
「謝ることはない。でも春花が食後にケーキを選ぶかドーナツにするかは不透明だ」
「うん。私も今よぎったけど、分からない。分からなくていいんじゃないかな」
「その言葉は俺には酷だ」
春隆は悲しそうに笑いながらも、二人分の食器を用意し始めた。
この離れに二人分の食器が用意され始めたのは、春隆が少しずつ壊れてきてからのことだったと春花は思い返していた。
昼前に来たはずだったが、結局夕方まで引き留められていた。
だが母屋で夕食を食べる予定になっている以上、帰らないわけにもいかず、離れの玄関先まで見送りに来た春隆の絶望した顔を春花は見つめることになる。
「春花がこっちに住むのはだめなのか」
「どう思う?」
「その質問を俺にするのは酷だ。春花は今日はひどい」
「ごめんね」
「言い過ぎた。……俺には春花しかいない。お前しかいないのに、春花はいつも俺の前から消える。そしていつか、俺の前から消える」
春隆は俯く。
「耐えられない」
「また来るよ。また来るのも、知っているでしょう」
「だが寂しさは消えない」
むずがる春隆を何とかなだめて、押し問答のようなやり取りを十二回ほど繰り返した後、渋々了承した兄を置いて春花は母屋へと向かう。
背後では物に当たり散らす音が聞こえた。きっとまた次に訪れた時には、障子の破れもひどくなっているのだろう。
風に乗って桜の花びらが飛んできた。
「私が中学生の時、三人でお花見したなあ」
私の兄は春のような人だ。
春の天気のように不安定で、それでいて優しく弱い人である。