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​月のひかりと桜の精

 月の最も大地に近づいた春の夜。
 少女は大きな満月の光の下、桜色の真新しいスカートを宙にふうわり浮かばせる。
 背まで伸びた栗色の髪、喜色を映す円い瞳。お気に入りの靴で砂を踏みしめ回る夜の舞踏は、着飾って往来を歩く勇気を持たぬ少女が、その美しいドレスをせめても楽しむためのものであった。
 煌々と月の照る闇へ向かって真っすぐに伸びる庭の大きな桜木は舞踏を歓迎するように時折その体を揺らし、少女に花弁の雨を降らせている。
 家人の眠る、秘密の時間。少女が屈託なく笑う、密やかな時間。彼女は暫時、お気に入りの服と靴と夜空を堪能する。
「――やあ。君は桜の精なのだろう」
 声がした。深閑とした闇夜に、少年のような声が文字通り降りてきた。
 少女が声の主を探して顔を上げると、桜の木から滑り降りるようにして、金の髪を持つ美しい少年が現れた。
 驚いて竦む少女に、彼は金の瞳を細めて微笑みかける。
「随分楽しそうだからね。空から見ていたんだ。ああ、僕かい? 月夜の精さ。どうかお相手していただけないかな」
 およそこの世離れした美しさの少年にただ見惚れていた少女がやがて頷いたのは、少年と少女の他には月と桜しかない庭であったことも、真新しいスカートに心の踊っていたこともあるだろう。
 しかしそれでもはにかみ屋の少女にしては驚くべく勇気をもって、彼の白く美しい手を取り、二人はゆったりと踊り始めた。
 少女は今まで踊った経験もなかったけれど、少年に合わせるとさほどに苦も無く踊れるのであった。
「ねえ君。木の寿命は長いのだろう」
 舞踏の最中、囁くようにして投げ掛けられた少年の問いに、少女は戸惑い気味に頷いた。
 少年は彼女をリードしながらも、心底嬉しそうな表情を見せた。
「ああ! ああ、よかった。僕ら月夜の精はね。月の最も大地に近づく、そして星のない晩にだけ、大地に降り立つことが許されるんだ。はは、不思議そうな顔をしているね。月夜の精は初めて見るだろう。僕も、桜というものを初めて見たんだ」
 少女は庭の桜をちらりと見る。風に揺られた花弁が風に乗りはらはらと、二人の間に舞い降りている。月夜の精。そう名乗る少年と出会ったのは、少女にとって初めてのことで、また何とも驚嘆すべきことでもあったが、少年のその美貌は確かに月夜の精足り得るものでもあった。
 少年はひとひらひとひらを慈しむように、その美しいかんばせを綻ばせる。金の瞳には淡い色の花弁だけが映っていた。
「素敵じゃないか。桜とはこうも美しいものなのだね。月の光の中に舞う花弁とは、こうも美しいものなのか。すっかり僕は惚れ込んでしまった」
 美しい月夜の精が惚れ込んだ庭の桜。確かに金のひかりを受けてはらはら舞う花弁は美しい。
 やがて二人はどちらからともなく足を止め、若々しい桜を見上げた。少女の生まれた頃、少女の父母が庭に植えたものであるという。一年を通し姿を変え、春にはまた美しく咲きこぼれるこの桜はこの庭のなかで少女がもっとも誇れるものでもあった。しばし並んで桜を見上げ、やがて少女が少年の美しいであろう表情をそっと盗み見ようとしたのに合わせて、少年は冷えた地面に膝をつき、彼女の手を取って口づける。
「桜の精。あの木は君自身でもあるのだろう。ねえお願いだ。次の夜、次の、月の最も大地に近づく夜にもこうして踊ってくれはしないだろうか」
 金の双眸は少女を見据える。月夜の精の手は、人のように温かい。
 少女はこの情景にうっとりしている内、とんでもないふたつの勘違いに気がついた。少女は、彼の名乗った「月夜の精」を真実ではないと思っていた。あるいは真実でなくともよいと考えていた。しかし彼の言葉にはひとつも嘘らしい響きはなく、彼は真実月夜の精と信じられるものであった。そして第二には、少年、つまり月夜の精は彼女を、桜の精と思い込んでいるらしかった。
 ――興が冷めてしまうだろうか。幻滅するだろうか。いや、でも。
 内気な少女は勇気を振り絞って、真実を伝えようと口を開いた。しかし闊達な月夜の精は、それより早く、時間の押し迫るのに気づいたようだった。
「ああ! 気づけばもうこんな時間だ! 戻らなければならないなんて名残惜しい。けれど僕たちにとって、次の夜なんてきっとすぐだ。木の寿命は長いのだろう。どうかまた会おう、桜の精」
 美しい顔に満面の喜色を乗せて、おしゃべりな月夜の精は闇夜の中に溶けて行く。
 ――何ということだろう。
 嘘をついた。しかし、楽しかった。美しかった。
 少女は早鐘を打つ心臓を抑えつけ、綯交ぜの心のまま月のかかる空を見上げていた。
 花弁がまた、風に乗って流れて行った。
 
 翌日、少女は昨日がいかに特別なものであったかを知った。
 月の最も大地に近づく晩は数あれど、昨日のように星の隠れてしまうことなどは滅多になく、天文学者の大騒ぎするような事態なのだという。
 少女はこれが月夜の精のために起きた出来事であると世界でただ一人知ったのであるが、何よりも月夜の精と親密な言葉を交わしたことこそが、昨夜を夢のごとく美しい想い出として飾り立てるに充分なものであった。
 しかし月夜の精は、内気な少女へ美しい想い出を残したと同時に、嘘をついたという少しの罪悪感を確かに刻み付けた。
「君は桜の精なのだろう?」
 罪悪感は呪いのように、日々を経ても消えることなく、却って少女の中で、特別な日の想い出と共に解決し得ないわだかまりとして残った。
 幾度か、月の最も大地に近づく晩を迎えた。しかしどの日も星がやかましく、あの夜のように月と桜の二人きりになれることはなかった。少女は夜空を見上げてかの夜を思いだし、年々想い出は美化されていった。
 そして想い出が年々美化されると共に、嘘をついたというわだかまりも少しずつ痛みを増し、また美と悪の両極端な感情が降り積もることで、彼女の月夜の精に対する想いも新たにそして確かなものになっていった。
 しかしそれは、一夜の淡い恋として薄れるべきものだったのかもしれない。
 哀れなことに、はにかみ屋で病気がちの彼女にそれ以上の美しい出来事が降ってくることもなかったから、年経るごとに想いはますます強まるばかりで、月の出る春の晩に今日こそはと待ち望み桜の下に佇むこと甚だしくなっていった。
 彼女は世間知らずで、内気ではにかみ屋で、数十年程度であれば待てるつもりでいたほど悠長でもあったが、周囲はそうでなかった。
「誰か良い人は居ないの?」
「そろそろ年頃だろう」
 一年、二年、三年までは、彼女の物思いも若者に対する一種の微笑ましさをもって迎え入れられていた。
 しかし月や桜や人ならぬものには一瞬であろう十数年の間に、人である彼女を取り巻く周りは目まぐるしく変わる。
 短く忙しい人間の一生の世話を、せわしなく周囲は焼いてくる。
 父母は彼女の結婚しないのを、生れ持った内気さと悠長さのためであると思っては急かしていた。
 しかし彼女ははにかんで首を振り父母を失望させては、ただ桜の木の下で佇んで一夜の想い出に顔を赤らめていた。

 数十年はほどなく過ぎた。
 訝しんでいた父母は、結局失望しながらその命を終えた。
 裕福ながらも慎ましやかな彼女は、世間並みの苦労も知らず、少女の心のままで生きていた。
 だからこそ、父母の死を悲しみながらもきっとまた月夜の精に会えるとの思いを捨ててはいなかった。
 年の過ぎるのは加速度を増していき、十数年がまたあっという間に過ぎた。
 やがて彼女の髪は芯から真白に染め上げられ、瑞々しかった肌は渇き、皺が刻まれるようになった。
 ――もう一度彼に会うことのないまま生涯を終えることになるのかもしれない。
 死がようやく実感を伴って彼女に迫り始めたころになって、ようやく老女は考え始めた。
 満月の輝く春の夜である。
 庭の桜は父母の死を超えても変わらず、その美しい花弁をひらひらと零している。
 老女は曲がった腰で庭の砂を踏みしめると、月を見上げる。金の光が注いでいる中で考える。
 ――あれはもしや、若い頃の自らが妄想した、願望でしかなかったのかもしれない。
 幾度考えたか、そしてその度に幾度打ち消してきたか知れぬ問答を心の裡で繰り返す。
 月から零れる光はただ冷たく、老いた瞳を穿つばかりである。
 老女は心の奥底でいつしか疑い始めたことがあった。
 あの桜から舞い降りてきた少年の幻想は、自らの内気さを、自らの臆病を認めたくがない故の隠れ蓑なのではなかろうか。逃げ続けの人生の、逃げるために作り上げた大義名分に相違ないのではなかろうか。
 空想の世界に浸ってさえいれば心は満たされる。彼の再び降りてくる空想を、真実であると一筋に信じこんでさえいれば、月夜の精という非現実的な存在を、かつて出会ってそしていつか現れるはずの現実なのだと思いこんでさえいれば、空想に逃げる理由ができる。
 だから自分は、内気を盾に逃げ続けた。真実とはきっと、そういったものなのではないだろうか。
「やあ。君は桜の精なのだろう」
 そんなわけがない。ただの人間である。ただの弱った老女である。ただ空想を描き、幻想に溺れた人生を今終えようとする老女でしかない。
 何と矮小な人の生であっただろう。
「久しぶりだね」
 玲瓏たる月があまりに眩しくて、老女が目を閉じた時、少年とおぼしき凛とした声が響いた。
 老女が慌てて、この頃よく見えなくなった小さな目を開くと、ぼんやりとした視界の中に、白い肌と金の髪を持つ少年の姿があった。かつて見た月夜の精と寸分違わぬものであった。老女が何か言う前に、闊達な少年は美しく笑う。
「約束を覚えていてくれたのだね。今日は星のない、月の最も大地に近づいた夜だ。さあ、お手を」
 透き通るように白く美しい指。
 待ち望んでいた機会のはずであった。
 それだのに、少年の細い指を見て、老女は醜く年老いた自らの姿を恥じるように、少年の視線を避けるように、枯れ枝のような腕で自らの顔を覆い隠した。
「どうしたんだい」
 驚いたように少年は問う。その無垢な問いかけに、老女は様々なことを考えた。待ち望んでいたということ。しかしそれは待っていたというよりむしろ逃げ場にしていたということ。今や釣り合いのとれぬ醜く老いた姿。
 様々な言葉を考えたが、ようやっとかつての嘘を漱ぐための言葉を絞り出した。疾うに履けなくなった桜色のスカート。瑞々しい肌もなく老いて生き長らえただけの老女に、この手を取る資格はないことだけは分かっていた。
「私は、ただの人間なのよ」
 桜の精などでない。ただ臆病の隠れ蓑に、想い出を利用していただけの人間なのだ。
 庭の木からこぼれた花弁の一枚が、老女の手に優しく触れる。風が吹き、ひとひら、ひとひら老女の周りへ舞い降りる。
 幻滅するだろうか。興が冷めてしまうだろうか。沈黙の次の言葉を老女は考える。ただどのような言葉でも、受け入れるべきだと考えてはいた。
 風が止み、凛とした、それでいて優しい声が深閑の中に響いた。
「いいや。君はやはり桜の精だよ」
 老女の口にした真実を一言の下に断じると、少年はその老木のような腕を力任せに引っ張った。
「私は――」
「さあ踊ろう。約束しただろう」
 よろめく彼女を強く抱き止めると、月夜の精は強引にも彼女と踊り始めた。老女は初め、言葉を重ねようと口を開いた。嘘をついたこと、空想だけを頼みに逃げて生きてきたこと。桜の精足りえる瑞々しさなど疾うにないこと。
 しかし月夜の精は全く意に介さず笑うばかりである。
「君は約束を守ってくれただけのことだろう」
 少年と老女。いつしか老女の体は不思議なことに、少女のような軽快さで弾み始める。戸惑っていたはずの彼女の足が踊る度、彼女は少しずつ恥じらいを忘れ、嘘をついた罪悪を忘れ、やがて、かつて自らが人間の少女であったことも忘れていくようであった。
 月の光と桜の舞踏はやがて終わり、少年はまっすぐに、空にかかる月を指さし笑う。 
「さあ。では行こう。月の世界へ」
「――ええ」
 老女に家族はなかった。後悔もなかった。
 だからこそ少女のごとき素直さで頷いて、彼との道行きを受け入れた。
 月夜の精を真実一筋に信じこんでいた老女にとって、この世の中で惜しまれるものはただひとつ、遥か地上の庭で枝を振る、桜の木だけであった。

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 こちらの短編はお題をお借りして書きました。
 3つの単語お題った― https://shindanmaker.com/772443 
 お題:「ドレス」「夜」「春」

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