top of page

​移りにけるや花の色

 幸せな家族の住む家には小さな庭があり、お母さまが四季の花々を大切に育てていらっしゃいました。
 春にはチューリップ。夏になれば向日葵。秋になればコスモス。それはそれは愛情を込め、心を込めて美しく咲くよう手入れしておりました。
 春と夏とのちょうど境目、梅雨の時期のことでございます。幸せな庭では、美しい花弁を溢れんばかりにつけた紫陽花が数株咲き誇り、彩りを添えておりました。
「ああ、今年も何と美しく咲いたことでしょう」
 お母さまは、庭に咲く紫陽花の中で最も美しい一枝を丁寧に切り落としますと、お客様を迎える玄関の、木製の靴箱の上にございます美しい花瓶へと飾られました。
 幸運のおまじないでしょうか、玄関には小さな小さな硝子の鹿が胸を張って凛と立っております。花瓶は鹿の置物の隣へと置かれましたが、青の美しさと言えば、硝子の鹿も思わず感嘆するほどでございました。
「まあ、何と美しい青でしょう! 初めまして、お花さん。わたくしは硝子の鹿でございます」
「よう。おれの名前は紫陽花だ。どうぞよろしくな」
 紫陽花はぞんざいな言葉遣いをいたしますが、それでも鹿に話しかけられたのが嬉しくてたまらない様子です。その実紫陽花も、鹿の美しい造形に見とれていたのでした。
 硝子の鹿は美しい青が優しいので嬉しくなって、その名前を褒めました。
「紫陽花さんと仰るのですか。きれいな色に似つかわしい、素敵なお名前ですね」
「お前こそ、透き通る美しい体を持っているじゃないか」
「ありがとうございます。このうつくしい体は、わたくしの誇りです」
 ふふんと威張るようにして、硝子の鹿は胸を張ります。そうしてやがて照れ笑いをいたしました。
「ふふ。そう言いながらもわたくしは、あなたのような『色』に憧れてもいるのです。生れてこの方、光を通せど色を得たことがありませんから」
「ほほう、そりゃあいい」
 紫陽花は何か思いついたようです。ふわふわとその青い花弁を揺らしました。
「おれは様々な色を持ってこそいるが、透明になれたことなど今まで一度もない。どうだい、人間どもの寝静まった夜にひとつ、色を交換してみようじゃないか」
「よ、よろしいのですか」
「ああ。構わないぜ。どうせ花の命は短いのだ。冥途の土産に少しくらい、我儘を楽しんだっていいだろう」
 永久の命を持つ置物の鹿にはその言葉が自嘲か悲哀かわからず答え方に戸惑っていると、そんな様子をからかうような調子で、紫陽花はけらけらと笑いました。
 硝子の鹿はほっとしてふふふとつられて笑いました。

 幸せな四人家族が皆寝静まった夜、玄関の硝子戸から月の光の差し込む元で、紫陽花と硝子の鹿はひっそりとお互いの色を入れ替えました。
 青く美しくなった硝子の鹿と、月の光をその身に通す紫陽花は、互いの姿をほめたたえます。
「何だ。青色もなかなか似合うじゃないか。ふうむ、お前は色を得ても体が透き通るのだな」
「紫陽花さんは、硝子になっても柔らかい花弁をお持ちなのですね。羨ましい」
「よせ、褒めすぎだぜ」
 紫陽花はその透明で柔らかい花弁をしゃらしゃらと揺らします。
 月の光が幾層にも反射してあたりがきらきらと輝きました。紫陽花はふっと息を漏らします。
「しかしなあ。できれば太陽の下で色づいたお前を見てみたいものだ。何といっても、おれは花だからな」
「人間たちにばれてしまっては、元も子もありません。それにわたくしは、大変満足です」
「そうか。お前が満足なら、いいとしておこう」
 青い鹿はその言葉でさらにはしゃいで見せました。
 紫陽花はもう一度しゃらしゃらと、その透明で柔らかい花弁を揺らし笑いながら、あと二日ほどこの境遇を楽しもうと決めました。

 翌日の朝、眠っていた硝子の鹿が目を覚ましますと、頭上にあった青色の美しい花は、愛らしい薄紅色へと変わっておりました。
 昨日、眠る前にもう一度取り換えた時には確かに、硝子の鹿は透明に、紫陽花は青色へと変わっていたはずです。
 紫陽花は視線に気づいたのか、嬉しそうに挨拶します。
「ああ、おはよう。硝子の鹿」
「おはようございます。紫陽花さん」
 昨日と違う紫陽花がやってきたのかとおそるおそる返事をした鹿に、紫陽花は今度薄紅色の花を揺らして笑います。
「はっはっは。昨日とはずいぶん態度が違うじゃないか。おれが怖いのか」
「いいえ、まさか。そんな。しかし少し驚いてしまいました」
「おれは様々な色を持っているからな。とは言え、ひと晩で色が変わったのはおれも初めてだ。根が土に埋まっていた時ならともかく、花瓶であるのにな」
「ご病気ですか」
 心配そうな鹿に、紫陽花は花弁を横に振ります。
「まさかまさか。こんな老い先短い切り花風情に、病気も何もあったものではないだろう」
 永久の命を持つ硝子の鹿がまたしても返事に窮していますと、紫陽花はやっぱりからかうような調子で続けました。
「きっと、この短い一生の中で、できると思ってもいなかったうつくしい友達に、様々な色を与えてやろうと思ったからこうして移ろってしまったのさ」
 からかうような調子ではありましたが、その言葉にはどこか真実味がございました。
 硝子の鹿は紫陽花が自分のことを「友達」と言ってくれたのが何よりうれしく飛び跳ねそうになりましたが、誰が来るか分からない昼日中でございますのでどうにか堪えておりました。

 その夜、硝子の鹿は可愛らしい薄紅色の、それでいて透き通った体を持ち、紫陽花は昨日と同じく透明な柔らかい花弁を得て満足しておりました。
 月の光が硝子の鹿を通ると、その薄紅色の光がほんのりと玄関を照らします。
「美しいなあ、お前は」
 紫陽花は感嘆するように言いました。硝子の鹿は美しい体を誇るように少し胸を張りましたが、ふと気づいて問いかけました。
「紫陽花さん。わたくしに色がないばかりに、わたくしだけ楽しんでいるのではありませんか」
「何を言う。おれも楽しんでいるさ」
 硝子の紫陽花はしゃらんと花弁を揺らします。硝子の鹿の疑うような視線に、紫陽花は笑い声を漏らしました。
「ははは。確かにお前の楽しみ方とは少し違うかもしれないなあ。しかしおれは確かに楽しんでいる」
「本当ですか」
「ああ、本当だ」
 紫陽花はじっと鹿を慈しんで見守るように、その花弁を宙にとどめます。そうしてため息を吐くかのように、もう一度しゃららと花弁を鳴らしました。
「おれはこうして、おれの色を与えられる喜びを知ったのだ。お前がおれの色に染まる喜びを知ったのだ。おれの一生に何ともすばらしい彩りを添えてくれた。ありがとう」
「そうですか。わたくしがお役に立てましたか。それなら何よりでございます」
「ああ、ああ、冥途の土産には十分なほどだ」
 薄紅色の硝子の鹿はまだ首を傾げておりましたが、紫陽花が心底嬉しそうでございましたのできっと紫陽花の言うのは本当なのだろうと思いました。
 嬉しそうに跳ねる鹿に紫陽花は「あんまり跳ねると危ないぞ」と注意しながら、まだ慈しむように鹿を見つめているようでございました。

 翌朝、硝子の鹿はわくわくしながら目を覚ましました。
 初めに会ったときは美しい青であった紫陽花は、昨日愛らしい薄紅色を見せてくださいましたから、今日もきっと別の色を見せてくれることでしょう。そして自らがその色に染まることができると思うと、はしゃがずにはいられないのでした。
「起きたか、鹿よ」
「おはようございます。紫陽花さん」
 硝子の鹿はその高貴な色に息を呑みました。
 美しい青、可愛らしい薄紅色を併せ持つ、紫陽花の名前の一部でもある鮮やかな紫が硝子の目に映ったのです。
「はは。鹿よ。俺の命はきっと、持って明日の夜までだろう。だから今日はとびきりにすばらしい色を用意したのだ」
 紫陽花はどこか自慢げでございました。鹿は感動にむせびそうになりました。その色の美しさもさることながら、命短き紫陽花が自らのためにとびきりの色を用意してくれたのが何よりも嬉しかったのです。
 様々な季節の花の飾られる玄関ではございましたが、鹿に色を与え、また彼女のために美しい色を用意してくれる花など紫陽花の他にはございませんでした。
 今が昼日中であることも忘れて鹿がはしゃぎ、そして跳びはねた、その時のことでございます。
 ぐらりと地の揺らぐような感覚がして、紫陽花の入った花瓶と硝子の鹿とは宙に投げ出され、果たして何かの割れるような、カシャンという音がいたしました。
 
 幸せな家庭の中からはお母さまの叫び声がいたしましたが、地震がすぐさま収まるとその声はやがて安堵の笑いに変わってまいりました。
 紫陽花は玄関の土間に落下いたしましたが、数枚の花弁を散らしただけで済みました。
「ああ、花瓶が粉々だ。水をかぶってしまったな。まあおれは雨が好きだからな」
 いつものような軽口を叩いておりますが、この数日楽しく相づちを打ってくれていた相棒の声がいたしません。つい先ほどまでうれしさにはしゃいでいた、透き通るような声が致しません。ぞっとして、花弁の色がさっと青に変わりました。
 紫陽花が辺りを見回しますと、硝子の鹿はその粉々に砕けた四肢に太陽の光を受け、土間の上できらきらと輝いておりました。
「おい。おい。硝子の鹿よ、嘘だろう。花より先に逝く硝子があるもんか」
 硝子の鹿は返事をしません。紫陽花は心の限りで呼びかけました。遠くに聞こえる笑声なども気づかないほどあらん限りに呼びかけました。一枚、二枚と花弁が散るほどに力を込めて硝子の鹿に呼びかけました。
 しかし硝子の鹿はどうしても返事をいたしませんでした。
 自らを短命と笑っていた紫陽花は目の前で魂の失われたのに、どうしようもない衝撃を受けておりました。紫陽花はその実、自らの命の亡くなるのを恐れてもおりましたから、だから一層に硝子の鹿の姿に心奪われていたのです。
 ようやく、その高貴な紫の花弁を震わせて、紫陽花はぽつぽつと鹿の破片に語りかけました。
「鹿よ。鹿よ。お前は笑うだろうか。俺はお前の姿が愛おしかったのだ。おれの色を得た、お前の姿が愛おしかったのだ」
 頭から水を被った紫陽花は、まるで友の死に泣き濡れてもいるようでございました。滴り落ちるしずくが硝子の破片を濡らします。やがて一枚、一枚とまるで溶けでもするかのように紫陽花はとうとうその全ての花弁を散らしてしまいました。

「まあ、玄関が大変だわ」
 お母さまが玄関に散らばった紫の花弁と、硝子の破片とに気づいたのはとうとう紫陽花が全ての花弁を散らしてからのことでございました。お母さまが納屋から箒を準備して、散った花びらと硝子の破片と、花瓶とを一緒に掃いている内、ふと何事かに気づいたかのように「まあ」と声をあげられました。
「まあ。不思議なこともあるものね。確かに割れたと思ったのに」
 お母さまはちり取りの中から、ヒビも入っていないままのうつくしい硝子の鹿を取り出しますと、きれいな刺繍の入ったハンカチで土ぼこりをぬぐい、また元のように玄関へと置かれました。
 そうして紫陽花の花弁と花瓶の欠片をもって外へ向かわれました。
「ああ。大変でしたね、紫陽花さん」
 硝子の鹿は大きく伸びをいたします。
「……紫陽花さん?」
 その姿は、玄関の扉から受ける日の光を受けて、紫色にきらきらと輝いておりました。

bottom of page