ある文士の最期
深川俊介は作家浅香大介の死ぬ前に、一度だけ面会の叶ったことがある。大作で名の知られた浅香がどんな気まぐれで、一介の学生にすぎぬ彼の、しかもあまり上手でない葉書を読んで会う気になったのか深川自身も不思議であった。彼自身、送った葉書は捨て置かれるだろうと考えていたのである。
あるいは深川も初めそうであったように、名の何となく似ているところが引っ掛かったのかもしれぬ。とかくも面会を許可するその流麗な文字に深川は歓喜し、狭い下宿の中で躍り狂い、やれ洋装で行くか一張羅の羽織を出すか、それともあまり気負えば煩かろうからいつもよりは少し見映えのする着物でも出すかと、まるで意中の相手と逢うかのような騒ぎであった。
そうするうち到頭当日になって、結局いつもより少しは上等な、失礼のない羽織をひっかけ、面会の許されたのが浅香の高弟にでもなったような気持ちで出かけて行ったけれど、当然というべくか浅香は深川のような気負いも何もなく着古した装いで出迎えたものだから深川は自らの興奮をその時になって恥じた。
「君が深川くんですか」
「はい」
書斎で出迎えた浅香の空気に気圧されて恐縮しながら、深川は何とか自らの名を伝えて面会の許可に感謝した。
「先生の作品はいつも拝見しております」
「そうか。ああ、すまない、すまない。随分薬臭いだろう」
浅香の机周りは散らかってこそいたが薬臭さなどみじんも感じなかった。しかし深川は浅香の、神経衰弱による休筆以降、作風も本人も病んでいることを何となしに知ってはいたものだからきっとそのことを言っているのだろうと推測して黙っていた。
背高のっぽの深川に対し浅香は小柄で痩せぎすで、いかにも神経質そうな出で立ちであった。時折浮かべる微笑でさえも目の奥がどこか陰鬱であった。しかし気楽な学生である深川はこれこそが作家、文士のあるべき姿なのだろうと信仰をますます強めていた。
事実、深川は浅香の書く作品の、陰鬱さに触れて感銘を受けていたこともあった。
「しかし僕の作品を読んでいるんですか。それは驚いた。君は僕のような、陰湿屋には見えないけれど」
「あの、いえ、はい。先日、雑誌に出されたのも拝見しました」
「そうかい。僕は良く知らないけれど、僕のところにくる人たちは皆そろってなかなか勉強家らしいですよ。しかし君、僕が何故面会を許可したかは知りたくないですか」
「ええ、はい。是非」
会話の流れが妙であることに面喰ったが、憧れの文士に指摘するほどの勇気も持たぬ深川は大人しく首肯した。
その様子が随分気に入ったらしく浅香は目を細めて嬉しそうに語り出した。
「僕の名前は浅香、君の名前は深川と言ったでしょう。ね。あるいは君もそうかもしれないけれど、これはすごい偶然ですよ。浅いと深いが出会ったのだ。それも僕がこんな、小説なんて書かなければ君は僕の名前に目を止めることもなかった。あるいは僕の名前が浅香で、君の名前が深川でなければきっと、本屋に並んだ僕の本に興味も持たなかったかもしれない。ね、すごい偶然だ。こんな偶然はそうあることでない」
深川はこれほど自らの姓を賞賛されたのは初めてであった。それも憧れの文士にである。
面喰いながらも礼を述べ、失礼に当たらないだろうかとどぎまぎしながら浅香の本との出会いや生い立ち、田舎から出て下宿していることやその場所まで深川はとうとう全て喋ってしまった。最低限の礼儀は欠かさないようにしながらも、傍目には興奮と緊張とが大いににじみ出ていただろう様子を浅香は気に入ったらしく、その一つ一つを賞賛し、しまいにはまた近々ここに来るようにとまで言った。
これには深川も目を丸くした。
「よろしいのですか」
「僕が良いのだから、良いのです」
浅香は頷いた。目はやはり光なく、陰鬱なままであったが、深川は気づかなかった。
深川は自分が浅香の弟子として、何より気に入りの門下生として認められたのであると考えたのである。深川にとって何より嬉しいことであった。
「では、近いうちに必ず」
「ええ必ずいらっしゃい」
表情に似つかわしくないほど朗らかに告げた浅香に深々と礼をして、深川は人生最大の幸福を味わいながら揚々と引き上げた。
しかしその約束の叶わぬまま、それも深川が浅香を訪ねてから一週間もしないうちに神経衰弱の作家はたくさんの睡眠薬を飲んでそのまま永眠してしまった。
文壇からは多くの文士が彼の弔問に訪れた。葬式に出るほどの付き合いがあるでもなく、弟子でもない深川は葬式にも行けぬから、ただ新聞で記事を読んで哀悼の意を示すほかなく、やがて混乱する心理の中で、浅香の言葉に自惚れていた自分の興奮を恥じた。
考えてみれば当然である。ただ「深浅」という言葉遊びに浅香は夢中になっていただけで、浅香にとって深川の訪問は奇跡でも何でもなかったのである。何も深川が訪れぬとも、深川という苗字を持ったものが葉書を出し、また訪れでもすれば喜んだのだろう。
深川はこうも考えた。憧れの文士の姿があまりに違和感だらけだったからである。
あの浅香の弁舌は深川という名前の学生が浅香の本を手に取った奇跡に喜んだものではなくて、ただの神経衰弱者の世迷いごとにすぎなかったのではあるまいか。そして何よりあの気安さは、賞賛は、きっともう死ぬことを決めてしまっていたから後のことを考えずに言いたい放題言っただけのことなのではあるまいか。
誰しも呪詛を吐きながら死ぬるより賞賛を吐きながら死ぬ方が心安い。自分は憧れの文士の役に立てたのだ。
しかしそうは思えど、深川はこの事実に落胆していた。
奇跡によっての面会などではなかったのだ。ただ神経衰弱者の最期の気まぐれに巻き込まれただけのことだったのだ。
そも彼の小説の文中に、礼賛や賞賛の言葉は縁遠かった。だからこそ却って死ぬ前に、それらの言葉を発してみたかったのではあるまいか。文士であるから、言葉に執着したのではあるまいか。
自分は、いいように使われてしまったのである。
深川がその考えを強めることになったのは、同じく浅香氏信奉者であった三木に会ってからのことだった。
訃報の翌日に深川がそれとなく浅香のことを聞いた時、三木は苦笑を見せた。
「浅香先生か。以前は君と同じく、よく読んでいたのだがな。面会の許可が出たから会いに行ったのに、玄関先で怒鳴られ、追い返されてしまった。病気が相当進んでいたようだぜ。まあ、それから何となく、作品も敬遠するようになった」
「怒鳴られただって。何か無礼を働いたのか」
「働きやしないさ。死んだ人を悪く言うわけでもないが、あの先生はいつもあんな感じだったらしいぜ。君、結構な信奉者だったろう。会わなくてよかったな」
面会のことを何も知らぬ友の言葉に深川は黙って頷いた。そして同時に、深川との面会は本当の気まぐれであったのだと確信した。
浅香は死ぬ前に、陰鬱な文士とは無縁の言葉を、相手は誰でも構わぬから吐いておきたかったのだろう。
かの文士は、深川でなく言葉に関わりたかったのだ。
翌日、深川俊介は熱心に収蔵していた浅香大介の初版本を全て知り合いに寄贈し、たった一度叶ったあの面会を、記憶の奥底に仕舞い込むこととした。