ひと夏のかけら
道端に星のかけらが落ちていたので、拾ってサイダーの空き瓶に入れておいた。
かけらは金平糖くらいの大きさである。夜になると眠れないくらい白く輝きだすので、普段は空き瓶ごと勉強机の中に仕舞い込み、晃子の見たいときだけ取り出すのようにしていた。
晃子は小学校六年生の女児である。可愛いおもちゃや文房具には飽きながらも夢見がちなところがあったから、星のかけらと信じる白い輝きのことは、いつも飽かずに眺めていた。
無論大人になる狭間の年齢の賢さで、これが本当の星のかけらではなくただのきれいな石か何かだろうと思わないではなかったが、星のかけらと夢想させる幼さも彼女はまだ残していた。
「ねえお星様」
八月の半ば、夏の蒸し暑い夜である。
晃子は日課の通り、私室の電灯を消し星のかけらの入った光る瓶を窓際のへりに置く。床に膝をつきながら、星のかけらに一日のことを話すのは、毎夜の秘密ごとである。
「また進くんがからかうのよ」
相談事はいつもあどけないながら、晃子には切実なものでもあった。
晃子の体は同学年の女の子より少し大きいので、悪童には格好の的である。無論幼い男児の例に漏れず、進にも晃子に対する好意があっての揶揄だったが、晃子はそれがわかるほどの大人ではなかった。
「もう。いつもいつもなの」
夏休みなのに。進くんいつも蝉捕りしてるから会っちゃうの――、晃子は窓の桟に額をくっつけるようにして顔を伏せた。
外からはジージーと虫の声がする。部屋では扇風機の回る音がする。風が黒く長い髪を揺らした。やがて晃子は顔を上げ、ため息と共に頬杖をついた。その所作には幾分かの「大人」が顔をのぞかせていた。
星のかけらは返事もせず、ただ輝いている。だが晃子には、星に話しかける度にその輝きが増しているように思えた。そしていつか不思議なことが起きはしないかと夢想するのだった。
静かな部屋で晃子はぼんやりと空を眺め、また時折サイダーの空き瓶に目を遣る。夏の夜空にも満天の星、瓶の中からも星の光。
大人ぶった口調で、幼いことを呟いた。
「ああ、何てきれいな星空かしら。星空って、きっと美しいところに違いないわ。ねえお星様。私も星空に飛び込んでみたいな。連れて行って」
「ふむ。では、行ってみるか」
ふいに若い男性の声が聞こえて、晃子は見上げていた夜空から目を放しきょろきょろと辺りを見回す。もう一度声がした。
「ここよ。瓶の中だ」
瓶の中、晃子は言われるがまま空き瓶を見て目を見開いた。白く輝いていたはずの星のかけらは、小さな小さな人間の姿を取っている。
白の狩衣に黒の袴、重そうな烏帽子。晃子に彼の纏う衣装の呼称までは分からなかったが、それでも昔の人のような恰好だということだけは理解できた。
「あなた、だあれ? どうしてそんな恰好をしているの?」
「お前の言う『お星様』よ。この恰好は、ずっと前に空から落ちた時見かけたものだ。涼しくて気に入っている」
そう言って笑う瞳は青。烏帽子の下より覗く長い髪色は白銀。
あまりのことに呆然とし目を見開いたまま次の言葉を探す晃子に、青年は鷹揚な笑顔を見せる。
「何を驚いている。毎日話をしていただろう」
「そりゃ、驚くわよ……、だって不思議だわ。理科でも、そんなのやらなかったもの」
「ははは。理科では星のかけらも出てこないのではないか。お前は星のかけらを不思議に思わず拾うたでないか。拾うのは不思議でなくて、化けるのは不思議か。はははは」
「そうね。ううん、それも、そうかしら」
言いくるめられる晃子を笑顔で眺めながら、青年はサイダーの瓶をすり抜けて晃子の腕のところまで歩いてきた。そうしてにっこり笑うと空を指差す。
「さて。星に飛び込んでみたいと言ったな。行くか」
「無理よ、そんなの、どうやって」
「私は星のかけら。晃子をつれていくくらい造作もないさ。それ」
気づけば晃子の体はしっかりとした手に捕まれて、空へとぐんぐん昇っていた。
むわっとした夏の熱気の中に、青々とした草の匂いが混じっている。だが青年の手にぶら下がるようにして風を感じながらぐんぐんと空に昇る晃子には、暑さはそう感じられなかった。
眼下の建物が、明かりがどんどん小さくなる。晃子の視界に、通っている小学校が映った。
「ねえねえ、星のかけらさん。ちょっとだけ、街の景色を見てもいい?」
「……ふむ。まだ時間はあるな。そうしよう」
青年は空へ上るのを止め、ふわと宙に留まって見せる。同時に、晃子も同じ高さまで引っ張りあげられて、二人は隣り合う形で止まった。
狩衣が風に揺れている。下ばかり見ていた晃子は気づかなかったが、彼はいつのまにか、空き瓶に入るサイズではなく人間の青年とそう変わらぬ大きさになっていた。
「私も晃子の話を聞いて気になっていたのだ」
言うが早いか、青年は晃子の手を引いて学校の近くまで飛んでくれる。校舎、プール、体育館。運動場の遊具もずいぶん小さい。
何より、いつも見上げている校舎を眼下に見るのは、晃子も変な感じがした。
「おもちゃみたい」
「そうだなあ」
青年は小学校を初めて見るからか興味深げにまじまじと見つめていた。
自分の好きな場所に興味を持ってくれたらしいことが嬉しくて、晃子ははしゃぐ。
「学校って、すごく楽しいのよ。お勉強も宿題も大変だけど、今年は担任の小林先生がね、すごい面白いの!」
「うんうん。そうか」
嬉しそうに笑う晃子の顔を満足そうに眺めると、青年は続いて近くの公園を指差す。
「ほうら。あれが、晃子の言っていた公園だろう」
「そう! 低学年の頃はよく遊んでいたの」
遊具はシーソーとブランコと滑り台くらいしかない小さな公園。
懐かしさに晃子が歓声を上げるのを、青年は嬉しそうに見守っている。続いて青年は公園から少し離れた場所にある青々した銀杏を指さす。
「あっちは、進くんのよく蝉取りをしている木だな」
「そうなの! 昨日また会っちゃった……」
「ははは。して、あれが、この間おつかいをしたスーパーか。昨日のご飯はカレーだったな」
「でも、ナスが入っていたのよ」
「サラダには大きなトマトがあったのだろう、よかったではないか」
「……星のかけらさん、すごいね。よく覚えてるなあ」
晃子は目を丸くする。青年は薄い唇を上げにっこりと笑った。
「晃子の話してくれた内容は、よく覚えている」
「そ、そっか」
青年の美しい笑顔に晃子は今まで感じたこともないような胸の高鳴りを覚えた。
つながれた手が、妙に熱を持っているような気がして、晃子は顔を逸らす。
青年は晃子の様子を微笑ましそうに見守ると、ふうと息をつき、真剣な表情で感謝を伝えた。
「晃子、たくさん話をしてくれてありがとう。力をなくして落ちていたところをお前が助けてくれたのだ。お前が『お星様』と私を定義するたびに私は力をつけることができた」
「……『ていぎ』って何?」
「ははは。難しかったか」
青年は少し考えると、優しい口調で答える。
「晃子の色々な話を聞いて休んでいるうちに、私も力が沸いて、こうして空を飛べるまでになったということだよ」
「よかった。嬉しい。私、嫌なことがあっても、良いことがあっても毎日星のかけらさんにお話しできると思ったら楽しかったの」
「私もだ。それに、人の世がいかなるものか知ることができた」
青年は感慨深げに、眼下の景色を見渡している。人工物と自然物とが不思議に調和した箱庭のような景色を、晃子も何となく一緒に眺めていた。
やがて青年は、遥か頭上の夜空を見上げた。
「さて、晃子。そろそろだぞ」
「なあに?」
「それ」
青年が言うが早いか、白く美しい輝きが二つ三つ尾を引いて、遥か高くから地上をめがけ一直線に駆け下りた。
晃子が驚いている間にもう一つ、もう一つと、きらきらした輝きが二人の傍を駆け抜けていく。
「きれい!」
「そうだろう」
青年は晃子が街並みを自慢した時にも似た表情で笑う。闇夜の中、地上へ向かう流れ星の群れに、晃子は圧倒されながら心臓のどきどきするのを感じていた。
満足しているらしい晃子の表情を青年はじっと見つめている。何かを考えているようでもあった。
流れ星が落ち着いたころ、青年は意を決したように晃子に問うた。
「晃子。星を美しいと思うか」
「うん。とてもきれいだったよ」
「ありがとう。……もし、晃子さえよければ私のところへ来ないか」
「え?」
意外な申し出に晃子は目を丸くする。青年は真剣な面持ちであった。
「私は晃子の話を聞くのが楽しみだった。その日見たもの、聞いたもの、食べたもの。感じたこと。たくさん話してくれるのが楽しみだった。だから晃子さえよければ星々の世界に共に帰り、ずっとお前の話を聞いていたいと思っている」
「私の……」
「そうだ。どうする。私と共に来るか」
「……」
愛の告白にも似た言葉に晃子はどぎまぎしながらも、彼女の中には、星のかけらについていけばここには戻ってこられないのではないかという確信に似た予感があった。
晃子は子供で、今の子の幻想を受け入れられぬほどの現実主義者ではなかったが、やさしい申し出についていった後のことを考えられないほど幼くはなかった。
やがて晃子は、お辞儀をするように頭を下げた。
「ごめんなさい、星のかけらさん。私は一緒に行けないよ」
青年は晃子の返答を聞いて、寂しそうな表情をした。だがその表情はすっきりもしていて、諦めがついたようでもあった。
やがて彼は美しい顔にゆったりとした笑みを乗せた。
「ははは。分かっていたさ。言ってみただけだ。……さて、晃子」
星はいつの間にか、一つも流れなくなっていた。静かになった夜空に響くやさしい声がどことなくもの寂しくて、晃子は答えられないまま黙り込む。
青年は晃子をやさしく見守っていた。
「私は星のかけらだ。だから、そろそろ空に帰らねばならない」
「お別れなの?」
「ああ。お別れだ」
すっきりした表情の青年とは対照的に、晃子の表情はみるみる悲しみを帯びていく。
寂しいな、と小さな声でつぶやいた。
「私もだ。私も寂しい。たくさんのことを話してくれてありがとう。進くんと仲良くな」
「……」
晃子の表情は寂しさから、むっとしたものへと変わる。青年はおかしそうに笑った。
「きっとあれは、晃子を好きなことの裏返しだと思うぞ」
「そんなこともないもん」
「こらこら。へそを曲げるな。さあ、そろそろ本当にお別れだよ。どうか元気で、いつまでも」
青年は寂しそうに、それでいて満足そうに晃子に微笑みかけると、二人をつないでいた手をそっと離した。
どっと襲ってくる寂寥に耐えかねて、晃子が何かを言おうとする前に、彼の姿はとうに闇夜の中に消えていた。
「楽しかったよ、晃子。寂しいときは、空を見上げてくれ。私はここにいるから。私も、いつも君を見守っているとしよう」
しんとした闇夜の中、遥か頭上より声がする。その後はまた、今まで気にもならなかった虫の声と草木の匂いが蘇る。
さようなら、お元気でと声に出す前に意識が遠のくのが、晃子にもしっかりと分かった。
蝉が大声で叫んでいる。
眩しすぎる太陽の光で晃子が目を覚ましたのは、入った覚えのないベッドの上だった。頭の下には、中身のほぼ水になった氷枕が敷かれている。
「ああ、起きた! よかった。熱中症かしら。クーラーつけなさいって言ってるじゃない。扇風機しか回ってないから……」
心配性の晃子の母は、安堵の表情で晃子の顔を覗き込んでいた。
枕新しいのに変えるからね、と言いながら母は氷枕を回収する。立ち上がりながら晃子の額に手を当ててもう一度ほっとした様子を見せると台所へ戻るようだった。
「……星のかけらさん」
ぼんやりする頭に昨夜の光景が蘇る。星のかけらが人となったこと、手をつないで空へ昇ったこと、舞い降りてくる星々。晃子にはそれらを事実として信じていたい思いがあったが、非現実的なことであったというのもどこかで分っていた。
そして昨夜の出来事が現実かどうか、確かめておきたかった。
重たい体を引きずって、勉強机の抽斗を開ける。うっすら緑色をした、中央に三本の矢のマークがあるガラス瓶は、机の抽斗の一番下に仕舞っているはずだ。
「……あれ?」
仕舞う場所を変えてしまっただろうかと晃子は何度も抽斗を開け閉めする。いや、あれだけ毎日取り出しては話しかけていたのだから、仕舞う場所を変えるはずはない。何より片付けの際は分かる場所に仕舞うよう、母に口を酸っぱくして言われている。
「どうしてないんだろう」
いつもサイダーの瓶を仕舞っていた場所には、星のかけらはおろか瓶すら見当たらなかった。
全て夢だったとでも言うのだろうか。しかし手を引かれた感触も、間近で流れた星の美しさも全て覚えているというのに、それも全て、熱中症の、夏のなせる業だったとでもいうのだろうか。
「ちょっと、まだ起きてちゃダメよ。宿題なら今日はお休みしなさい」
首を傾げている内に母が戻ってきてベッドへと連れ戻され、晃子はひんやりした氷枕の上に頭を横たえることになった。
まだ心配そうな母に晃子は問う。
「ねえ。ねえ、お母さん。昨日……、流れ星降った?」
「あら、この子は。もう。それを見るために窓際にいたの。何とか流星群の日だったんでしょ」
「そっか」
晃子には、その答えで充分だった。
蝉の声を聞きながら、今日も星を眺めようと晃子はひそかに決心した。