花の幽霊
畑のそばに一輪の、桔梗の花が咲いている。いつだか庭の主人が戯れに植え、そのままになっているようだ。
天を睨みも悲観もせずにただ凛とある紫の、色濃くも柔らかい色を茄子は好いていた。
「ほうい」
「おうい」
茄子は桔梗に声をかける。桔梗はたまに花をちらと揺らすくらいで、応えたことは一度もない。
「お前さん、一人で寂しくないのかい。話し相手になってやるぞ」
「そろそろ大風が来るんだってなあ。倒れないようしゃんとしてろい」
「ほうい」
「おうい」
返事のないのにめげもせず、茄子は桔梗に色々の声をかける。
答えもせぬまま、ただ凛としている彼女の姿を見るのが茄子にとっての幸福だった。
やがて季節が来て、茄子は花をつけた。
それは桔梗を思わせる小さな紫の花で、焦がれた相手に似た美しい花弁を茄子は自慢した。茄子の花の紫はふつう薄いのに、今年は桔梗のように濃いのも茄子は誇らしかった。
「おうい。おれの花が咲いたぞう。お前さんによく似ておろう」
「お前さんに憧れるあまり、紫の花が咲いたぞう」
茄子はいつものように桔梗に声をかけたが、桔梗はちらと花びらを向けるだけでやはり返事もしない。
しかし茄子は桔梗のその凛としたたたずまいが、一瞬でも自分のために揺らめいたことが何より嬉しかった。
茄子の喜ぶうちに、蝉の鳴きじゃくる季節となった。やがて茄子の花は夏の日差しのもと、はつらつとした実をつけた。
主人はいつもよりできのいいのに喜び、茄子も大層自慢げであった。
やはり桔梗の花だけは我関せずとただ太陽を浴びて、凛としていた。
茄子の実は取りつくされた。秋が来て、秋が過ぎ、そうして冬が近かった。
まだ彼らはそこにあり、茄子はもう、その身を凍らせるのを待つだけであった。
「ほうい」
「おうい」
しかし変わらず、茄子は枯れかけの声で叫んでおり、桔梗も変わらず、美しい紫の花弁を初冬の空に向けたままそこにいた。
この頃になるともう、茄子にもそろそろ彼女が何なのかを理解していた。
「おうい、桔梗の幽霊やあい」
桔梗が初めて茄子の方をきちんと振り向いた。紫のその、何よりも美しいかんばせを見て、茄子は冬に似つかわしくない暖かみを感じた。
初頭の冷たい風に桔梗は色濃い紫を揺らす。やがて細い細い声を緊張するよう震わせて茄子に答えた。
「あなたはずっと、私を呼んでいらしたのですね」
「そうだよう」
「ありがとう。……ありがとう。あなたの声があったから、私は寂しくなかった。何より、あなたの美しい花が好きでした」
桔梗の声が震えているのは、初めて言葉を交わした緊張だけではなくて、今年の茄子のそろそろ枯れるのを悟っているからでもあった。
だからこそ、彼女は懸命に言の葉を紡いだが、枯れかかった茄子の言葉はむしろ少なかった。
「おれもだよ。……おれもだ」
「ええ。また来年にお会いしましょうね」
「ははは、会えたらな」
茄子の笑いには悲哀があった。桔梗は不思議がる。
「毎年、ここには茄子が植わっているではありませんか」
「今年でしまいなんだ。主人が言っていた。もう年だからなあ。おれの後始末をる元気もないんだ。だから枯れるままさ」
「そうですか……」
今度は桔梗が深い悲哀を見せた。互いの間に秋とも冬ともつかぬ冷たさの風が通りすぎる。
やがて桔梗は思いついたように、その伏せていた花弁を上げた。
「いいえ。やはりまた夏にお会いしましょう」
「どうやってだ」
ふふ、と桔梗が声を立てた。
「共に花の幽霊となって」
「それはいいな」
それきり、茄子は言葉を発しなかった。魂の抜けてしまったのだと悟った桔梗は、またもとの通り凛と初冬の空を見上げていた。
花の幽霊となった後、寂しくこのままあり続けるのかと考えていた桔梗にとって、茄子の日々の言葉を聞くのは楽しみの一つであった。
自らに気づいているとは思わなかったから、枯れる間際までこうして言葉を交わすこともなかったが、それでも彼のどこか間の抜けた、それでいて温かい言葉が好きであった。
茄子の桔梗に憧れると同じに、桔梗も茄子に憧れていたのである。
桔梗は声のしない庭を眺める。初冬の寂しい庭を眺める。しんとした庭に、命あるものはもう何もないことを見つめる。
やがて桔梗はふ、と笑うように花弁を揺らすといつものように凛と空を見上げた。
季節のいく巡りかした後、その畑はとうとう人の住まぬ草原となった。
しかし一体どうしたことか、まれに大きな声での間の抜けた問いかけと、笑みを含んだ静かな笑いが聞かれるということである。