晩夏の蝉
肌にまとわりつくような大気と、押し潰されそうなほどの蝉の声がやや懐かしくもなり始めた夏の終わりのこと。
一匹の雄の蝉はアスファルトの上で足を折り畳んで仰向けになり、白い腹を天に向けていた。
眩しすぎたはずの太陽も盛りをすぎ、空の青さも落ち着きをと取り戻している。とは言え暑さの和らぎきったわけでもなく、彼の同胞どもはこれが最後と控えめながらじゃあじゃあと鳴き叫んでいた。
しかし彼にとってはその声すらも大気に紛れていくような気すらして、どうしてだかまるで静かな岩の上にでもいるような心地であった。
彼のいるアスファルトの上、しかも彼のすぐそばをちりんちりんと音を鳴らしながら通りすぎる巨大な物体にさえ危機を感じないほどに彼の心は凪いでいた。
何故であろう、それは生き切ったからである。
ただ満足感が、やりきったという達成感が、いわば俺はもう精一杯生きたのだという感慨が彼の中を占めていて、だからこそもう足の一本すら動かそうとは思わぬのであった。
諦感にも見える彼の小さな体につまっていたのは、ただただ幸福だったのである。
思えば土中の七年間、閉塞されていながらも温かな世界で、ただ広々とした空を夢見て眠っていた。夢叶い土より這い出してから、乾きたての羽根で忙しなく空を飛び、木にぶら下がり、本能のまま鳴き叫び、やがて子も成し役目を終えた。俺の一生がここで終わって果たして何の悔いがあろう。残暑の日差しが彼を焼こうと、青い空が死に行く体を笑おうと、果たして何の恥があろう。
そうして死を待つ彼だからこそ、ただ陽に焼かれるのを待つ幸福な彼であるからこそ、末期の時までの満足感のなかで夢想じみた妄想を巡らしているのであった。
曰く。俺は土の中に生まれ、そうして土より地上に出た。まるで異なる世界へと生まれ変わった。ならばせめて死ぬ前の一興に、地上の世より、天上の世を目指してみたいものだ。
――あの笑う青い空。俺を焼く日差し。どうせ死ぬまで暇なのだ。土中より地上に出られて、大気中より天上に出られぬ道理はない。冥土の土産にあれらを間近で見られぬものか。
願わくば羽根よ今一度力を持ち、足よもう一度大地を蹴られぬか。
彼は思いのすべてを叶えて生きてきた。だからこそ死ぬ前の妄想に見た、思い残しのような思い付きを叶えずにはいられなかった。
夢うつつの中、蝉は足の動くのを想像した。そうすると本当に足の動いたような気がした。仰向けの体の立ち上がったような気がした。そうしてもうほとんど動きようのない羽根の、まるで羽化したばかりの時のようにみずみずしく羽ばたかせるのをイメージした。羽根のわずかに動いたような気がした。そうして彼は夢とうつつの狭間の中、地面を蹴って飛び上がった。じゃあじゃあじゃあと同胞達は喝采するように喚いている。天よ、出会って間もない青空よ。俺はかつて土中より地上に出るという偉業を成し遂げた。ならばきっとお前のところへたどり着いて見せよう。小さな虫と侮るなかれ。この羽根には死に行く者の酔狂が詰まっているのだ。蝉はそうしてぐんぐんと、空へ空へ上っていった。
夕方の静かな街路樹の傍に、一匹の蝉が仰向けて死んでいた。悪童がひっくり返して驚いたのには、普通の蝉と違って、その羽根の焼け焦げていたことである。
秋近き、晩夏のことであった。