老桜奇譚
快晴の翌日、冬子は放課後になるのを待ち遠しがった。短縮授業だから、他の生徒も心持だけは同じであっただろう。
(夢を見たなあ)
ただし冬子の違うのは、ほかの生徒より顔色の一層優れないこと。夢見が悪かった上、ちっともその夢を忘れられない。友人には体調が悪いと告げ、冬子は昼間の帰り路を一人足早に急ぐ。
母の言葉。忘れていたはずのものを振り払い振り払い歩を進めていると、夢の中のごとく桜の花が風に乗って流れ冬子は足を止めた。そう言えば昨日は、あの老爺にもう一度会ってみたいと考えていたのだ。
「おお、冬子ちゃん。学校帰りかい」
気づけば桜の駐車場の前までたどり着いていたらしい。桜の花が一つ二つ絡んだ見事な総白髪に、人のよさそうな表情を浮かべる昨日の老爺。
「こんにちは。明日から授業なんです」
一度しか会ったことがないはずなのにほっとしたのは、どうしてだろうか。
視線を動かすと、駐車場を潰すという祖母の言葉通り工事が始まっているようだった。ただ、まだ本格的には始まっていなさそうで、駐車場の看板を撤去する代わりにロープを張り「工事中のため立ち入り禁止」との看板を出している程度のものである。盛りの桜の木の前には、小ぶりながらもどこか荒々しい印象のある重機が佇んでいる。やわやわとした印象の桜と、武骨な重機の並びを照らす春の日。木を引き倒すためのものだろうと気づいた時、言いしれぬ気持になった。
「もう、工事ですか」
「そうだなあ、案外早かった。もう潰すらしい。桜の木と砂利を撤去して、更地にするんだ。跡には何が建つのか……。木は今日か、明日にでもということだった」
「早いですね……」
切ながる冬子に、老爺はふと気づいたようだった。
「ああ。あまり引き止めてはいけないな。お昼もまだだろう。遅くならないうちに……」
「遅くなった方が、いいんですけどね」
「うん?」
「うちの母、まじめが嫌いなんです」
口から出た言葉が陰鬱に響いて、冬子はつい下を向く。他人に言っても詮ないこと。しまったと思ってフォローの言葉を探すが、それよりは老爺の方が早かった。
「……。冬子ちゃん、少しおいで。いいものを見せてあげよう」
老爺は冬子の表情を見、言葉も聞いていたはずだが彼女の苦痛には直接返さない。その様子は覚えがある気がした。どこで感じたものと似ているのだろう。
考えていた冬子が顔を上げると、目の前にいきなり緑が広がった。
「え?」
――開けた空き地。広さはあの駐車場とそう変わらない。真ん中の方は砂地になっており、砂地を囲むように草が生えている。奥には一本の桜木が今を盛りと咲いていて、その後ろには誰かがいるようだった。
「さあ向こうへ座ろう、桜の裏に先客がいるけれど」
桜木の下には腰掛けるのにちょうどいい岩が二つほどあり、老爺は慣れた様子でその空き地へ入っていく。何事が起きたのかと考えていた冬子だったが、とかくもついていかねばなるまいと老爺の後を追い、やがて桜の下の岩に腰かけた。
「少し、爺さんの昔語りに付き合ってはくれんかね」
「……はい」
正直まだ冬子は混乱していたが老爺があまりに愛しそうにこの土地を見つめていたので、何となく頷いた。話を替えてくれたことにほっとしたのもある。
老爺も冬子の隣にゆっくり腰掛けた。
「この土地はね。何年くらいだろうなあ。とにかく、色んな子供たちがここに来て遊んで行ったんだよ。そうしてしばらくすると違う遊び場を見つけたりして寄りつかなくなるが、またふっとこの桜を見に来たりするんだ」
先ほどは気づかなかったが中央の砂地で子供たちが楽しそうに駆け回っており、甲高い声が辺りに反響している。それを見守っているらしい母親同士はお喋りに花を咲かせ、今度はそちらから笑い声が響くこともあった。
何となしに冬子もその光景をぼんやり見ていて、ようやく気付いた。ここはあの駐車場によく似ている。
「かくれんぼなんかでは、桜の裏に隠れる子も多かったなあ。見つかりにくいみたいで」
「大きい桜だと、体が隠れちゃいますからね」
幼い女児の忍び笑いが、桜の後ろから聞こえたような気がした。それはただただ男の子に混ざって遊んでいた昔の冬子であるようだ。老爺は構わず続ける。
「君のおじいさんもそう、かくれんぼが好きでね。まあ鬼は決まって一人なんだが。表通りから見えないよう、桜の陰でよく本を読んでいたんだ。もっとも周りに民家の少ない頃で、抜けるような青空だった。同じような人は結構いたからか、座りやすいように誰かが小さい椅子を持ち込んだり」
「そうなんですか」
言われれば、どこかから文庫のページを繰る音と衣擦れの音が聞こえたような気がした。先ほどからの音は果たして気のせいだろうか。この不思議な空間では分からない。冬子はまた老爺の言葉に耳を傾ける。
「一人、人がいればまた新たに人が来る。自然とたまり場のような、公園のような場所になってね。幼稚園のお迎えのバスなんかもここに来るようになったし、桜のある空き地と言えば目印になるから待ち合わせ場所にもなっていった」
老爺の語り口に合わせて、バスのクラクションが今度ははっきりと聞こえる。中央で遊んでいた子供たちの姿はいつの間には消え、代わりに残った親たちのおしゃべりが楽しそうに響いている。
「でもおじいさんは、彼は誰をも見ることはなかった」
桜の裏の気配は変わらず本を読んでいるようで、時折ページをめくるような音が聞こえてくる。彼は果たして誰なのだろう。老爺の語る通り冬子の祖父なのだろうか。それを問うべきか迷う間に、誰かがこの空き地の入り口から真っすぐこちらに向かう足音がした。
冬子ははっと息を呑む。背まで伸ばした黒髪とまっすぐ前を向く凛とした黒目。
「……おばあちゃん」
冬子と同じ制服を纏い、また面差しも彼女に似ている。表情の幾分明るいのが冬子との違いであるようだ。
「美しい人だったなあ」
老爺の目は若き祖母の黒髪を捉えている。
「人のことが大変好きな人だった」
老爺の声。祖母は桜を目指しているようだが、足音が聞こえているはずの桜の裏の人影はまだ動かない。
やがて祖母は桜の裏の人影に隣り合うようにして座ったようだった。本を強く閉じるような音と、ぶっきらぼうな声が響く。
――何か用?
――ううん。穴場が取られちゃったから。私もここで読んでいい?
「そしていつも、ただ隣に寄り添ってくれる人だった。人に背を向け逃げていた私に、ただ欲しいものをくれる人だった」
冬子はようやく気付き始めた。桜の裏の人影は。この老爺は、老翁は、老桜は。
「冬子ちゃんは、いつからかここにかくれんぼをしに来なくなったね」
老爺は冬子に向き直り見据える。
「だが昨日は幸せそうに、本を読んでいた。私は嬉しかったよ」
「……でも、私はいつか、明るいお転婆な子にならないといけないんです」
「どうして」
「どうしてって……、わからないけど……」
冬子は老爺の顔をまっすぐ見られなかった。どうして期待するのか。それは冬子が一番知りたいことでもある。今更、なれるものでもないのに。どうして。どうして、いずれならないといけないと思っていたのだろう。
老爺は続ける。
「何が好きでもいいじゃないか。ありのまま、あればいいのだよ。それが君なのだから。そのままの君をあれこれ言う者もいれば、そんな君に寄り添う者もいる。――私も昔は、そのことに気づかなくてね」
桜の裏の人影は、若い頃の祖母と連れ立ってどこかへ行くようだった。その男性の顔はどこかで見たことがあり、何より老爺によく似ていた。
「あの。あなたは……」
「ははは。あなただなんて他人行儀な。いつも手を合わせてくれているのに」
答え合わせを急こうとする冬子を制するように老爺は首を振り、人の好さそうな笑みを浮かべながら言った。
「さ、冬子ちゃん。一度はおうちにお帰り。お腹すいただろう。そしてどうかもう一度夜に来てくれないか」
老爺の姿が掻き消えるとそこはまた元の駐車場で、目の前では武骨な重機が夕陽に照らされていた。
その、夜。ちょっとコンビニまで、という言葉は両親にすんなり受け入れられた。勤勉な子が我儘を言ったので喜ばれたのである。母は笑顔であった。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
「……うん」
少しむなしさを感じたが、冬子の頭は別のことで占められていた。桜の祖父。言われた言葉。今の自分。
――いつかは、いずれは、昔の明るい子に戻らないと。
――ただありのまま、あればいいのだよ。それが君なのだから。
もっと話を聞いておきたい。気づけば冬子はまだ肌寒い四月の夜道を走っていた。
「よく来たねえ」
駐車場を守るロープは取り払われていた。
届きそうなほど近い満月の下で、老爺は老桜の幹に腰掛け、風と共に朗らかに笑っている。風の吹くたび花弁が舞い、白髪がきらきらと照らされていた。ふうわりとゆっくり、老爺は幹から文字通り舞い降りてくる。
「春はばけもの。ようよう崩れ行くたましいは恋心にも似たりていと凄し。未練は風となり花に宿りて今に至らん」
「ちょっと、違うような……」
「そうかい」
老爺はにこにこと笑っている。月は闇夜にぽっかり浮かび彼らを見下ろしている。
「あの。こんばんは、おじいちゃん」
まだ確信がなかったから冬子は老爺を初めて「おじいちゃん」と呼んだ。遺影の中の祖父は老爺よりも随分若い。何せ父が生まれてすぐに、祖父は亡くなってしまっている。
「ははは。初めて呼ばれたな。しかし今や私はただの桜だからなあ」
子供をあやすような調子で老翁は笑うように言う。冬子への慈しみがあった。
「不安そうな、戸惑っているような顔をしている」
「うん。……もう少し、お話したくて」
いつかは、いずれは。元の自分に。普通の子。冬子の中にこびりついている言葉がぐるぐると回っている。
――どうして。
老爺に聞かれ即答できなかった。だからか、冬子の中には「どうして、ならないといけないんだろう」という疑問も渦巻いていた。
「とらわれることはない」
老爺は月夜の中でにっこり笑った。
「私は若くして死んだ後、魂が桜に宿った。そして桜となってただあり続けた。元は人であったから、難しかった。花の散るのを惜しむ人に、あらん限りで咲こうとしたこともある」
冬子はじっと老翁の顔を見つめる。
――家族の言葉。活発だった頃、今の自分。明るい子に。
「しかしね。散った花が戻るわけでなし、また散った花を褒める者もいる。結局桜は桜でしかなく、それを人の想いに当てはめようとすると、無理が生じるのさ。桜は桜でしかいられない。それは人も同じでないかな」
冬子は冬子でしかいられない。昔は活発で、今は勤勉なのが冬子である。
「説教臭くていかんな」
老爺は笑い、そして冬子の目をしっかり見据える。
「何も、いきなりでなくていいさ。ありのまま生きなさい。そして傷ついた時、不安な時は、桜の木に隠れなさい」
途端、風が枝を揺らし、月まで舞い上がらんばかりの花吹雪となる。
「あ……」
風と共に老翁の姿は掻き消え、冬子の前には零れるばかりに花のついた、老桜の枝が落ちていた。
桜の精たる祖父との別れは随分あっけなく済んでしまった。
翌朝冬子は、老桜の枝を仏壇に供えると、そのまま祖母の部屋を訪ねた。
「おばあちゃん」
「あら冬子ちゃん。おはよう。今日はお休み?」
「おはよう。うん……」
――普通の子に。ありのままに。
冬子は後ろ手に隠していた国語の教科書を掴み直した。
「今日は、ここで本を読んでもいい?」
「ええ。もちろんどうぞ」
祖母は嬉しそうに笑っている。冬子は冊子を開きながら、祖母の笑顔が桜に似ていると思った。
(普通の子じゃないのよ)
まだ言葉は消えない。それでもいつかは自分も、桜になれるだろうか。