虹色の種
昔むかし、まだ神様が人と暮らしていたころの話であります。
ある村の近くに一柱の若い神様が越してまいりました。神様は木や草花が大層好きで、緑豊かなこの村を気に入ったのであります。
里山や畑を守る良い神様でありましたので、村の人々も神様を頼りとし、神様もまたよくしてくれる村の人々が大好きでした。
村の人々は神様のために森にお社を建て、神様も人々に感謝しながらそのお社に住まい、村を加護しておりました。
ある日のことでございます。ふらふらと村を離れ、神様のお社へ参る少年の姿がありました。
はて、作物の祈りにでも来たのだろうか。そう考えた神様はお社の扉を少しだけ空けて、様子を窺っておりました。
「神様。神様。村を守る神様にお話しするのは筋違いと思いますが、どうか私のお話をお聞きください」
陰鬱な表情のまま、どうやら何かを話しに来たらしい彼は、大きな屋敷で下男をしている少年でありました。
「神様。私の主人は私をぶつこともなければ、嫌なことを言ったりもいたしません。大層できた主人であります」
少年は主人をほめたたえます。不思議なことです。少年は主人のすばらしさを神様へわざわざ伝えに来たのでしょうか。
不思議に思いながら神様が聞いていると、少年は口の中をもごもごさせ、やがて決心したように口を開きました。
「しかし……、しかし私の心がけが悪いために、こんな不愛想な主人はいやだ、逃げ出してしまいたいと思う時もございます」
少年の表情は沈痛でした。神様は彼の働く家が村一番のお屋敷で、主人が村人に冷たく当たるのを思い出しました。少年は泣き出しそうになりながら続けます。
「ぶつこともなければ怒鳴ることもありませんのに、その言葉の愛想のなさに、あるいはたまの皮肉に、ほとほと嫌気の差すことがあるのです。神様、私は悪い人間であります。悪い奉公人なのであります。主人なくては生活もできませんのに……」
少年はとうとう泣き出してしまいました。
きっと少年には主人を責める心がないために、その責めを自らに負わせているのでありましょう。人とは何とも難儀なこと。
「おや」
神様はあることにお気づきになりました。
少年が自分を責めるたび、彼にまとわりついた黒い影がうねり、まるで蔦のように、彼の身を苛んでいるのであります。
神様はその様子を気にされたのか、少年に声をおかけになりました。
「少年よ。そこでは遠い、もう少しこちらへ来られぬか」
「はい」
素直な少年は社の前まで歩いて参りましたので、神様は手を伸ばしてその黒い影をそっと引っ張られました。
すると、何ということでございましょう。蛇のようにするすると引き抜かれた蔦のような影は散り散りになりますと、神様の手の中にはころんとした小さな黒い種が一つ、乗っておりました。
黒い影は、その一つの黒い種から生まれていたのであります。
「神様。神様。今、何かなすってくださったのですね。体が少し、軽くなりました」
「うむ。黒い種が植わっていたから、引き抜いたのだ」
少年は感謝のまなざしを社に向け、何度もお礼を言っております。
神様は手の上に乗った、スイカの種よりさらに真っ黒な種を見つめながら少年に問いました。
「どうだ、この種を私にくれないか」
「ええ、もちろんですとも。そんなものでよろしければ、差し上げます。ああ。神様。いつかちゃんとお礼をさせてくださいね」
少年は喜んで、お礼を言いながら帰っていきました。
神様は種を見つめております。少年を悩ました種でしたが、木や草花の好きな神様には捨て置くこともできません。何かの役に立つこともあるだろうと、そっと裏庭に埋めておしまいになりました。
種を埋めた夜のことです。神様が夜に咲く花たちを社の窓から見守っておりますと、草を分け忍び足で歩いてくるような音がいたしました。足音は社の前で止まり、やがて若い女のすすり泣くような声がいたしました。
「神様。神様、どうか私に罰をお与えください」
尋常の言葉ではありません。神様ははっと驚いて社の扉をそっとお開けになりました。
神様は泣いている若い娘の姿に覚えがありました。少し前に子供が生まれ、神様が祝福を与えた娘であるのです。
「神様。私は大変悪い母親なのです。どうか罰をお与えください。毎日毎日、娘はあやしても眠らず、言うことも聞いてくれず、明けても暮れても泣き続け、私は休む暇もありません。とうとう今日は、まだ赤ん坊の娘を叱りつけてしまいました」
娘の顔は子供を産んだ頃よりやつれており、目の下には大きな隈ができておりました。
また神様はそっと耳を澄ませもしてみました。赤ん坊の泣く声は致しませんので、どうにか寝かしつけた後に人目を忍んでここまで歩いてきたのでしょう。
「神様、私は何と悪い母親なのでしょう」
娘は泣きじゃくります。自らが腹を痛めて産んだ子を責めることもできないために、その責めを自らに負わせているのでしょう。人とは何とも難儀なこと。
おや、不思議なことです。真っ暗な夜ではありますが神様の目には、娘が自分を「悪い母親」と言う度にあの少年にも巻き付いていたのにも似た、黒い蔦のような影が絡んでいくのが見えました。
はて、また同じものだろうか。どこかに種があるのかしら。
「娘よ。もう少しだけ、社の方に来てはくれないか」
神様の言葉に、娘は泣きながらも社に近づいてきます。神様が少年にしたのと同じように黒い蔦を引っ張りますと、またも影のような蔦は散り散りに消え、神様の手の上には黒い種が一粒ころんと乗っているのでありました。
神様が不思議に黒い種を見つめている内、ドサっという音がして、娘はとうとう倒れるように眠ってしまいました。神様は夜に飛ぶこうもりにお願いすると娘の家に遣いをやりました。
「このところ、塞ぎこんでいたのです。神様のところにいてくれてよかった」
「帰ったら、寝かせてやろう」
迎えに来た娘の夫やその母は心配そうな表情で娘を抱えると、何度も頭を下げながら帰っていきました。
神様は家族を見送りながら、その種もまた裏庭に植えることにいたしました。
果たして何の種なのだろう。越してきたばかりの若い神様にはまだまだ謎でありました。
夜が明けて、空の白み始めるころ。神様は社の裏庭を覗きにまいりました。
黒い種は二つとも、黒い芽を出しております。
果たしてどのような花が咲くのだろう。芽がこうも黒いのだから、黒百合のような花が咲くに違いない。この種の正体はいったい何なのだろう。少年や娘が自らを苛むたびに育っていたようだった。
「神様、神様」
思案に暮れる神様を呼ぶ声が致します。
大好きな村の民のことですから、神様は急いで社の方へお戻りになりました。
「神様。どうかこの婆の話を聞いてはくださいませんか」
社の前に立っていたのは一人の老婆でした。どことなく諦めの浮かぶ表情です。
神様は、彼女が自分の息子夫婦と共に暮らす老婆であることをご存じでした。そして、息子夫婦が彼女を疎んじていることも。
「おや……」
神様がもしやとお思いになった通り、彼女にもまた黒い黒い蔦が絡んでおりました。
昨日の娘や少年と同じく、きっと何か悩むことがあるのだろう。人とは何とも難儀なこと――。
「数年前に爺さんが亡くなってからというもの、息子のもとに身を寄せておるのです。しかし今まで共に暮らしていなかったせいもありましょう、息子の読めとはなかなかにそりが合わず、とは言え食わせてもらっている身では何も言うこともできず――」
ああ、きっと何も言えないため、責を自らに負わせているのでありましょう。
神様は、老婆に絡む黒い蔦を引っ張ろうと手をお伸ばしになりましたが、その時老婆は何かハッとしたように顔を上げたのです。
「ですので、ですので、婆は旅に出ようと思うのです」
老婆がそう言った途端、黒い蔦が霧散し、真っ赤な花が老婆の周りを囲むように見え、神様は伸ばしかけた手を引っ込めておしまいになりました。
老婆は続けます。
「この年でございますから苦労することも大層多いことでしょう。しかしこうして、この村にとどまりうじうじと悩んでいても詮無いこと」
老婆の表情は大層晴れやかに変わっています。
きっと、思いはしても口に出さなかったことを今初めて話すのだろうと神様は思われました。
そしてこの思い付きがそう悪いことであるとも思われませんでしたので、神様は老婆のためお祈りになりました。
「どうかその旅が幸い多いものとなるように」
「ああ。どうやら苦悩の種が取れたような気分だ。婆はこれにて……」
老婆は手を合わせると社に背を向けて、またゆっくり歩き出します。その背には真っ赤な花を背負っているのが神様にもよく見えました。
「はて……」
赤い花、黒い靄、黒い種。神様は首を傾げて考えておりましたが、やがてあっと気づいたように、森で一番見晴らしのいい木の上にお上りになりました。
そこからは、村が一面見渡せるのです。
――老婆は苦悩の種と言った。
神様が村を見渡しますと、いつもの通りの朝の景色であります。田畑を耕すために鍬を担いでいる人、水を汲む女性は確か昨日の娘で、お屋敷で奉公する使用人はあの少年です。
神様は心の中をも見透かすように、もっと目を凝らしてみました。
すると何とも不思議なことに、娘も少年も、それ以外の皆も、その体が色とりどりの花で覆われているように見えました。
愛する人に会えば赤や黄の花が咲き、悲しいことがあれば青や紺の花が咲きます。
「ははあ、やはりな。これは人の心から生まれた種なのだ。人は様々な色の、虹色の心を持っている。昨日の二人も元は色々の種を持っていたのに、自らを苛むことで黒い蔦を育ててしまい、もとの花をすっかり覆ってしまったのだろう」
合点のいった神様は、高い木からするすると下りられますと、裏庭へとゆっくりお歩きになりました。
そこには神様の考えていた通りの光景があったのです。
少年の種からは真っ黒の薔薇のような花が。娘の種からは真っ黒の百合のような花が見事に咲いておりました。神様が花の様子にじいっと見入っておられますと、花弁一枚一枚が朝の光に焼け付いて、はらはらと地に零れてまいります。
咲ききって役目を終えた花は、二人の心と共に昇華したのでありましょう。後に虹色の種を一つずつ残しますと、まるで煙のように立ち消えてしまいました。
神様はそれをお拾いになると、裏庭にまたお植えになるのでありました。