雀翁譚
サナに本を読む習慣はなく、ましてや絵本などなおさら触れる機会のないものであった。
おとぎ話でさえ知っている数は片手で足り、起承転結を説明できるものとなるともっと少ない。
(珍しく絵本なんて借りたからかな)
茅葺の家屋が立ち並び、遠く広がる田畑は黄金色。
あぜ道を行く女性が身を包んでいるのは確か小袖という装束だとサナは思い出す。
肩に天秤棒を担ぐ男性の装いを何と言うかは分からなかったが、少なくとも自分自身が場違いであることだけは十二分に分かった。
「どうしてこんなところに来ちゃったんだろうね?」
ため息とともにしゃがみこみ、地面をつつく雀に問うてみる。
声に気づいたのか、雀はじっとサナを見て「さあ?」とでも言うように小首を傾げた。
現状の把握ができなくて、そしてどうするべきかもわからなくてサナはひたすら途方に暮れる。
「嬢ちゃん、妙な格好をしとるなあ」
「わっ」
いきなり声を掛けられ、サナは悲鳴にも似た声をあげる。バサバサと雀が飛び立った。
振り向いた先には、あごひげを長く伸ばした一人の老爺。
「どこから来たのかね」
好々爺然とした笑顔に、サナは自分が安心したことに気づいた。
曲がった腰、後ろ手を腰に当てる仕草。しかしどことなく気品のあるしっかりとした口調で老爺は問う。
「道にでも迷ったかい?」
「いえ、あの……。気づいたらこのあたりを歩いてて。……この辺ってどこですか」
「ああ、やはり迷っとったのか。どこへ行こうとしとるんじゃ?」
「えっと、家に帰りたいです」
「この近くかい?」
「いえ、違うと思います」
要領を得ないサナの言葉に首をかしげると、老爺は一つ頷いた。
「わけありかの。よければ話を聞かせてくれんか。力になれるかもしれん」
変わらず、人懐こい笑顔を見せる。
藁にもすがりたい気持ちはあったが、このまま頼ってしまっていいものか。
分からないことが一時に起きすぎて、正常な判断が下せない分慎重になるほかなかった。
サナが逡巡しているのを見て、老爺は遠くにそびえる屋敷を指さす。
「わしはあそこに住んどる者だよ。この辺じゃ雀の翁なんて呼ばれとる。老いぼれ一人で寂しいんだ、話し相手にでもなってくれんかね」
ただ単に、サナが困っているから声をかけてくれたのだろう。
表情からそれ以外のものは読み取れなかった。
(……とりあえず)
話をしてみるだけ、してみてもいいのかもしれない。
頼る人も物もないこの場所で、サナは自分の勘だけを頼りにうなずいた。
「お邪魔させてください」
村一番の長者屋敷のようだった。
「白湯を二つ、用意してくれんか」
「すぐに」
翁は土間にいた若い女に声をかけると、サナを板敷の間に案内する。
中央に囲炉裏が置かれた広い部屋だった。勧められるまま、サナは藁座へ腰を下ろす。
きょろきょろとあたりを見渡すサナに翁は穏やかに笑った。
「爺さん一人に、過ぎた屋敷だろう。本当は手伝いもいらなんだが、色々あって建ててもらえたもんを断るわけにもいかんし、かといって一人じゃあこんな屋敷の面倒を見きれんから」
「いや、かっこいい家だなと思って。私のいたところじゃあまり見ないから……」
サナは感想を口にする。予想外の答えだったのか、翁は一瞬目を丸くすると、また微笑んだ。
白湯が運ばれてくる。その様子を何とはなしに眺めながら、サナは道すがらかけられた声を思い出していた。
「雀翁じゃくおう、その娘は何です?」
農作業の手を止めて声をかけてきた男は、冷たくサナを一瞥した。
サナは一瞬怯んだもののすぐに気を取り直し、努めて平静を装う。
翁は諭すような声で説明した。
「そこの林で迷っておったのよ。どうやらわけありのようだから、預かろうと思ってな」
「そんな、人が良すぎますよ。ただでさえ怪異が出ているのに騙されでもしたら」
「騙されたとて、元に戻るだけだろうて。それにこんな若い娘さんを林の中に置いてはおけんからなあ」
男はサナと翁を見比べて嘆息し、渋々といった様子で引き下がったのだ。
(このおじいさん、信頼されてるんだな)
信頼できる材料にサナはほっとした。
回想を終えたサナは白湯に口をつけながら翁を盗み見る。
途方に暮れてはいたが、こうして拾ってもらえたとなると案外何とかなるのかもしれない。
「さて、話しづらいのかもしれないが……。どうしてあんなところにいたのか、わけを話してもらってもいいかね」
「はい。あ、えっと、まず、私の名前はサナと言います」
年齢も含めて簡単に自己紹介を終えると、サナは経緯を説明する。
おとぎ話の本を借りて読んでいたら、いつの間にかあの林を歩いていたこと。
自分の住んでいた場所も時代も、こことは遠くかけ離れていること。
そして、何故こうなってしまったのか皆目見当もつかないこと。
一通りを話すころには、サナも今の事態を「そういうもの」として捉えはじめるようになっていた。
翁は信じられないといった表情で、目をぱちくりさせている。
「にわかには、……」
それだけ言って、白湯をすすった。サナもつい倣って白湯を口にする。
格子から外の空気が入り込んできているからか、ずいぶん冷めてしまっていた。
(そりゃそうか)
サナだって、今ようやっと事態を把握し始めたのだ。
信じてもらう方が難しいのかもしれない。
翁は器を置くと、一息ついた。
「信じがたいことではあるが、しかしまあ、サナのその風変わりな装束を見る限り嘘でもなかろうて」
サナは自分が高校の制服姿であることを思い出した。
セーラー服なんてこの時代にはないだろうから、風変わりと表現されても仕方がない。
続きの言葉を待つサナに、翁は先ほどまでのように微笑んだ。
「……帰る方法はとんと見当がつかんが、とりあえずどうさね、行くあてもないならこの爺の家におらんか」
「え」
言葉通り、行くあても頼る人もないサナにとっては願ってもない申し出だったが、素直に甘えてしまっていいものか躊躇する。
どう返事すべきか迷っているのを見透かすように、翁はさらに続けた。
「その、雀の何とかという書物を読んでここへ来たんだろう。それならこの雀のじいさんに会ったのも、何かの縁さ」
翁は笑っている。
縁と言われれば、確かにそうなのかもしれない。
(どうしよう……)
目の前にいる翁以外に、頼れるものがあるのかと問われれば答えることができなかった。
ここがどこかも、いつなのかもわからない。再び林の中へ逆戻りしても何も進まないことだけは事実である。
頼るほかない。そう思って答えようとした瞬間、翁ははたと気づいたように顔を上げた。
「忘れとった。そろそろ日が暮れるのう。……すまんが、ちょっと出てくるでな。その間に、どうするか決めといてくれんかね」
「あ、ありがとうございます」
「かしこまった言葉遣いはいらんよ。孫くらいの年だしの……家の中でわからんことがあったら、さっきの若いのに聞いてくれんか。では、ちょっと出てくるで」
腰を上げ、いそいそと翁は玄関へと向かう。
一人で考える時間を与えてくれたことに感謝しながら、サナはその後姿を見送った。
翁が見えなくなってから、風の吹きこんでくる格子に近づいてみる。冷たい風が肌に心地よかった。
立派な庭の真ん中には、一羽の雀。サナの住んでいた場所ではあまり見なかったからまじまじと見つめてしまう。
どうしてか、雀の方もじっとサナを見つめているように思えた。
「……『舌切り雀』」
借りた本のタイトルを口にする。
ぴくりと、雀が反応したようにも見えた。
「そういやさっきも雀に会ったな。群れてないし、同じ雀かな」
バサバサと、鳴き声も上げずに再び雀は飛び去って行く。
(とりあえず……)
考えるまでもない。紛うことなきタイムスリップなのだ。
頼れる人と物を作っておくに越したことはないだろう。そう結論づけると、サナは翁の帰りを待つことにした。
「おお、サナちゃん。お手伝いかい」
「あ、こんにちはー」
元来の性格ゆえか、サナがここになじむまでそう時間はかからなかった。
井戸に水を汲みに行ったところでかけられた声は、近所に住む顔なじみの女性のものだ。
サナの母親ほどの年齢の彼女は、サナがここで世話になり始めてから、何かと気にかけてくれていた。
一通り天気の話などをした後に、女性はそういえばと声を潜めて告げる。
「耳に入ってるかもしれないけど。また怪異が出たってえ話しさ。頭をがぶりとやられてたようだよ。……サナちゃんも夜遅くは出歩かんように、心配だからね」
「え……、はい、気をつけます」
怪異が何のことを指しているのかは、実のところサナもよく分かっていなかった。
ただ、人を襲うようなものであることと、それが井戸端会議のついでに告げられるくらい、このあたりの人にとっては当たり前のものになっていることだけは知っている。
(妖怪……?)
恐らく、自分が元いた場所ではそう呼ばれているものがきっと該当するのだろう。
何となく、言い知れない空恐ろしさだけを感じる。あまりにも現実味がない言葉であるからか、この話題には触れたくないと思っていた。
サナが黙ってしまったのを心配してか、女性は明るい声で話題を変える。
「そういやサナちゃん、ここの翁がどうして『雀翁』なんて呼ばれているかはもう話したっけねえ」
「いえ、不思議には思ってましたけど……。どうしてですか?」
興味深そうに返したサナに、女性は安心したようだった。
にっと笑って語りだす。
「昔、といってもそんなに前でもないけれど。翁は一人のばあさんと一緒に過ごしてたんだよ」
初耳であった。
だが、孫がいてもおかしくない年だから、そういったこともあるだろう。
サナは女性の話に相槌を打つ。
「じいさんはあの通り、徳のある人だろう。ある日、迷い込んできた雀を保護してやったことがあったそうだよ」
「へえ」
「だがなその雀がばあさんが洗濯に使う糊をぺろりと食べてしまったらしい」
「ああ……」
洗濯糊というものはこちらに来てサナも初めて知った。
どうやら米から作られているものらしいから、雀が食べてしまってもおかしくないのかもしれない。
「怒ったばあさんは雀の舌をちょん切ったって話だ。ひどいもんだろ」
「舌を」
もしサナのいた世界でそんなことをすればたちまち動物虐待として非難されるだろう。
それをあの翁の妻がしたという事実に悶々としながらサナは続きを促す。
「雀はもちろん逃げ出したさ。そんで爺さんがそれを追って山へ入ってな。まあ恐らく雀の歓待を受けたんだろうて、金銀財宝のどっさり入ったつづらを持って帰ってきた」
「はあ」
雀が人間を歓待したことも金銀財宝を持っていてそれを渡したことも、サナにはにわかに信じがたかった。
まるでどこかのおとぎ話だと思ったが、怪異が当たり前のように現れる世界なのだから、そうおかしい話でもないのかもしれない。
「で、財宝に目がくらんだばあさんは同じく山に入ったが、……恐らく雀に恨まれてたんだろうな、化け物に食われちまったってお話さ」
「……おばあさんは見つかってないんですか?」
「さあなあ。しかしもう何年も前のことで、山から下りてこんとなると死んでいてもおかしくなかろうて。……悪いことはしちゃいかんし、良いことをすればきちんと自分に返ってくるってこったな。この辺じゃあ子供を寝かしつけるのにこの話を聞かせたりもしてるんよ」
語り終えると、女性は満足げな顔をした。
サナが心の中で話を反芻していると、遠くから呼び声が聞こえてきた。
「サナー? どこへ行ったかのう」
「わ、しまった! 戻らないと」
「ああ、すまんね、お手伝いの途中だったねえ。おばさんに捕まってたってお言い」
ゆっくりとやってきた翁は、去りゆく女性の後姿に気づいたようだった。
困ったように笑いながら、サナに問う。
「話の途中だったかの」
「ごめんなさい……」
殊勝げに頭を下げるサナに翁は手を振る。
「構わんさ、まあ、ほどほどにな。……何の話じゃった?」
「また怪異が出たってことで」
「ああ……」
嘆息した翁の、あきらめとも何ともつかない表情が印象的だった。
「頭をやられてたとか……。そんなに危険なものだとはちゃんと知らなくて」
「そうさのう。気をつけないかんの」
話をしながらサナは屋敷に戻った。
夜はできるだけ、帰るための方策を考える時間にしていた。
昼は忙しく動き回っているからか、そういったことを忘れがちになってしまう。
(いつ帰れるのかな)
サナの家族は皆仲が良かった。学校生活も何ら問題なく送っていた。
逃げ出したいと思ったことも、生活を放り出したいと望んだ記憶もない。
しかし今こうして、家族も学校すらも存在しない場所にいる。
(……翁も、おばさんも優しくてよかったけど。でも、できたら早く帰りたいな)
手伝いは一人でいいからと、翁は初めにいた女性に金品を渡した上で返してしまっていた。
そうしてまでサナの居場所を作ってくれて、また居候では気を遣うだろうからと仕事も与えてくれている。
(ただ……)
怪異がまた出たなんて言葉を思い起こす。
頭をやられてたなんて平然と語られてしまえば恐れしかない。
そんなの、サナの元いた場所だったら一大ニュースになってしかるべき内容だ。
サナは身を起こすと、格子から庭を眺める。月が冴え冴えと照っていた。
(襲われたくないし、翁やおばさんが被害に遭うのを見るのも怖いし)
怪異が収まってくれればいい。
そうなってくれなければ、サナはいつまでも怪異に怯えてこの場所で過ごしていなければならない。
「何でこうなったんだろう」
ただ、サナは図書館で本を借りようとしていただけなのだ。
現代文の授業で必要だった、ただそれだけだ。
(『舌切り雀』)
サナは、自分が借りようとしていたおとぎ話のタイトルをふと思い出す。
思い出した途端、妙な符合と違和感に気づいた。
「おばさん、何て言ってたっけ」
昼に話した女性は確か、翁が雀によって富を得た話をしてくれたはずだ。
一組の夫婦がいて、翁は富を得、媼は地獄を見ることになった話。
サナもおとぎ話は詳しくないが、それは「舌切り雀」のストーリーそのままではないだろうか。
(そういうこと……?)
事態を理解した。
本来であればすっきり理解するのもおかしいくらいに奇想天外な話なのだが、自分が今「舌切り雀」の話の中に迷い込んでいると考えるほかなさそうだった。
同時に、サナの心に一つの疑念が灯る。
既に翁は富を得ている。さらに言うならばここには雀も媼もいない。
「物語はもう終わっているんじゃないの?」
問うともなく問いかける。答えはどこからも返ってきそうになかった。
しかし「舌切り雀」がおとぎ話である以上、ここもおとぎ話の世界であることには相違ないだろう。
(それなら、物語が終われば)
ここがおとぎの世界であるというならば、物語が終着すれば外には出られるのではないだろうか。
方策にもならない方策であることは分かっていた。しかし、そうして自分自身を納得させないと、何も手掛かりのない場所では心が折れてしまいそうだった。
頼りない藁ではあったが何かを掴んだような気がして、サナはようやく眠りについた。
雀に導かれるまま林道を歩いていた。
気づいた時には歩いていたものだから、どうしてなのかはサナ自身もわからない。
ただ頼れるものが雀しかなく、ひたすらに暗い夜の林道を歩くのである。
やがて雀は木の枝に停まる。
じっとサナを見た。
(……?)
サナが不思議そうな視線を返すより早く物音が聞こえた。
慌てて傍の茂みに身を隠す。素足に小石が刺さり、小さく声をあげそうになるのを何とかこらえる。
だんだんと慣れてきた夜目に映ったのは、見知った人の姿だった。
林道から住まいへと向かっているようだ。
「翁?」
声をかけると、翁は心底驚いたようだった。
それはそうだ。こんな夜遅くにサナがたった一人出歩いているなど予想もしなかったのだろう。
ただ、翁の方も同じ時間に外に出ているものだから強く言えないらしく、ただ眉をハの字にしながら口元だけで笑っていた。
サナが疑問を口にする。
「どうしてこんなところへ」
「いや……、その、探し物があってな」
「手伝うよ」
雲に隠れていた月の光がようやっと射してくる。
翁は首を振り、近くの岩に腰かけた。
「もう帰るから構わんよ。その代わり、一つ、昔話を聞いてくれんか」
その言葉でサナも近くの切り株に座る。
しばらく間を置いた後、決心したように翁は語りだす。
「ばあさんには、私が一目惚れしたんだ」
唐突な切り出しだったが、何を言っているかはわかった。
サナは昼に聞いた話を思い出す。
「わしのばあさんの話、もう聞いてはいるんだろう」
「何となくは……」
良い話ではなかったものだから、サナはごにょごにょと末尾を濁した。
その表情すら慣れているようで、翁はいつものように笑みを浮かべる。
「ばあさんは娘のころ、商いして回っとったんだ。そりゃあえらい美人でな、ばあさん目当てで物を買う客もおった。それをわしが追いかけてな。しつこいと怒られても口説いて口説いて……」
翁は見たこともないような優しい表情をしていた。
いつも笑っている人ではあるが、普段の表情は作っているものかもしれないと思わせるに充分だった。
「容姿だけじゃあないさ。その気丈さが好きだったんだ」
翁はどこかのんびりしたところのある人だった。
きっと、気丈でてきぱきした伴侶なら、ぴったりと相性も良かったのだろうとサナは思う。
「翁に合ってる人だったんだね」
その言葉に翁は一瞬目を丸くすると、顔をほころばせた。
顔を上げて続ける。
「あの雀には感謝しとるよ。欲に目が眩んだばあさんのごうつくさもわかっとる。正しいのは雀さ」
翁の視線の先には、サナを導いた雀がいるようだった。
「でもなあ、でも、今でも夢に見るんだよ、金のない私を叱咤していた姿も、一緒に飯を食った姿も、笑っとった顔も」
「……」
――舌をちょん切ったって話さ。
昼に聞いた言葉がよみがえる。
(でも、それでもやっぱり、奥さん……だもんな……)
翁はとことんまで媼が好きだったのだ。
その愛した伴侶は殺された。しかし翁は「雀が正しい」と断ずるを得ない。
かける言葉もなく戸惑うサナの表情を見ながら、翁は言葉を重ねる。
「ばあさんと散歩した道なんさ、ここは。忘れんよう、こっそりと歩いてな。サナを見つけたのもその帰りさ」
「……いい夫婦、だったんだな」
ぽろっと、サナの口から言葉が零れ落ちていた。
翁は目を丸くしてサナを見る。差し出がましいことを言ったかと思い、慌てて弁解した。
「あ、いや、翁がすごくいい表情で語るから。すごい好きで一緒になったんだろうし、釣り合いっていうのか、バランスよかったんだろうなって」
「『バランス』は分からんが、そうさな、釣り合いは……いやあ、あんな美人を嫁にもろうて、取れていたのかのう」
語る表情は嬉しそうだった。
本当に笑っているような気がして、サナはつい問いかける。
「取れてなかったら何年間も一緒じゃないんじゃないの?」
「そうさ、そうだな……。ああ、そうさ……」
かみしめるような声。翁は何度も頷き、やがてじっと地面を見つめる。
表情はそう暗いものではないように、サナには思えた。
しばしの静寂。しんとした山の空気。
翁はようやっと面を上げ、真に穏やかな表情でサナをじっと見つめる。
「サナ、ありがとうな。……こんな話をちゃんと聞いてくれたのは、お前くらいなもんさ」
(あ……)
サナが何か言いかけたのを制し、「わかっている」とでもいうように翁は首を振る。
「みんな、ばあさんの悪い面しか知らん。悪い面ばかりの人間なんてあるもんかい。わしはばあさんの悪い面も良い面も知っとる」
「長い間連れ添ってたんだもんな」
「そうさ、ばあさんを語らせたら、誰にも負けんよ」
翁の表情は、今までに見たこともないほど輝いていた。
(好きなんだな)
サナは話でしか「ばあさん」を知らない。
翁はその「ばあさん」を心の底からの笑顔で語っている。
だからだろうか、おとぎ話の「悪いおばあさん」のイメージを単純に当てはめてしまうのは何となく嫌だった。
(一番近くにいたのは翁だもんな……)
「……もう一度会うことさえできれば、終わるんだがのう――」
「え?」
翁の声は小さすぎて聞き取れなかった。
目を覚ますと、翁の家にいた。
不思議な夢を見たものだと結論づけ、サナはいつものように身を起こす。
窓の外には一羽の雀が見えた。
(でも、印象深い夢だったな)
忘れてはいけないような気がした。
翁はいつもと変わるところがなかった。
サナも夢だと思っていたから、取り立てて翁に話したりはしなかった。
ただいつものように流れていく時間の中で、サナの家に訃報が舞い込んできた。
「え……おばさんが……」
つい昨日まで言葉を交わしていた女性の死は、にわかには信じがたいものであった。
しかもまた、怪異の仕業であるらしいと聞き、サナの心は一気に総毛立つ。
「葬儀は今日行うと……」
翁も難しい顔をしていた。
諦めにも似たこの表情は、サナも以前見たことがあった。
「サナ、葬儀の手伝いに行ってくれんか。人手が足りんと思う」
「はい。あ、でも私、数珠とか何も」
「そうじゃのう……。悪いがばあさんの部屋から探してきておくれ」
頷いて、サナは奥の間へと向かう。
何度か入ったことがあったが、翁自身の手でいつも整えられている部屋だった。
数珠はすぐに見つかり、サナは手伝いへ行くことにした。
見知った人の死は予想外に辛かった。
葬儀に出るのは何も初めてではないが、つい昨日まで会話をしていた人の死というのは、思考が全く追いつかない。
どこか他人事のような感覚で葬儀をの手伝い終えた後、急な虚無感に襲われる。
(寂しいなあ)
何かがこみ上げてくるのをなんとか耐える。
椀を洗いながら、昨日までの姿を思い起こす。
ここがたとえ物語の中だろうと、面倒を見てくれた人であることには変わりない。
気を緩めてしまえば一気に涙が流れ出しそうで、サナは必死に思考を巡らせる。
(しっかりしなきゃ)
洗い物を終えたサナは与えられた自室へと向かいながら大きく息をついた。
とっぷりと日は暮れている。
(でもなんで、怪異なんて起きるんだろう)
サナは不思議でならなかった。
「舌切り雀」に妖怪の出番はなかったはずだ。出ていたとしてもメインを張る話ではなかったように記憶している。
(あれ……)
そこまで考えて、サナは昨日の話を思い起こす。
おばあさんが化け物に食われた話をしていたのは、ほかでもないおばさん自身ではなかっただろうか。
思い至ったものの、おばさんが動物いじめをするタイプでないのは、付き合いの短いサナでもわかっていた。
(いい人だったよなあ)
生前の姿が思い出され、つうっと涙が頬を伝う。
雀が一羽、サナの姿を見つめていた。
「舌切り雀」の世界の中で、妖怪が跋扈している理由はサナが何度考えてもわからなかった。
ただ何度も何度も考えているうちに月は高く上ってしまっている。
そろそろ寝なければと体を横たえた時、玄関の方で物音がした。
夜半である。
(どうしたんだろう)
この家でサナ以外に物音を立てるのは、一人しかいない。
翁は注意深く周囲を観察しながら、そっと外に出かけて行ったようだった。
(夜ももう遅いのに)
もしも翁が妖怪に襲われでもしたらと考えてサナはぞっとする。
死がこんなにも辛いというのは身にしみて分かったところだ。
サナは弾かれたように翁を追い出した。
草をかき分けて林の奥を進む。
人の行き来があるのか、足元は踏み固められており、進むのはそう苦ではなかった。
(い、意外と速い……!)
翁もそれは同様らしく、道に慣れていないサナには追いつけそうにもない。
ようやっと道らしい道に出た時、サナは既視感に気づいた。
どこで見ただろうとしばらく考え、あっと声に出しそうになるのを抑える。
ここは昨日、夢で歩いていた道だった。
(夢だと思ったけど、もしかして夢じゃなかったのかな)
媼への愛情を語った翁の表情は、本物だったのかもしれない。
そう思って道を行くサナの目に、自然にできたとも思えない石室が飛び込んでくる。
あたりに翁の姿はない。
(探し物って言ってたな、昨日。もしかしてあの中?)
それ以外に考えられず、サナは石室へ向かうことにした。
ところどころ崩れているのか、天井から月の光が射してきていた。
幸いなことに全く見えないということはなく、目が慣れればそれなりにあたりを見渡すことができる。
歩を進めるサナの目に、考えたくなかった光景が飛び込んできた。
「……翁?!」
目は閉じられている。
地面に横たわり、安らかに眠っているようにも見えるが、そうでないことは触れた体温が示していた。
ひんやりとした感触に泣き出しそうになるのを堪える。
立て続けに起きた身近な人の死に耐えられるほど、サナの精神は屈強ではなかった。
(何で……)
どうしてこんな世界に来てしまったのかとサナは考えていた。
「サナ、どうしてこんなところにいるんじゃ」
「……え?」
聞き慣れた声に驚き、サナは発生源を探す。
少なくとも目の前の遺体からではないことは分かった。
サナがくるりと振り向いたときに目に入ったのは、人ならざるものだった。
「追うてきたのか……。わしの不注意かのう」
翁の声を発しているそれを翁と認めるのは耐えかねた。
土のにおいを漂わせながら、妖怪とでもいうべきものがぬるりと近づいてくる。
「どういう……」
足はまるで蛸のようである。
どこからが体でどこからが顔なのかはわからないが、口と思しき場所からは舌が長く伸びている。
どろどろに何かを溶かせばこういった造形をすることが可能であろうか。
翁の面影はどこにもない。
「構わんか、皆話そう」
ただ声だけが優しく、いつものように響いていた。
サナは返事ができないで突っ立っていた。
「本当は、ばあさんと二人で暮らせるだけで良かった」
天井を見上げるように妖怪が動く。
「あんな屋敷じゃのうて、小さい庵で、二人閻魔様のところに連れて行かれるまでそれでよかった。……わしが悪かったんかのう」
翁の声は自らの行動を悔いているように聞こえた。
雀を助けた翁は富を得た。
一方、自らも富を得たがった媼は殺された。
(……始まりは、雀を助けたこと)
助けなければ富を得ることもなく、媼が死ぬこともなかっただろう。
「サナ、財を目にして人が変わるのはそんなに悪いことかのう。ばあさんは殺められるほどのことをしたのか」
――探し物があってな。
翁の言葉を思い返す。媼の生死は不明であるとサナは聞いていた。
「……」
何かを言おうとして、言葉にならないままサナは口を閉じる。
財を目にして自らも利を得ようとするのは、人の心の自然であるように思えた。
(でも、おばあさんは)
雀の舌を切って放すような人だから、そう思いかけてサナは首を振る。
好きで好きで結婚した翁には、それさえ関係ないのだろう。
ただ翁の中には、媼が殺された事実があるだけだ。
「わしだってこんなに変わってしまった。悪いことをせずに生きていられるのは坊主くらいのもんじゃないのか」
叫び声のように聞こえた。
サナには何が正しいのかわからなかった。
ただ一つだけ、気づいたことがあった。
「翁は……おばあさんは悪くないって、ずっと、そう言いたかったのか」
夢で見た翁の表情は、本物だったのだろう。
好きで好きでたまらなくて結婚した相手が死んだというのに、周囲はその事実を持て囃し、翁をひたすら称賛する。
得た富と妻の死はやがて美談化され、複雑に絡んだ感情はほどけないまま硬直していく。
笑顔を貼りつけ「雀の翁」として生活することは、人を狂わせ秩序から縁遠いものにする充分な材料だ。
「物語扱いされて、おばあさんは悪者みたいに言われるのが我慢ならなかったのか」
「そうさ。……語った者を食うてしまうくらいには」
少なくともこの村に、物語の中に翁の感情を知る者はいなかった。
だからこそ外側へ助けを求めて、何も知らないサナを引き込んだのかもしれない。
「サナ、すまんが食われてくれんか」
ぞろりと地面を這うのは、蛸の足にも似た得体のしれないものだった。
答えられず、サナはただ硬直する。
「人に知られたら、しまいじゃ。お前が少しでも、話を聞いてくれてよかったよ」
翁は笑い泣きのような表情でぽっかりと口を開けた。
向かってくる牙に悲鳴も上げられず、サナは身をすくませて目を閉じる。
吐き気のするような恐ろしさだけがこみ上げ、意識を手放しそうになった。
「……!」
何も起きないことに気づいてサナがゆっくりと目を開けたのはそれから何十秒も経ってからだった。
どくどくと音を立てる心臓をなだめながらそっと顔を上げると、翁は口を開けた状態で静止していた。
サナと目が合い、気づいたかのように牙を剥いた口を閉じる。
「ばあさんのものを身に着けておるからか……」
昼に借りた数珠をまだ持っていることをサナは思い出した。
数珠を懐から取り出だし、ぎゅっと握る。命はつながったらしい。
どうにか退路を確保しようと振り向いたとき、サナの手の上に一羽の雀が停まった。
(また、雀……)
サナが何度も見かけた雀のようだった。どうして何度も出会うのだろうか。
憎々しげに睨んだ翁の表情が、すぐに驚愕へと変わった。
何事かと視線を戻したサナの目に、一人の美しい女性が映った。
「え」
女性はぎっと翁を睨みつけていた。
翁は懐かしむような、悲しむような表情で女性を見つめる。
絞り出すような声でつぶやいた。
「ばあさん」
その言葉で、サナは女性が誰であるかを察する。
美しい容姿と気丈な表情。言葉は発しないが、恐らく翁の待ち望んでいた人だろう。
(そういえば)
サナが見かけた雀は、一度も鳴いたことがなかった。
鳴けないのかもしれない。
(『舌切り雀』)
絵本のタイトルが浮かぶ。
翁は女性に伸ばそうとした手を見て、気づいたようにくずおれる。
「何と醜い、醜いの……」
がっくりと力をなくし項垂れる翁。
女性はただただ翁を見つめ、やがて元の雀の姿へと変じると、ころりとサナの手から転げ落ちた。
淀んだ空気の中でサナは息をついた。
翁の装束を纏った白骨の隣に、サナはそっと一羽の雀を横たえる。
冷え冷えとした石室があまりにも素っ気ないので、野の花を供えた。
媼の数珠を手に両の手を合わせ、サナは泣き出しそうな気持を持て余す。
外は明るい。
(終わったのかな)
そう思うと、急に疲労感と睡魔に襲われてしまう。
考えることがたくさんありすぎて、まとまらない。
(こんなところで寝ちゃだめだ……)
まどろみの中、サナは翁が泣いていないことを祈るしかできなかった。
絵本をカウンターに返し、サナは図書館を後にする。
現代文の発表が滞りなく終了してから二日が経っていた。
それでもまだ、胸の中にわだかまるやるせなさは消えそうにもない。
(幸せではないよな)
媼が雀にしたことは、許せることでない。
だが、媼は翁が選んだ人であり、伴侶である。その伴侶を殺されてなお、笑って過ごせる人がどれほどいるのか。
ましてや、その殺された事実は美談化され、後世では教訓としてまで使用されている。
人ならざるものになり、絵本の外に助けを求めた翁をサナは責められない。
(どうか泣かないでほしい)
そう思いながら、自転車を漕ぎ出した。