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冬の町と氷の王

 

 北へ、北へ。二匹の蝶たちが街道を行きます。
 氷の蝶は時々止まって、ガラスの蝶を眺めては嬉しそうに笑っていました。
「ああ君はもう、すっかり七色の蝶だな。初めにその翅の透明なのに、秋の色に紛れてしまっているのに気づかなくて、ぶつかってしまったのが嘘のようだ」
 二匹の蝶は花の女王と別れてから少しだけ春の町を楽しんだので、ガラスの蝶の翅は一層美しく染まっているのでした。
 濃紅から薄紅までの山。菜の花畑と紋白蝶の遊ぶ様子。何よりもあの七色の花畑。思い出したガラスの蝶はうっとりしています。
「君と一緒でよかった」
 氷の蝶は言いながら、じっとガラスの蝶を見つめています。
 ガラスの蝶はどうしてか、その声色に寂しさが混じっているような気がしていました。
 不思議に思いながらその薄青の氷の翅を追っていますと、少しずつ、ひんやりした風が吹いてきました。
 氷の蝶は「はあ」と息をつき、意を決したようにガラスの蝶を振り返りました。
「さあ。ここがお待ちかねの冬の町だよ。……色のない、寂しい町さ」
 ガラスの蝶は大変驚きました。
 キンと澄んだ空気。見渡す限りの、白、白、白。人々の住む家も雪や氷でできていて、冬の町にあったのは一面の銀世界です。万年雪なのだと氷の蝶は言いました。
 花弁のように空から降るという雪の姿はなく、空は晴れていましたが、それでも地面を覆いつくさんばかりの白にガラスの蝶は圧倒され、さっそく地面に降りてみてはその冷たさに飛び上がったりするのでした。
 氷の蝶はおかしそうに笑っています。
「君はこんな町でも喜んでくれるのか。嬉しいことだね。……さて、その。君に見てほしいものがあるんだ。ついてきてくれるかい?」
 ガラスの蝶は嬉しくてたまりませんでした。果たして物知りな氷の蝶は冬の町で何を教えてくれるのでしょう。今まで夏の町、春の町と氷の蝶が案内してくれたものはどれも楽しく、美しいものばかりでした。
 期待に胸を躍らせながらガラスの蝶は冬の町の空を滑り出しました。

「お母さん、七色の蝶だよ」
「何と、まあ。きれいなこと。こんな町に珍しいわね」
 冬の町の人々は皆毛皮のコートを着込み、厚手の手袋をしています。
 大人たちはどこか疲れた表情の人が多いようですが、子供たちは元気で、七色のガラスの蝶が珍しいのか駆け寄ってきました。
 ガラスの蝶はひらひら飛んで挨拶します。氷の蝶は少し遠くから見守っているようで、ただ少しその体が強張っているようなのがガラスの蝶は気になりました。
 小さな女の子は無邪気に問いかけます。
「蝶さん、蝶さん。これからどこへ行くの」
 ガラスの蝶は今までたくさん町を巡ったこと、これからは冬の町を案内してもらうことを告げました。
 女の子は旅の話を珍しそうに聞いてくれました。しかし、大人たちは冬の町の話をした途端みるみる顔色が変わり、険しい、嫌な表情をいたしました。
 そして二匹の蝶たちが向かおうとした先を睨みつけながら「まさか」と怒り出します。
「お前さん達。まさか、氷の王に会うつもりじゃあるまいね」
「ああ、恐ろしい、恐ろしい。やめておくれよ。せっかく吹雪もなく穏やかに晴れているというのに。あんな、我儘で気まぐれな氷の王を起こそうなんて」
 大人たちの口からは次々に氷の王を罵る言葉が吐き出され、ガラスの蝶に迫ってきます。
 先ほどまで旅の話をせがんでいた子供たちは、しゅんとしたような悲しそうな顔で黙ってしまいました。
 大人たちは続けます。
「今の氷の王に変わってからというものの、激しい吹雪や雹ばかりでろくろく外も歩けやしない。わずかばかりの食糧だって根絶やしさ。先祖返りだか何だか知らないが、迷惑しているんだ」
「まったく先代の時は穏やかな雪の降る美しい町だったというのに。最近は眠っているとかで、やっとこうして安息が訪れたんだよ。この子たちだってこうして外で遊ぶのは初めてなんだ」
「大きな声じゃあ言えないけれど、このまま死んでくれたらって――」
 悲痛な声はそのボルテージを増していきます。
「行こう、ガラスの蝶」
 とめどなく激しさを増す大人たちの言葉に、ガラスの蝶が目をぱちくりさせていると氷の蝶が割って入りました。
 いつもの凛とした声でしたが、しかしそれは本当の氷のように、どこか冷たいものでした。
「あっ、こら、どこへ行くんだい」
 氷の蝶の出してくれた助け舟に乗って、ガラスの蝶は人々に別れを告げると、彼の行く先へ着いていきました。
 
 何だか、今まで見てきた町々とここは少し様子が違うようです。ガラスの蝶はしばらく黙りこんで氷の蝶の薄青い翅を追っていました。
 しばらくしてから振り返った氷の蝶は、ガラスの蝶を見て苦笑しました。
「おやおや、ずいぶん驚いたみたいだね。せっかくの美しい翅の色がくすんでしまっているよ」
 いつもの調子のようですが、でもその声音にはどこか、寂しさが含まれているのをガラスの蝶は聞き逃しませんでした。
「でもね。皆の言うのは事実なんだ。氷の王ってのは、自分の力もろくろく扱えず吹雪や雹を起こしてばかり。友達なんて一人もいやしないし、家族も自分で殺してしまったようなやつなんだ」
 ガラスの蝶は、氷の蝶の口からもひどい言葉が出てきたので少し驚きました。
 氷の蝶はどこか自分に言い聞かせるように続けます。
「いない方がましの、嫌われ者の王なんだ。……だからそろそろ僕も夢から覚めようと思ってる。例え忘れたって、こんな美しい思い出をくれたんだから、大丈夫」
 ガラスの蝶は、ぴたと止まります。夢から覚める。忘れる、思い出。一体どういうことでしょう。
 何だか妙に嫌な予感がして、ガラスの蝶は氷の蝶の後ろをついていくのが怖くなってしまいました。
「何でもないさ。ははは、そんなやつに会わせようなんてひどいって思うかもしれないね。でも、僕はきちんと君にお礼を言いたいから」
 きっと、物知りな氷の蝶のことですから、ガラスの蝶の知らないような事情があるのかもしれません。
 ガラスの蝶は勇気を出すと、もう一度氷の蝶の背を追い始めました。

 真っ白の町を奥へ奥へ進みます。辺りには背の高い針葉樹が増えてきて、気づけば目の前には氷でできた美しいお城がありました。
 今までの町で見たどのような建物よりも背が高く、とんがり屋根でどこか鋭利な印象を与える透明の、いいや薄い青の、氷の蝶の翅の色と同じ、氷のお城です。
 だからでしょうか、厳しい雰囲気にも見えるこのお城を見た時、ガラスの蝶はどこかほっといたしました。
「さあ、こっちだよ。いらっしゃい」
 氷の城はこれまた氷の透明な城壁に覆われていましたが、勝手知ったる場所であるのか氷の蝶は軽々城壁を乗り越えると、針葉樹の生える庭を突っ切って城内へと案内します。
 城の中も薄青い氷に覆われておりましたが不思議と外より寒くはありません。ただ、氷の廊下の上には金で刺繍のされた真っ赤な絨毯が敷かれているばかりで、それ以外は外を見渡せる窓の他、ほとんど何もなく殺風景な印象でした。きっと鎧や花を飾っても、氷が張ってしまうのでありましょう。人も誰も居ないようです。
 きょろきょろと当たりを見回すガラスの蝶を優しく見守りながら、氷の蝶はこちらへこちらへと誘導します。
 ああそう言えばとガラスの蝶は思い返します。氷の蝶は王謹製の氷でできていると言っていましたから、氷の王とも親しいのかもしれません。
 果して氷の王とはどんな人だろうか。町の人の言葉はすっかり忘れて、ガラスの蝶は少しわくわくしていました。秋の町でおじさんに作られ、夏の町で青空の女王と出会い、春の町で花の女王と出会いましたが「王」とつくのは皆素敵な人ばかりだったからです。
 「いない方がましの、嫌われ者の王なんだ」。ガラスの蝶は、氷の蝶の言葉はよく覚えていました。しかし、本当かしらとも思いました。春の町ではいなくなったガラスの蝶を探してくれて、夏の町ではたくさんの場所を教え遊んでくれました。
 こんなに優しい物知りの蝶を作ったのだから、氷の王も優しい人ではないのでしょうか。
 ガラスの蝶がそんなことを考えている内、二匹はとうとう大きな広間に出てまいりました。高い高い天井には、溶けぬ氷に金で縁取りをした豪奢な明かりがございます。床は変わらず氷でございましたが大層立派に磨かれて、その上にまたも真っ赤な絨毯を敷いておりました。絨毯の続く先には、真っ赤なビロードに金の縁取りをした、立派な椅子が見えました。そこに氷の王がいるのでしょうか。
「こっちだよ」
 氷の蝶はきらきら飛びながら、椅子まで案内します。やはりここは玉座のようで、目の前の人は氷の王に違いないのでした。
 精巧な雪像のように色の白い、それでいて威厳のある立派な壮年の男性はお腹の上で手を組み、椅子に座って目を閉じています。紺色にも近い真っ青な厚手のマント、薄氷色の立派な衣装。傍らには金とサファイアで装飾された氷の王冠。
 氷の蝶はその大きな手に止まるとガラスの蝶の方を振り仰ぎました。
「これが、会ってほしかった人だよ。……ガラスの蝶、美しい七色の蝶。今までたくさん、たくさん一緒にいてくれてありがとう。友達になってくれて、ありがとう」
 ガラスの蝶が言葉の真意を測りかねている内、氷の蝶はまるで溶けるように、すうっと消えてしまいました。ガラスの蝶は今まで追っていた姿の消えたのに慌てふためきましたが、しかしあっと言う間もなく、玉座で眠っていたらしい薄氷の色をした人の指がぴくりと動きました。ガラスの蝶が凝視している内に、彼はゆっくりその青い瞳を開くとガラスの蝶の七色の翅を認めて、つぶやきました。
「……ああ、やはり……」
 嬉しそうに、それでいて少しばかり寂しそうに青い目の人は笑い、白い手で目を覆うと大きな息をつきました。
 苦笑にも似たため息の後彼は椅子に座り直し、傍らに置かれた王冠を頭に載せ、ガラスの蝶に改めて向き直ります。
「――ガラスの蝶。私の夢路に付き合ってくれたこと、感謝する」
 氷の蝶とは違う、低く重い声でした。
 しかしガラスの蝶はその言葉で、この人こそが氷の王であり、そして今まで共に旅をしてきた氷の蝶であることに気づきました。
 氷の蝶が消えてしまって驚いていたガラスの蝶ですが、形こそ変われどこうして現れたことが嬉しくて、きらきら光りながら近づきます。しかし氷の王はその大きな手で、ガラスの蝶を制しました。
「……私は」
 氷の王はガラスの蝶から視線を外すと、真っ赤な玉座から立ち上がります。
「私は生まれると同時に母を凍傷で殺した。唐突な先祖返りの、まるで氷雪を映したかのような息子の誕生と母の死に、父は瞬く間に狂い死にした。一族は両親を傷つけた私を恐れ近づかぬ。動物も虫も凍傷を恐れて近づかぬ。それでよいのだ。それこそがあるべき姿だ」
 赤い絨毯を歩いて、ガラスの蝶の傍までやってきました。
 孤独に生きるのがあるべき姿だと言わんばかりの友に、ガラスの蝶は狼狽えました。自分は迷惑だったのでしょうか。
 氷の王は首を振ります。
「いいや、迷惑なことがあろうものか。そうとしか生きられないと思っていたのだ。だからひと時の夢路にでも、お前が友として傍にいてくれたこと、受け入れてくれたことを心より感謝する」
 ガラスの蝶はほっとしました。そして氷の蝶が「きちんとお礼を言いたい」と言っていた意味がようやく分かりました。本当の姿で話したいということだったのでしょう。
 なあんだ。ガラスの蝶は、冬の町に入ってから感じていた嫌な予感が少しずつ解けていくのが自分でもわかりました。全て、杞憂だったに違いありません。ただ彼は本当の姿で話すのに緊張していたのでしょう、良い格好をするところがありますから。
 だからこそ、そう思っていたからこそ、急に告げられた言葉を受け入れることができませんでした。
「では、お別れだ。私はこのひと時の夢を忘れ、孤独の現実に戻ろう。……さようなら」
 王が蝶にふうと息を吐きかけますと、その息はたちまち冷たい風となりガラスの蝶の体を優しく押し上げました。
 元より蝶が風に逆らえるはずもありません。秋の町でも、春の町でもそうでした。氷雪交じりの冷たい息は長く長く蝶の体に吹きかかり、やがてガラスの蝶の姿は見えなくなってしまいました。

 風が吹き去った後のこと。
 がらんとした氷の広間で、氷の王は大きな息をつきました。先ほどまであんなにも晴れていたのに窓の外は暮れかかり、今や大吹雪となっています。
 遠くから風雪の音に交じって、人々の怒号や悲鳴が聞こえてきました。氷の王にとっては慣れた光景です。
 現実に戻ってきたのだと氷の王は実感しました。思えば長い夢を見ていたものです。
「忘れねば」
 夢で見た七色の翅のことは忘れなければならない。いやそう努力せずともきっとこの白と青ばかりの世界に紛れていれば、いずれ薄れてゆくだろう。思えば長い、不思議な夢を見ていたものです。
 氷の王は、忘れるための暗示を自分に掛けながら、一歩ずつ玉座へ足を進めます。そして、最後の一歩という時に足が止まりました。
「……何故」
 目の前には、きらりと輝く透明の翅。まさに玉座にたどり着かんとするその時に現れたのは、紛れもなくあのガラスの蝶でありました。
 氷の王は呆然としながらただもう一度「何故」とだけ呟き、そしてガラスの蝶に問いかけました。
「何故、ここにいるのだ。私の正体を知っただろう。一人で生きるべき、厳しく寒い冬の王と知っただろう。何故秋の町に帰らぬ、何故ここにいる」
 あの優しく冷たい息の吹きかかった時、ガラスの蝶の体は浮き上がり、いつもの通り流されてしまうと思いました。蝶は風には逆らえません。逆らおうともいたしません。しかしガラスの蝶はどうしたって、これでお別れにはしたくありませんでした。
 そんなことを思ううちに風はびゅうびゅう吹き付けてきて、ガラスの蝶が花の女王に教わったことを思い出した時にはもう城の外でした。「寄り添うようにして、風のやむのを待つの。正面から逆らっては、あなたがケガをするわ」。だから、どうにか庭に生える針葉樹に絡みついて風雪からじっと身を守り、風が止んだらすぐに氷の王の姿を探して、ようやくここにたどり着いたのです。
 ガラスの蝶はもう二度と風雪に流されないよう、氷の王の服を足でつかんで寄り添うようにしています。
 彼女の体は、氷の蝶と同じ薄青に染まっていました。
 物知りで頭の良い氷の王は、すぐに全てを察し、叫ぶように問いかけました。 
「私は父母を殺した。誰も近づかぬ。誰にも疎まれる。そんな男の友であると言うか。何故だ、何故……」
 ガラスの蝶も考えました。果たして自分は、何故こうも必死にしがみついたのでしょう。
 しかし理由はいくら考えても思いつきませんでした。それでいて、その反対に、いくらでも挙げられるような気がしました。
 ただ、夢にしてしまってほしくなかったのは事実でした。ガラスの蝶には難しいことは分かりません。氷の王の苦しみも分りません。でも、ここを離れてしまったらもう友達でなくなるような、何もかもがなくなるような気がしたのは確かだったのです。
 この旅の全てを、なかったことにはしたくありませんでした。
 秋の町で透明な翅同士ぶつかって出会ったこと、夏の町でたくさん一緒に遊んだこと、小川で花火の音を聞いたこと。春の町で大風にさらわれて七色の花畑を見たこと、氷の蝶が迎えに来てくれたこと。冬の町の銀世界と、氷の蝶の険しく厳しい顔。
 ガラスの蝶にとって、氷の蝶との思い出はこの旅の全てでありました。
 それを、自分一匹だけが覚えていて、氷の蝶はすべて忘れてしまうだなんてそんな悲しいことがありましょうか。
 だからガラスの蝶は、今度は吹き飛ばされまいと、氷の王の青い衣装に必死にくっつくのでありました。
「……一人でよかったのだ」
 氷の王は小さくつぶやきました。
「一人でよかった。助かりたいなんて思っていなかった。この現実が変わることなどあり得ないのだから。だから、ただ、いつものように眠っただけであったのに」
 離すまいと必死にしがみつくガラスの蝶に、氷の王は白い手を伸ばします。
 氷雪の色に染まった彼女を包む手は大きく温かで、優しいものでした。
「私は、僕は、一人でもよかったのに……」
 氷の王の口調は、いつの間にかガラスの蝶がよく知るものに変わっていました。
 その時、ガラスの蝶は何か真っ白な、花弁のようなものが窓の外に舞うのを認めました。
 大層美しい白の花弁。それが穏やかに降る「雪」であるとガラスの蝶が知るのはもう少し先のことでした。
 
 芸術を愛する秋の町の外れ。不思議のガラス工房に住まう職人のおじさんは、いつも気まぐれにガラスを吹いております。
 その開けっ放しの窓から、七色のガラスの蝶が滑り込んできました。
「おう。お帰り。……お友達はできたか? ん? 連れてきたのか、それはいい」
 銀杏と楓舞う秋の町。
 この不思議の工房には時々、冬の町から二匹の透明な蝶たちが遊びにやってくるのでした。

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