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蛇の足

 河野(こうの)香(かおり)は両の手に余るほどの手紙を持てるだけ持って、書斎へと入っていった。
「冨澤(とみさわ)先生、お手紙がたくさんきていますよ」
 書斎の中央にある来賓用の机の上にどさりと束を置き、書き物をしている男性へと声をかける。
 冨澤は振り返るとめがねを外し、香に笑いかけた。
「そうかい、ありがとう。その椿の封筒は鮮やかだな。どれ、少し読んでくれるか」
 椅子から立ち上がり、冨澤は袴を直しながら香の方に寄ってくる。
 読み上げられる内容はたわいもない感想。先日発表された作品集に書き下ろしで加えた、『恋小噺』のことだった。
 香は最後の文を読む前に少しだけ間をおいた。
「……『薫は実在する人物をモデルに書いておられるように思われますが、いかがですか』ですって」
「ははあ」
 困ったように冨澤は天井を見上げる。
 その様子を見つめる香に気づき、そのまま視線を合わせて問いかけた。
「君はどう思う」
「以前も申し上げましたが……同じ名前ではありますから、気になります」
「僕と『男』が似ているとも書いてあったねえ」
 冨澤は香の持っている手紙をかすめ取ると、再び文面に目を通す。
 編集の河野香と小説家の冨澤の双方を知る間柄の者からは、二人をモデルにした小説ではないかとまことしやかにささやかれていた。
「ううん、読んでいる人にもそう思われてしまうのはねえ。君をモデルにしたわけじゃなし」
「さようですか」
 あくまで冷静に答える香。その瞳に少し残念そうな色が映ったのを冨澤は見逃さなかった。
 冨澤は自分のあごに手をやりながら、挑むような表情で香に問いかける。
「残念だったかい?」
「いいえ、ちっとも」
 香はにこりともせず答えた。意地の悪い質問に少し怒っているのか、むくれた表情になっている。 
「そいつはよかった」
 そう言って大仰にうなずき、冨澤は自分の机の方へと戻っていく。
 ぽつりと、冬の空を見ながらつぶやいた。
「私だって、君に先に死なれちゃあ困るからねえ」
「え? 何ですって?」
 手紙の置き場に困っている河野女史の耳に、小さすぎる冨澤の声は届かなかったらしい。
 苦笑しそうになるのを何とかこらえ、平然とした顔で言ってのける。
「何にも言ってやしないよ。さあさ、その手紙はそっちの箱の中にでも置いておいてくれないか。……ああそうだ」
「珈琲なら今、湯を沸かしております」
 続きの言葉を待たず返答する香ににっこりと笑い、冨澤は開きかけた引き出しをそっと閉じる。
「そうかい、ありがとう」
 渡す機を逸した櫛が、引き出しの中で鮮やかに輝いていた。

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