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「……」
 春花があたりを見渡すと、そこは自分の部屋だった。時間は、深夜。
 果たして今居るここはいったい何なのだろう。また、目が覚めるのならば夢なのか。それとも現実か。
(頭壊れそう)
 いつからが現実でいつからが夢だったのか春花にはわからなかった。
 だが、さっきの言葉で一つわかったことがある。自分はずっとこうして、夢を見続けるのだろう。
(あと)
 自分が春晃の夢にレギュラー出演である理由と、あの日から今本が自分の夢に出る理由はきっと、同じだ。
 貘として、夢の世界を歩かされている。だから夢に出てくるのだ。
(そして)
 自分が悪夢を食べることが、悩みを、苦しみを食べることができるのであれば、春晃はうなされなくて済むのだろう。
(役に立てるのかな)
 九つも離れているけれど、もし自分に悪夢を食べる能力があるのなら。
 もしかしたら、救われたいと願っていないかもしれない。それでも、このまま悪夢を見続けて、眠れないまま、寂しそうに悲しそうに生きていくことになるのなら、手伝いたいと春花は思った。
「……でも」
 兄にゆっくり眠ってほしいとは思う。けれど、ずっとずっと夢を見続けなければいけないのか。
 今本の顔は、形容しがたいものだった。空虚で、すべてをあきらめたようなもの。あまり、見たくなかった。知っている顧問の表情ではなかったからだ。
「あれ?」
 うなされている声が、隣の部屋から聞こえてきた。疑問に思った途端に声が止む。
 ごそごそと音がして、扉が開く音。何となく、春花もベッドから降りてみる。春晃は階下へ向かったようだった。
「兄ちゃん」
「春花? ってお前そろそろ寝ろ。三時だぞ」
「人のこと言えないじゃん」
「まあな」
 冷蔵庫の扉を閉めながら、春晃はいつものように笑う。相変わらず疲れた顔だが、寝起きならば仕方がない。
(食べてもらえたのかな)
 春晃の現実と、悪夢を。確かめる術もないけど気にかかる。
「……ああ、またか……」
「何?」
 呻くような声に、春花は眉根を寄せる。
「何でいつもお前が出てくるの? 俺はお前には甘えたくないんだ」
 吐き出された言葉は、ここが春晃の夢の中であるということを示すもの。
 食べてくれたはずではなかったのか。
(あ)
 勘違いに気づいた。「君の見ているお兄さんの悪夢」、食べたのは春花の悪夢だ。
「俺、お前に頼る部分があるのかな。駄目だな、いくつも違うのに、お前に頼るほど俺は……」
 春晃の姿が少しずつ、大学時代のものに戻っていく。
(バカ)
 心配がだんだん、怒りに変わってきた。
「……兄ちゃんは私を子供に見すぎだよ」
「だって俺よりこんなに幼い、俺だってまだ幼いのに」
 呆れを通り越した苛立ち。
「兄ちゃんはどうなれば満足なの?」
「父さんの代わりにならなきゃ……」
「寂しいのをごまかしてるの?」
 意外な質問だったのか、春晃は言葉を探すようにして目を泳がせる。
「お父さんの分を埋めなきゃ埋めなきゃって思うのは、寂しいからじゃないの」
「……違う、お前を守らなきゃ……」
「兄ちゃんがお父さんの代わりになれないことを一番わかっているはずだよ」
「それでも俺は」
「お父さんがいないって現実を、認められる時間がほしいくせに考えたくないから忙しくしてるんでしょ」
「春花」
「妹に言われたくないのは知ってるけど、これ以上そんな兄ちゃんを見たくない」
 現実味のない出来事の中で、やけに春晃の感情だけがリアルだった。その言葉を止められるのであれば何でもしたいと、春花は思った。
 自分に見えているその苦悩をしっかり認めて、元の春晃に戻ってほしかった。
「……」
「ちゃんと、兄ちゃんでいてよ」
 これ以上、悪夢にうなされてほしくない。その思いで言葉を告げた。
 しばらくの間があく。言葉を発さなくなった兄の顔を、春花は恐る恐るのぞき込んだ。
「上手に芽が切り取れたね」
 後ろから聞こえた今本の声。今更驚かなかった。そのまま振り返る。
「次は夢の種を食べるだけ。信田先生に近づいて」
 心の中には、まだ葛藤がある。春晃には楽になってほしいし、ちゃんと眠ってほしい。
 けれど、貘となればこれがずっと続くのだろう。どうにかして断れないのか。夢を食べてしまえば、もう戻れないような気がした。硬直している春花に、苦笑したような声が降る。
「気負わないでいい。落ち着いて、深呼吸」
 春花は大きく息を吸った。空気と一緒に何か、ざらざらとしたものが口に入ってきたように感じた。
 それが喉に引っかかることもなく、そのまま肺に収まる。違和感を覚えている間に景色が変わった。見慣れた、兄の部屋。
「これで、お兄さんは悪夢から解放された」
 騙された。
「食べたんですか、私」
 呼吸が食べることだったらしい。生物にとって最も基本的で、そして生きるために一番必要な動作。
 こうして、貘として生きていくことになるのだろう。
「そう。これから君は、いろんな人の夢へ連れて行かれる。黒い黒い靄がかかっている人の周りで、さっきみたいに深く呼吸するだけでいい」
「黒い靄って……」
 確かに、先ほどと違って、黒い靄がはっきりと見えるようになっていた。
「先生にかかっているような靄ですか?」
「そうだろうね。もう僕には見えない。僕は呪縛から解放された。起きたらきっとこれを、長い夢だったと思うだろう」
「……」
「君はずっとずっと、目が覚め続ける。夢を見続ける。でも大丈夫、夢はいつか覚める。ちょっと夢見が悪いだけ、怖いことでも何でもない」
 言い訳のように聞こえる言葉が繰り返される。今本の見せている笑顔があまりにも眩しくて、空恐ろしくなった。
 だがこれで、春晃はゆっくり眠れる。そして春花は貘として目覚め、今本は「貘だった」という悪夢から目覚めることが出来るのだろう。
「でも、しかし、つまらないね」
 今本は眠っている春晃を見ながらつぶやいた。
「苦しみも喜びもすべては夢の中のことだ。目が覚めたらいつかすべて、忘れてしまう」
「先生?」
「君もだよ。『貘だった』という夢から覚めればまた、ただの日常が続く。空虚だね、もったいないね、すべて空っぽなんだ、何もない」
 今本の言葉は止まらない。夢の中の感情が本当の思いなのだとすれば、今までずっと考えてきたことなのだろう。
「……まるで人生だ」
「先生」
 言葉を止めるすべが見つからない。今本の目はどこか虚ろだった。
 この人のこんな表情を見ていたくないと春花は強く思った。
「だから僕たちは物を作るのかな。絵を描くのかな。空虚に思えるから、形あるものを作り上げて夢と現実をつなごうとするのかな。でもそれさえ永遠でない」
 饒舌だと感じた。悲観的な言葉と裏腹に、表情は朗らかである。それほどに、夢から覚めるのが嬉しいのだろう。
 見たことのないような、心からの笑顔。それが、今から春花が見続ける夢がどんなものかを教えてくれる。
「怖い顔しないで。一時の夢だよ。見ている間は辛いけど終わりには『ああ、よかった』と思える」
 無責任な言葉だという感慨を春花は抱いていた。
 でもきっと、自分が目を覚ますときにはそう思えるものなのだろう。この現実も、いずれ夢と変わる。
(ああ……)
 今本の空虚な表情の理由がわかったような気がした。
「でも私は、兄を救えたことを空虚だとは思いません」
「初めはみんなそうだ」
 今本の表情が怖かった。
 ただ、問いただすのはどこか恐ろしいような気がしたので春花は一度窓の外を見る。月が出ていた。大きく息を吸い、春花は今本に告げる。
「お休みなさい」
 そうして春花も夢の世界へと誘われていった。

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