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蟹鍋の話

 正月の夜は蟹鍋にするのがA博士とB君との習慣であった。
「鍋奉行というのがいるだろう」
 A博士は年始も変わらぬ蛇のような顔で何やら考え込んでいた。
 二人のいる炬燵の上にはくつくつと音を立て、良い香りを漂わせる鍋が乗っており、今まさにその中では蟹が食べ頃を知らせるがごとく身を真っ赤にしている。
 B君はA博士に具をよそいながら黙って頷いていた。それを無視と取ったのか、A博士は再度食い下がる。
「なあB君。鍋奉行というのがいるだろう」
「はあ、そうですね」
「あれの組織体系はどうなっているのだ」
「組織体系ですか」
 剥いた蟹の身をA博士の椀に放り込みながら、B君は首を傾げる。
 屁理屈学権威、A博士。悪癖がまた始まった――、とはB君も口に出さなかった。
「そうだ。鍋奉行というには奉行所だろう。奉行所であれば江戸幕府の機関だね。私は江戸時代の専門家ではないが、奉行所なのであれば当然鍋将軍や鍋老中もいなければ道理が合わないことは分かる」
「はあ」
 B君は良く煮えた白菜を噛みしめながら、話を邪魔しない程度に相槌を打つ。
 自分が話題に巻き込まれないよう、A博士に話を展開させておこうという心づもりであったが、残念ながらあっさりとその蛇のごとき目に見据えられてしまった。
「ところで今君は鍋奉行だろう」
「は」
「君は今、この鍋をだし汁で満たし、数多の具を与え、煮えた煮えていないを審判しているでないか」
「はあ」
「もし君が遠慮しようとも私が君を鍋奉行に任命して進ぜよう。君は立派な鍋奉行である」
「あ、ええ、ありがとうございます」
 B君は鍋に具を継ぎ足して蓋をする。
「そして鍋奉行を任命した私は当然ながら君の上司であるな」
「そうですね」
 A博士の話の終着点が見えないので少し演説に飽きながらも、B君は鍋から湯気が出ているのに気づき蓋を開ける。
 再びA博士と自分の椀に具をよそおうとすると、手で制された。
「私のことは鍋つ守とでも呼んでもらおうか」
「ええ、ミトン博士」
「鍋掴みではない」
 お玉がとB君の椀がA博士に奪われた。
「断じて鍋掴みではない。鍋掴みではないが、君の上司であり、なおかつ鍋においては君よりも権限があるのだ」
 A博士はそう言うと、覚束ない手つきで椀に目いっぱいの具をよそう。
 ――椀を受け取って、B君はようやくA博士の意図に気づいた。
 B君が蟹に手をつけないのを気にしたのだろう。
「ありがとうございます、博士」
「鍋つ守と呼びたまえ。鍋掴みではないぞ」
 蟹の身を剥きながらB君はこっそりとミトン博士に感謝したのであった。

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