金のない二人のこと、祝言はいづれということになり事実婚のやうな状態であつたが、栄助も亀も幸せであつた。
「あれ、桃の花に代はつて、もう桜が咲いてゐるのだな」
「さうでございますね」
二人の狭居の縁側に腰掛けて遠くの景色を見つめると、緑の中にちらちらと、薄く咲いた桜が見える。栄助がその色に見惚れているのを今度は亀が凝つと見て、やがて問うた。
「栄助さんは、桃と桜ではどちらがお好きでございますか」
「どうした、急に。何とも難しい質問だ」
「良いではございませんか」
「さうだなあ。優劣はつけられまいが、――」
栄助の脳裏にはさる冬に見た桃の鹿の立ち姿が浮かんでゐた。
あの若鹿は、逃げられたのだらうか。捕はれたと云ふ話も聞かないが、現実的な金子などに代へられてその美しさを失つてはゐないだらうか。
鹿は俺と同じく、幸せでゐてくれてゐるだらうか。さう考へながら、栄助はそはそはと答へを待つ妻に笑ひかける。
「桃の花だなあ。俺は色あざやかで、はつきりしたのが好きなのだ」
「さうでございますか。ふふふ、さうでございますか」
心より嬉しさうに亀は笑ふ。何をそんなに笑ふのだと問ふても、亀からはつきりした返事はなかつたが、それでも栄助は満足であつた。
今、知らぬことがあるとしてもいづれ知れれば良い。亀とは夫婦になるのだ、若い二人が死を分かつまで今からどれほどの時間があらう。たくさん話をしてもきつと足りないくらゐだ。
きつといつか足の不思議も、冬の山で迷ふた不思議も、話してくれるだらう。
栄助はそんな心持ちであつた。
「さう云へば亀。お前はここに来た頃見事な桃の簪をしてゐたがどうしたのだ。とんと見かけてゐないのだが」
「あれは、どこかへやつて終ひました」
「ははは。お前はそそつかしいな」
「もう。酷うございます」
栄助さん、亀、と呼び合ふままごとのやうな、のんびりとした幸せは桜の花の咲くしばしの間、続いてゐた。
栄助は、隣に人のゐる幸せを味わつてゐた。
ある日、栄助の家に来客があつた。
「まあま、いらつしやいまし。生憎主人は留守でございますが――」
「さうだつたか。これは悪かつたな」
「いえいえ。暫く前に出ましたので、もう直ぐ帰るでせう。お待ちになりますか」
「さうさせて貰はう」
男は栄助の家に上がり込み、土間から上がる框に腰を掛ける。亀もよく見知つた男であつたので、警戒もなかつた。
何とか仕立てたらしい桃色の着物を纏つた亀は、漸く慣れた竈に向ひ湯を沸かす。男はその背をじろじろと、いつかのやうな、品定めをするやうな厭らしい視線で見つめていた。
やがて入つた白湯を勧められながらも、男は口にしやうとせずにやにや笑つてゐるので、亀も気になつた。
「どうか致しましたか」
「いや――、団栗や木の皮でも入つてやしないかと思つてね」
「嫌ですね。入つてゐませんよ」
笑ひながら、亀は冷や汗を掻いている自分に気づいていた。先から、男の目は何かを見通すやうな、「俺は知つているぞ」と訴えかけるやうな、そんな色を映してゐる。
拙いことになつたのではないかと思いながら、亀は気丈にもにこにこと笑つて見せた。
「ああ、やはりあんたは美人だね。栄助には勿体ない」
「いえ。お恥ずかしうございます」
「うまくやっているのは良く分るさ。最近のあいつはずつと鼻の下が伸びつぱなしだ」
「まあ」
男は白湯を啜る。何とか窮を凌いだと安堵してゐる亀に、ニヤニヤと笑いかけた。
「ははは本当さ。しかし火を扱ふ桃の鹿か。これは金子百両で収まるかな――」
「――」
「逃ぐるなよ、おかめさん。第一鹿の足には適わねえ。そして第二に、もしお前が逃ぐれば、俺は栄助を『桃の鹿を捕へながらも役人への報告を怠つた不届き者』として知らせる積りだ」
「栄助さんは私の正体は知りませぬ。そんな道理が通る筈」
「ああ、やはりお前さんが桃の鹿か」
男は笑った。亀――、鹿女かめは自分の失態に気づいて歯噛みすると、気丈な凄絶な眼差しで、男を睨みつけた。男は意にも介さないようにべらべらと話し続ける。
「矢張りそうだ、睨んだ通り。お前さん、里で桃の簪を売り払つただらう。大層たくさんの金子や食糧と変えて貰へたんぢやないか。さうしてあれは、お前さんの角でもあつたんだらう。ああ残念だ、桃の角はもう手に入らないか。しかしお前さんが鹿の姿に戻つてさへくれれば、俺にも金子は手に入る」
「戻るものですか。誰がそのやうな与太話を間に受くるものですか。せいぜい気狂ひとして捕はれてお終ひなさい」
「はははは。気丈だ、気丈。どうも領主様はそのやうな女がお好きらしいからな。譬ひ鹿の角がなくともその美貌と負けん気があれば気にいられるだらう――」
「口が過ぎるぞ」
役人らしい男の冷たい声が戸口の方から聞こえた。
その役人の後ろには、四五名の屈強さうな男の立つてゐるのが、鹿女にも分つた。
半時も経たぬ内に、栄助は家に戻つてきた。手には深緑色の美しい反物を携へ、どことなくそはそはしながら戸口の前に立ち、一つ咳払ひをする。少し緊張した面持ちで戸を開け、目を泳がせながら捲し立てた。
「亀、戻つたぞ。俺も里で、新婚の祝ひだと云つて良い反物を貰つたのだ。針は怖からうが、俺にも仕立ててくれないか――」
随分な早口で捲し立てたのは、まだ新郎の気恥づかしさがあるからだつた。しかしどこからも返事はなく、誰も居ないのに話しかけてゐたのかと、栄助は一層恥づかしくなる。
「……亀?」
それにしてもどこへ出掛けたのだらうか。留守番を頼んでゐたと云うのに。
落とされて欠けたらしい湯呑茶碗が転がつてゐることに気づき、栄助は胸騒ぎを抑へられなかった。
――この山の神様は女性でございます。我々神使の一族はご不興を買はぬやう、雌に生れても雄に生れても角を生やし、雄の形をするがならはしでございます。ただ、今の神様は少し風変りなお方でございまして。私が人の形に下り度いと申し上げた時も、快く、望む姿に変へていただけました。
とは言え、今の私には、神使としての力は最早ございませぬ。
私はもう栄助と夫婦の契りを交はして終ひました。ただの人間の女でございます。ただの栄助の妻でございます。どうかお捨て置きくださいませぬか。
「ふむ――」
山を下り里に向う道すがらで鹿女の奏上を聞き、役人は一応納得したやうな素振を見せる。お上に献上する供物に縄は掛けられないと云ふことで縛られはしなかつたが、屈強な男数人に挟まれての護送であつた。
「栄助はそなたが桃の鹿とは知らぬか」
「一切知りませぬ。私が隠し通して居りました。捕はれたこの上は、私はどうなつても構ひませぬ。主人には何の災ひも掛からぬやう、くれぐれも、くれぐれもそれだけはお願ひ申し上げます」
「殊勝なことよ。金子に目が眩み友の妻を売る男の居る一方で」
役人は怜悧に笑ふ。そのままの顔で、じろりと鹿女の足を見た。
「怪我をしてゐるのか」
「え、ええ――。先の冬、罠に捕はれて」
鹿女は初め、厚意で聞いてくれているのだと思つたが、すぐにさうでないことを思ひ知つた。
「どのやうにして罠を抜けた」
「忘れて終ひました」
しらばつくれる鹿女の声に、役人は足を止めた。
有無を云はせぬ、静かな、それでゐて凄みのある声で問い詰める。
「答へよ。どのやうにして抜けた。動物には抜けられぬ罠と聞いてゐる。抜けさした者が居たのであれば上の意向を無碍にしたとして捕へねばならぬ。――隠せば、そなたの夫のためにならぬ」
「……」
「そなたは献上せねばならぬから傷をつけられぬ。しかしそなたの夫は献上物ではない。俺たちはどのやうに栄助を扱つても構はないのだ」
正直に答へても答へを偽つても、栄助に危険の及ぶのは変らないのだと鹿女は気づいた。
――これはお前さんに似合はない景色だ。
――ゐたい丈ゐるといい。
――夫婦になつてくれないか。
なあ、おかめさん。
「答へよ」
鹿女は駆け出した。
「おい栄助、おとぎ話を聞く気はないか」
「悪いな。今はそれどころじゃねえんだ。今度にしてくんな」
「昔々――」
「おい」
栄助は猟銃を肩に担ぎ上げ、消え去つた亀を今まさに探しに出るところであつたから、馴染みの男に戸口を塞がれて不愉快であつた。
昼間とは云へ山は深く、慣れた人間すら崖から落つることもある。苛立つ栄助に、男はにやにや笑ひかける。
「お鹿女さんを探しに出るのだらう」
「えつ」
「関り合ひのある話だ。まあ聞きねえ。そもそもはお前が俺の手柄を台無しにしたのが悪いんだぜ」
「……」
男の執着する、桃の鹿のことだと分つた。栄助は苛立ちながらも立ち止まり、続きを促す。
「昔々、ある所にゐた桃の鹿は、不埒な猟師の仕掛けた罠に掛かつて仕舞ひました。しかし、通りがかつた心優しい猟師に罠を解かれ、命からがら逃げだすこと相成りました」
知つてゐたのかとは敢て問はなかつた。目の前の男の憎々し気な表情を見れば十二分に分つたのである。
「逃げ出した桃の鹿は、恩返しのため猟師の元を訪れました。しかし初めは恩返しの積りであつたのに、そこは若い男女のこと、あれよあれよと云ふ間に夫婦となつて仕舞ひました」
「え――」
「何でえ、本当に気づいてゐやがらなかつたのか。はは、お笑ひ草だな。鹿と夫婦になつて喜んでゐたんだぜ」
手を叩きながら、心底おかしそうに笑ふ男を睨み据ゑ、栄助は家から出て行かうとする。
――亀が鹿の女だらうが何だらうが、どうでも良い。ただ、彼女が今、ここに、この狭居に居ないことの方がもつと大きな問題なのである。
あの美しい妻を失つて、再びここに一人暮らさねばならなくなることの方が問題なのである。
家を出やうとする栄助の肩を掴むと、男は続ける。
「まあ待てよ、これからがもつと面白いのさ」
にやにやと、さぞ愉快さうに笑つてゐた。