風邪は案外にも直ぐ治つたが、栄助は亀を追ひ出す積りはなかつた。身の上に同情したのもあつたが、何より亀はよく働いた。世間知らずのお嬢様らしく、洗濯の仕方や里での買物の仕方など、教へないといけないことはあつたが、それでも要領よく呑み込んで栄助を助けた。何より食材をたくさん採つて来てくれた。
ただ炊事だけは苦手なやうで、今も山で採つてきたらしい収穫を土間に下ろした後、困りきつた顔で栄助の方を見てゐる。その少し困つた顔も愛嬌があつて、栄助は嫌ひでなかつた。
「あのう――」
「良いよ、良いよ。無理しなくたつていい。あんたの看病でもうすつかり治つてゐるのだから、後は俺がやらう」
「済みません。どうしても、刃物と火が怖くて」
恐縮する亀がどうしてさうも刃物と火を怖がるのか、栄助は問ひ質す積りはなかつた。何やら事情があるのだらう。例へば彼女がずつと片足を引きずつてゐることにもずけずけ問ひ詰めるやうな無神経さは持ち合はせてゐなかつたし、彼女がここに落着ひて、今少し生活に慣れてきたら自ずと話すやうな機会もあるだらうとしか思つてゐなかつた。
付き合ひこそはあるものの、殆どを一人で過ごしてゐた生活が少しでも華やいで、そして身の回りのことが多少でもらくになり、また彼女に居場所を提供できるのであればそれで良いとだけ栄助は思つてゐたのだ。鷹揚な彼は、そもそも細かいことに執着する性質ではなかつたのである。
「有難うございます、栄助様」
「あんたのその『様』はなかなか取れねえなあ」
「命の恩人でございますもの」
「ぢやあ俺に取つては風邪の恩人か」
さう云つて二人は笑ふ。一人で暮らしてゐた住ひの中に明るい声が一つ増えただけで、それだけで充分で、それ以上のことは何も望んでゐなかつたから、事情などどちらでも良かつたこともある。
栄助は十五の頃に親父の死んでから、山の狭居でただ一人でずつと住んでゐた。
付き合ひこそあれど人に飢ゑ、会話に飢ゑてゐた。現実主義者でありながら、どこか夢想的であつたのはその境遇もあつてのことだつた。
(ああ、人の居るのはいいなあ――)
季節はとうに、春に変はつてゐた。
「おう」
「ああ」
短い挨拶を交はして栄助の住ふ狭居に押し入つたのは、いつか桃の鹿のことを教へた男であつた。偶に斯うして行き交ふのは、主に情報の交換が目的である。春になつたので、様子伺ひも兼ねてゐるのであらう。
「あれからどうだ、桃の鹿は」
男が問ふので栄助は少し驚いて、やがてとぼけることに決めた。
鈴が鳴り、桃の花が舞つた春の前の光景を忘れることはなかつたが、男に言へばきつと金子を目当てに様々問はれるに違ひない。あの鹿は、さうした人の欲などからは離れた所で生きて欲しいと、栄助の持ち合はせた優しさが首をもたげた。
何より、山に起きた不思議の正体を掴まへて仕舞はうと云ふ心持が嫌だつた。
栄助は曖昧さうに返事をする。
「何の話だつたか。あのおとぎ話のことか」
「おとぎ話でないつて、前も云つたらう」
「しかしこの冬に一切見てゐない。ゐないなら、おとぎ話も同じであらう」
「さうか。栄助は見てゐないか。見たと云ふ場所に虎挟みも仕掛けて置ひたがどうにかして抜けられて終つたやうでな――、花弁だけが残つてゐた。きつと捕まへて見せるなんぞお役人に云つた手前、困つてゐるのだ」
それはお前が悪いのだらう、と苦笑しながら、栄助は尋常の心持ちではなかつた。こいつは本気で捕へやうとしているのか。角に桃の宿した鹿と云ふ、神の領域ですらありさうなあの生き物を、畏れ多くも血で穢さうと云ふのか。神に弓引く行為ではないだらうか。
嫌悪感と畏れと、また大事なものに触れられた怒りのやうなものが栄助の中で一度に起つていた。何とか抑え込み、同じく山に住ふ者として忠告すると、男には一笑に付される。
「お前は現実主義者の割に、信仰心が篤いのだな」
「さう育てられた」
栄助の返事に、男は少しばかり云ひ淀む。
「……。さうか。お前の親父様なら、きつとさうだらう。しかし、しかしだな。信仰心は、腹を膨らしてはくれぬ。何より、信仰心と猟師の本能とで、俺は後者が勝つて仕舞ふのだ」
忠告に耳を貸さうと云ふ心が一切ないのを見て取つて、栄助は不安になつた。
何か途轍もないことをこの男は仕出かさうとしていないか。しかし俺にそれを止める権利もなければ、獲物を逃がすやうな権利もない。第一、あの日より桃の鹿には会つてゐないから、居場所も分らない。
何とか逃げ延びてくれと祈ることしか栄助にはできさうもなかつた。
考へこんでゐるらしい栄助を、意見の相違を気に留めてゐるのだらうと合点した男は、態とらしい明るい声を出す。
「話は変るが、栄助。お前はいつの間に所帯を持つたんだ」
「所帯」
「え、とぼけるな。信心深ひ割にはどうだ。山の神をも恐れずに、睦まじく暮らしてゐるやうではないか」
「俺は気楽な独り身だが」
「まだとぼけるか。独り身なら、玄関先を掃いてゐたあの、びつくりするほどの女はどこの誰だい。え、家の中も随分小ぎれいになつてゐるぢやないか」
「お亀さんのことか――」
揶揄はれながら、栄助は経緯を話す。雪の夜に迷つてゐたから泊めたこと、行く宛てもないらしいので身の回りの世話をしてもらつてゐること。茶化すやうな男の態度が擽つたくはあつたが、恋仲のやうに扱はれることは、嫌でなかつた。
亀は外で洗濯物を干してゐるらしい。白く美しいうなじに、栄助は傍に男がゐるのも忘れて見惚れていた。
男も凝つと亀を見てゐる。やがて、口の端を上げた。
「好い女だな」
「……」
その顔つきと声に、まるで品定めでもするやうな厭らしさを感じ、栄助はむつとする。
男は暫く亀を見詰めてゐたが、到頭栄助の視線に気づいて、にやにやしながら取り繕つた。
「悪い、悪い。だつて、ぞつとするやうな美人ぢやないか。早く嫁にしてやりな」
「勝手を云ふなよ――、お亀さんだつて、里で暮らし度いかも知れないぜ」
「それならさう長くここに居ないだらう」
「……」
世辞のやうな男の言葉に気をよくしながら、栄助は、本当に亀と夫婦になれたら良いのかも知れないと思ひ始めてゐた。