――あいのうた かさねて積もる さくら道 いざ舞へ天(そら)へ 想ひ届けよ
この所、幼い頃から馴染みの古書店は営業中の看板が掛かっていないことが多く、広樹は少々不安であった。
店主は十数年前に亡くなった祖母よりもさらに四つ上で、年齢もさることながら身寄りがいないと聞いている。
だからこそ仕事も休みで、なおかつ気力体力とも余裕のある時にはできるだけ様子を見に行くようにしていた。
「……あれ?」
今日も例によって休業日だったのだが、勝手知ったる店の裏手から物音がしている。
そっと覗き込んでみると、店主は老体に鞭を打ちながら重たそうな冊子を持ち運んでいた。
「じ、じいちゃん駄目だよ、腰余計悪くしちゃうよ」
挨拶もすっ飛ばして広樹は止めに入る。店主は一瞬驚いた様子を見せて、やがて笑顔に転じた。
「広樹君か、いらっしゃい。今日はお休みかい?」
「うん、そうだけど、そうなんだけど――、一回それ、下ろそう。俺がやるから」
広樹の足元を、黒猫から代替わりした茶トラがうろついて、にゃあにゃあ騒ぎ応援する。
風の強い、桜の季節であった。大通りから少し外れたここまでも、桜並木からの花びらが風に乗って届いている。
「これ、どこかに運ぶの?」
広樹の抱えたノートと思しき紙束は、案外な重さがあった。これを米寿を迎えた人間が運ぼうとしていたことに驚きながら行き先を尋ねると、芳次郎は急に歯切れが悪くなる。
「いや……、燃やそうと思ってねえ」
「燃やすの? これ、大切な資料なんじゃ」
「いやあ……、大切は大切だけれど、あの世に持っていけないからねえ。それに――」
燃やせば、煙が空に上るだろう。
「……?」
要領を得ない回答に首を捻っていると、芳次郎は苦笑した。
「若い日の習作だよ。僕も昔、歌を詠んだんだ。まあ、大橋先生と違って全部選外だけれども」
よく見ると、ノートだけではなく反故紙も交っているらしい。几帳面な字で短歌が綴ってあった。若き日とは聞いていたが、恋の短歌らしい。
(……)
――これ広樹のばあちゃんかよ! 教科書に載ってるなんてすげー!
――大橋先生のお孫さんと聞いているけれど、僕はそんなことで点数はつけないからね。
「短歌か……」
良くも悪くも、広樹の人生に「大橋佐和子の短歌」は関わってきていた。「嘘つき」とからかわれていた筈が一転ヒーローになった小学生時代。幼い頃から接点があるしと、それだけの理由で選んだ文学部では、ゼミの担当教授に高圧的な態度で臨まれた。
(結局、ばあちゃんの未発表の短歌について卒論をまとめて、勝手してごめんって墓に謝りに行ったんだっけ)
未発表だったのは「青菜切る しろき手頸と まなざしと その奥にゐた 光優しき」「神の手に 千々に裂かれた 姿さへ 恋しからぬや 夕暮れの君」。
この二つの短歌は祖母の大切にしていた鏡台の奥から出てきたものだが、広樹はそれぞれ独自解釈して発表した。
青菜の歌は料理人だったらしいという曽祖父、大橋佐和子の父。夕暮れの君は広樹の祖父と解釈するも不評であったが、未発表短歌を世に出したことは褒められた。
(ひいじいちゃんとは仲悪かったらしいし、じいちゃんが千々に裂かれる意味が結局わかんなかったけど……)
バブル崩壊の就職氷河期にも直面していたので、面接のときの話題作りにも使わせてもらった。だが、広樹はずっと疑問に思っていることがあった。
「ねえ、じいちゃん」
「うん?」
「歌って面白いの?」
純粋な興味で聞いた。今まで少しずつ関わってきてはいたが、祖母も歌を詠むことは強いなかったし、自ら詠もうと思うこともあまりなかった。
流行っていないから、気恥ずかしかったこともある。
この純然たる興味での質問に、芳次郎は何故か驚いているようだった。やがて、太陽みたいににっこりと笑った。
「面白いよ。僕は口下手だから」
――だから気持ちを届けたければうたうんだ。
芳次郎は空を見上げる。
「ふうん……」
誰に届ける歌なのだろう。純粋にその答えを知りたくて、でも答えてもらえもしなさそうだから、紙束を譲り受けられないか考えている広樹に、突然の突風が吹きつけた。
「おっと……、何だか、嵐みたいだったねえ」
「そうだね。……あ」
束の中から反故紙が一枚、桜吹雪の空に舞って飛んで行った。