「制服が皺になるわよ。もう着ないだろうけど、みっともないわ」
「はーい」
答えながら、優希は壁掛けカレンダーを確認した。卒業式の日のようだ。
(『青春』を再体験できるはずなのに……、ここからスタートなのか)
それとも今までのことは全くの夢だったのか。そうだとすると随分長かったようにも思うが、寝覚めはそう悪くない。
なかなか、面白い体験だった。
「優希、お母さんちょっと卵だけ買って来るから留守番お願いしていて良い?」
「はーい」
母の声に答えながら優希は服を着替え始めた。
――林田さんじゃねえか。
母の居ぬ間にチャイムが鳴ったので玄関に出てみると、そこには髪も目も黒くなった例の営業マンが立っていた。
説明にでも来てくれたのだろうか――、そう優希が期待していると彼は意外そうな顔で首を傾げる。
「俺だけど……?」
「いや、『青春ストーリー』に絡んでくるんですね……、さっき『チェンジで』って言ったのに意外だなって」
「は? 何が?」
(……?)
予想外の返答。会話がかみ合わない。
互いに顔を見合わせ、沈黙する。優希はあの素っ頓狂に明るい営業声が返ってくるのを期待していたものだから、訝しむ様子に困惑するほかなかった。
言葉を続けようとした途端、ビニール袋の音をさせながら歩いてくる影がある。
「あら! 恵斗くんじゃない! よかったら上がっていって!」
「こんにちは。……そうですね、じゃあ、お邪魔します」
「え……?」
――優希の記憶では確かに、母は『林田さん? どなた?』と以前に言っていたはずだった。
何故、当たり前に受け入れているのだ。
そして彼は何故、客間の場所まで知っているのだろう。――そう思いつつ、優希はともかく後に続いた。
客間には二人きり。母は夕食の支度に取りかかっていた。
見知らぬ「幼馴染」だという林田恵斗が唯一の手掛かりであるような気がして、優希はこれまでの経緯を話した。彼は苦笑とも微笑ともつかない顔で答える。
「夢見たんだよ、優希」
「いや――」
「だって優希が言ったこと、全部現実のデフォルメだよ」
意外なことを言い出され、優希は思わず恵斗の顔を見つめる。
「実際、文化祭でシンデレラの劇もやったし、相手役俺だったし、ストーリーも主人公が『シンデレラの世界に飛ぶ』って設定だったからなあ」
(……)
――そんな文化祭は知らない。まるでパラレルワールドへでも飛んできてしまったみたいだと思う一方で、恵斗の言葉が本当らしく思えてくる自分もいた。
大体、「ストーリーサーバー」なんてものが実在したらもう少し一般的な職業になっていてもおかしくない。
青春を再体験させてくれるようなサービスなんて、希望する人は掃いて捨てるほどいるだろう。
(高校も卒業したっていうのに、いつまでもこんなこと言ってちゃな……)
彼は生活にも困っているようだった。夢のようなサービスが売れ行きの悪いわけもないし、きっと夢でも見たのだろう。
そしてきっと、目の前にいる彼は幼馴染なのだろう。目の前に存在としてある彼を、母も保証しているのが何よりの証拠だ。
(そうじゃないと、悪趣味すぎるもの)
例え覚えていなくても、彼は幼馴染。優希はそう自分に言い聞かせる。
――きっと今は、妙な夢を見て混乱しているだけなんだ。
確かな記憶と違和感が「違う」と騒ぎ立てる。蓋をするなと警告音が聞こえたような気もしたが、優希は聞こえないふりをした。
恵斗は口の端で、にやりと笑った。そのまま話を続ける。
「優希は相変わらず、想像力豊かだな」
「ね。夢の中で想像力奪われたはずなんだけどね……」
夕陽の中で優希は笑う。
ふと、夢の中の出来事が一つだけ叶っていないことに気づいた。
話のタネにでもと恵斗に告げると、彼は案外真面目そうな顔つきでオウム返しにした。
「『見知らぬクラスメイトからの告白』なあ」
「そう。夢の中で『誰』って言っちゃった」
笑い話にでもなればと思っていた優希の思惑と反対に、一瞬、静かな間ができた。恵斗はカップに残った紅茶を一気に飲み干し、じっと優希を見つめる。
優希が「何」と問うと、驚いたようにびくっとして、やがて「まあ、その内でいいんじゃない」と横を向いた。
微かに赤い頬が、動揺しているようにも見えた。
――ストーリーサーバー。
(想像力が豊かだったからあんな夢を見たのかな)
少しだけの違和感は、紅茶に溶かして飲んでしまおう。
果たしてどこからが夢で、どこからが現実で、どこからが『青春』だったのか。
提供された世界の中で、優希は答えを知らなかった。