ヒカルノキミ
幼い頃から、この人の婚約者として育てられていたせいだろうか、許嫁という言葉は馴染みのあるものだった。
「咲」
「ありがとうございます」
目の前にあたたかい紅茶の入ったカップが置かれた。
昔から変わらない無愛想な表情で、透は再び仕事机へと戻っていく。
「……」
銀縁のフレームの奥にあるのは、切れ長の涼やかな瞳。短くさわやかな髪型は、清廉なイメージのある弁護士という職業にぴったりだ。
書類に目を通す表情など真剣そのもので、咲がここにいることすら忘れているのではないかと思わせる。
「……何です」
「いいえ」
咲の視線に気づき、透はちらりとこちらに視線をくれる。
「そうですか」
短く言葉を返し、透はまた書類に目を通し始める。
咲も数学の宿題に取りかかることにした。
(……)
あまり得意ではない数式に四苦八苦しながら、一問一問丁寧に書き込んでいく。
答えにたどり着くまで、間に何度も休憩を挟み、淹れてもらった紅茶に口を付けた。
(答え、知らないなあ)
何故自分がこの人の婚約者なのか。はっきりとは知らないように思う。
物心ついたときにはそれが当たり前だったから、疑問を持たなかった。そして疑問を持つようになった頃には、その理由を聞くのが何故だか恐ろしくなっていた。
しかし、自分の父親の職業も、透の父親の職業もよく知っていたから、きっと、政略結婚か何かなのだろうと予想をつけることはできた。
(それはいいけど)
決められた結婚であることも、それが父親達の仕事を進めるのに必要であることも、理解しているから別に構わない。
何より、咲自身、この婚約を嫌だと思ったことはない。
だから、恐れているのは「決められた結婚であること」ではない。
(ただ)
ただ、「それだけだ」と透にはっきり断じられたら、何だか途端に毎日の生活が味気なくなってしまいそうだった。
(優しいからかな)
もし、この優しさが、透の本当の姿ではなく、ただ義務的に行っているだけのものだとしたらと思うと、咲は恐ろしくなるのだった。
(透さんは)
この関係をどう思っているのだろう。
「透さん」
「何です」
「……何でもありません」
聞いてみようとして、すぐにやめた。
透が小さくため息をつく。
「君は普段素っ気ないのに、どうしてこういうときだけちょっかいをかけるんですかね」
「素っ気ない……ですか」
「ええ。メールの返事も遅いし、こうして家に来るのも稀だ。しかも仕事が忙しいときばかり」
「ごめんなさい」
咲は素直に頭を下げた。
透はさらに言葉を続ける。
「電話もつながらないことが多い」
「学校では電源切ってて……」
「そうですか。学校は楽しいですか?」
「はい」
「ずいぶん嬉しそうに笑いますね?」
咲の答えが気に入らなかったのか、透は書類を置いて咲を見据える。
「……そうですか?」
「ええ。……スカートの丈も、もう少し長くできないのですか」
「みんなこのくらいです」
「……」
呆れとも何ともつかない顔で透に見つめられ、咲はうろうろと視線をさまよわせる。
普段は口数の少ない透が、こんなに饒舌になるのも珍しかった。
「怒ってます?」
「いえ、あなたの困る顔が見たいだけです」
「意地悪ですか」
「ええ、意地悪です」
はっきりとそう返され、咲は返答に困る。
困惑している様子がおかしいのか、透は微笑した。
「あなたのことですから、何か気になることがあるのでしょう? 遠慮しないで聞いたらどうですか」
透はまっすぐに咲を見据えている。
(いつも)
いつもまっすぐで、無愛想だけれど優しい。それはずっとずっと変わらない。
なぜだか、先ほどまで考えていた問いが急に無粋なものになったように思えた。
「何でもありません」
「そうですか」
透は再び、書類に目を戻した。咲はもう一度、紅茶のカップに口を付ける。
聞かないでおこう。
遠回しで意地悪な言い方だったけれど、もっと家に来てほしいと言われたのだから、それだけで十分だ。
咲は透の言葉を反芻しながら、カップを置いた。
「……終わったら出かけますか? 夕食はまだでしょう」
「はい」
咲は穏やかに微笑んだ。