夕食の後、藤志郎には庭に面した部屋が与えられた。
千代は庭で足を延ばしながら、大きく欠伸をする。
藤志郎は縁側に腰掛けながら頬杖をついて、何かを考え込んでいるようだった。
「何むすっとしてんだよ。夕食うまかったろうが」
「気に入らん」
態度の変わらない藤志郎に、千代はちろりと目を向けた。
「何が。人参食ってやっただろ」
「違う」
「三つ葉も食ってやっただろ」
「違う」
「人の分の刺身まで手え出しといて何が気に入らないんだお前は」
「刺身の方が俺に食われたいと言い出したのだ」
「うるせえ返せ!」
恨みを込めて一吠えするが、藤志郎は動じた様子もない。
「……気に入らんのは奈津の態度だ」
初めから確かにお互い険悪な雰囲気は流れていたが、藤志郎がわざわざ口に出すのは予想外だった。
千代は首をかしげる。
「確かに気は強いけどいい人じゃないか。まあ、自分に優しい人間以外とは友誼を深められない引きこもりには難易度高いかもしれないけど」
「引きこもりと言ったな! 本当に襖の奥に引っ込んで出てこなくなってやろうか!」
「放って帰るわ」
「すまん構ってくれ」
(こいつ本当に面倒くさい)
あえて口には出さなかった。
代わりにまた一瞥をくれて、千代は自分の足に顎を乗せる。
藤志郎がぽつりとつぶやいた。
「……俺は何でもそのままが好きだ。あるがままでいい」
「人に犬の耳渡しているやつが言うことじゃないけどな、それ」
「いや、それはそれだ」
「どれだよ。一緒だろうが」
「……まあいい」
藤志郎はそれだけ言うと、千代を見て苦笑した。
その表情は困っているようにも見えて、千代はたじろぐ。
藤志郎が大きく息を吐いて空を見上げた。
「仕方あるまい。当人に始末がつけられないなら、本日こちらで始末をつけよう」
「おう……? よく分からないけど、とりあえず私は店先で見張りしとくよ。妖怪退治約束しちゃったし」
千代はのそのそと体を起こすと、庭から店先へと向かい始める。
藤志郎の声が追ってきた。
「何かあれば呼べ。多分起きん」
「呼ぶなってことじゃねえか」
ぐるると唸って、千代は歩き出した。
「おや、千代ちゃんはもう見張り番に行ってくれたんだね」
「……」
「睨まなくていいじゃないか。そんなに私が気に入らないかい。聞こえてたんだけどさ」
奈津は口の端を上げて笑う。目はしっかりと藤志郎を睨みつけていた。
藤志郎は大仰にため息をつく。
「死から逃げていては解決せん。お前が現実を見なければ、始末はつけられんぞ」
「どういうことだい」
狼狽もせずに奈津は答えてみせる。しらを切っているようにも見えた。
藤志郎は意に介さず、諭すように確認する。
「噛みつかれるやもしれんが、それでもいいんだな」
「……意味が分からないね」
「逃げるばかりでなく、向き合わねばずっとこのままだ。恐ろしいのかもしれんが、当人が何も伝えず解決しようとしないままでは、憐れだ」
はっきりと確信を持って告げる藤志郎に、奈津は目を泳がせた。
しばらくお互いにらみ合う。虫の鳴く声だけが聞こえていた。
ようやく、観念したように奈津がうつむいた。
「……私も、とらわれてるんだよ。私のせいなのかもしれないけど、どうしようもないんだ。どうすりゃいいってんだよ」
「分かっているならいい」
満足したようにうなずいて、藤志郎は立ち上がる。
奈津はその動作を見つめていた。
「始末をつけてやろう。ついてこい」
藤志郎は歩き始めた。
どうやら、知らぬ間にうつらうつらとしていたようだった。
(ああ、しまった)
見張り番をしているというのに失態だと思い、千代はすっくと身を起こす。
じっと目を凝らしてみるが、店先に置いてある商品には何の変化もないようだった。
妖怪が来ると言っていたが、いったいいつ頃現れるのだろう。
(まだ夜明けには遠いな……)
空気がしんとしている。
家人は皆眠りについているようだった。
千代は眠気を覚ますためにも、店の中をそろそろと歩き出す。
(ああ、きれいだなあ。……きれいなんだけど、何で、あんな妙だったんだろう)
かんざしは妙に重く、変な寒気までした。
宗助に問題があるわけではなさそうだったから、かんざしに何かが憑いていて、それが夜な夜な歩き回ったりしているのかもしれない。
千代がそう考え始めた時、暗闇に何かがうごめいた。
「わんっ」
泥棒かもしれない。
威嚇のために一吠えすると、それはこちらを振り向いた。
「……千代ちゃんかい。ご苦労だね」
「な、……何だ、主人か。驚いちゃったよ……」
「すまないね。どうも……気になって」
やはり顔色がよくないように見えて、心労がたたっているのではないだろうかと千代は心配になる。
自分の作っている商品だから、余計に気になるのかもしれない。
「気になると思うけど、寝てなきゃだめだよ。警戒はしとくから」
「ありがとう。……でも、気になると……眠れなくて」
「うーん……。そう言われるとなあ」
疲弊しきった顔で言われると、千代には何も言えなかった。
千代の言葉を聞いているのかいないのか、小さな声でのつぶやきが聞こえてくる。
「何で笑ってくれないのか、気になって……。俺の作ったかんざしがだめだから、なのかな。こんなのじゃ、ダメだから……」
「そんなことない。きれいだよ」
慌てて千代が告げるが、宗助の顔は晴れなかった。
千代は急に心配になる。
(……主人、病んでるのかな。妖怪が出るのは自分のせいだと思ってるんじゃ――)
昼間はそうも見えなかったが、案外精神的な苦痛を受けているのだろうか。
そう千代が考えた瞬間、ばりばりと、何かをかみ砕く音がした。
「作っても作っても、喜んでくれやしないんだ……」
硬いものが無理やり割られるような音だった。
何が起きたのか千代には把握できなくて、じっとただ音のする方を見ていることしかできなかった。
ばらばらと、彼の口から零れ落ちていくのはかみ砕かれたかんざしの破片。
口の端から、ぬうっと牙が伸びてくる。
「昔はああも喜んでくれたのに。違うや、俺がいけねえんだ、どれもこれも中途半端で、あいつには気に入らないんだ。もっといいものを作ってやらなきゃ」
「え……?」
声も随分と低くなり、髪はざんばらにほどけはじめる。
ぷうんと、腐臭が漂ってきた。びちゃびちゃと、千代の方へ歩を進めるたびに水場を歩くような音さえする。
肌は土気色、目のあるはずの場所には、真っ黒な空洞しかない。少なくとも今目の前にいるのは、千代の知っている宗助ではなかった。
「なあ千代ちゃん、どうすりゃ奈津は笑ってくれるかなあ。いくら作っても作っても、喜ばないんだ。いつからだろう、いくつ作っても、笑ってくれやしなくなったんだ」
「どういう……」
問いかけてやめる。
どういうことだという問いは、あまりにも目の前の光景に対して愚問であるような気がした。
宗助が、妖怪なのだ。
商品を口にしていたのは、他ならぬ宗助自身なのだ。
(ただそれだけだ)
目の前の人間が妖怪であった、それだけのこと。
だが今まで、人が妖怪になってしまうなど、千代は聞いたことがなかった。
(……これが、あれか。最近出てきた、妙な妖怪)
中には恐ろしい類のものもいる、人とは共存できない種類の妖怪。
そう思うと目の前の光景が恐ろしくなってきて、千代は言葉が出てこなかった。
(ダメだ、ダメだ、かんざし食ってるだけだ、主人には違いないんだ! 私だって妖怪じゃないか)
自分に恐がる理由はないと、千代は首を振る。
危害を加える様子はないのだから、変化しただけで怖がっていてはいけない。
千代は大きく息を吸う。腐臭が肺に入り込んできて苦しかったが、何とか飲み込んだ。
「しゅ、主人は、その、奈津さんに、喜んでほしい……んだよな」
「そうだよ。俺が死んだとき、あいつがあまりに悲しんでたから。起き上がって、いつもみたいにかんざしを作ってあげたんだ。それなのにあいつは喜ばなかった。それどころか、受け取ってくれやしなくて、俺は」
「死んだ……?」
千代の疑問など意に介さないように、宗助はつぶやき続ける。
「それから毎日毎日作ってるんだ。生きてた時よりも、いいものができているはずなんだ。それなのに喜ばないんだ」
「当然だ」
聞きなれた声がした。
千代が振り向くと、藤志郎がそこに立っていた。藤志郎の後ろに隠れるような格好で、奈津はじっと顔を伏せていた。
「宗助はもともと人間であったことに違いはないな」
「ないよ。……早く、始末をつけておくれ。そのために雇ったんだからね」
奈津の声には抑揚がなかった。
宗助は衝撃を受けたように、その場に立ち尽くす。
「奈津……?」
「ひどいよ、奈津さん。主人は奈津さんが喜ぶのを見たくて、ひたすらにかんざしを作ってるんだよ」
「死人にもらったところで、嬉しかないよ」
「何てこと……!」
いきり立った千代を制するように、藤志郎が静かにつぶやいた。
「自分が原因だと分かっているんだろう」
「……」
「それでいて、自分では手を下せない。だからこそ、用心棒などと言い、俺に始末をつけさせようとした。自分への執着がこもったかんざしも、恐ろしくて受け取れなかった」
「……。違わないよ……」
観念したように、奈津はため息をついた。
片手で顔を覆い、宗助の方を見ないようにして言葉を吐き出す。
「小さい時から、ずっとずっと連れ添ってきた大事な旦那なんだ。私に、始末をつけられるわけなんてないだろう」
「奈津さん」
「夫婦になった時も、店を始めるときも、一緒にいたんだ。だから、離れたくないって思うのは悪いことかい。こんな風に蘇るなんて思いもしなかったんだ」
叫びにも似た吐露に、千代は言うべき言葉を失った。
奈津は苦しそうな表情で続ける。
「死んでまで、私のことにばっかり執着する宗助なんて、かわいそうだよ。見ていたくないよ。お願いだから、それを始末してくれ」
奈津はようやっと顔を上げると、じっと宗助を見つめる。
その表情は複雑すぎて、奈津の心が今どろどろとしているのだろうということしか分からなかった。
宗助はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
やがて、信じられないとでもいうように、消え入りそうな声で訴える。
「……何で俺が消えなきゃいけねえんだ。あんまりだろう、奈津。お前が、泣いてたから、俺は」
「死んだときは悲しかったし、そりゃ、泣いたさ。死ぬなら一緒に死にたかった。でも、生き返ってまで、妙な生き物になってまで、私について来ようとする宗助が悲しくて悲しくて 、……恐ろしいんだ」
(間違ってないのに)
二人の心根が間違っているようには、千代には思えなかった。
それなのに食い違っていることが悲しくて、千代は何もできない自分が歯がゆくなる。
藤志郎は何の感慨もない表情で、二人を見つめていた。
「奈津が、そこまで言うなら」
やがて宗助がぽつりとつぶやいた。
決意したような表情だった。
「……そこまで言うなら、お前も道連れだ」
「主人?」
「……奈津……!」
だんっと強く地面を蹴り奈津に襲い掛からんとする宗助を一閃で斬り捨てたのは藤志郎だった。
その場に崩れ落ちる宗助の姿を見て、千代はようやっと今あった光景の意味を理解する。
牙をむき出しにしたまま地に伏せる宗助の姿が、憐れだった。
腐臭が漂う。藤志郎は表情を変えぬまま、刀から血を振り落とす。
「う……」
宗助のうめき声が漏れた。
奈津は宗助に駆け寄り、その頬に手を当てる。
ぐちゃりと、再び水音がした。
「宗助」
奈津がそう呼んだとたん、宗助がかっと口を開いたのが、千代にも見えた。
「奈津さん……!」
血の気が引いて、千代は一気に駆け寄った。
途端、醜い音が千代の耳に届いた。
「え……?」
串刺しになった自分の胸を見つめて、奈津は理解しがたいとでもいうように藤志郎をふり仰ぐ。
藤志郎が刀を抜くと、宗助の体だけが力をなくし、ぐったりとしていた。
「これは、人を斬れぬ刀だと言っただろう」
奈津はかすり傷一つ負っていなかった。
ひゅうひゅうと音を立てながら呼吸する宗助を見つめながら、藤志郎が吐き捨てる。
「人でないものは、こうして斬れるがな」
藤志郎が刀に自分の親指を当てると、血が滲み始めた。
その様子を黙って見つめる奈津に、宗助が手を伸ばす。
「奈津」
ほとんど、聞き取れないような声であった。
「作ったんだ、……たくさん。何で、笑って……」
宗助が手にしたかんざしは、割れていた。
闇夜の中できらきら輝く細工を見て、奈津は歯を食いしばる。
「ごめんね……。怖くて、かわいそうで、何より、いてほしくて、受け取れなかったんだ」
「……」
宗助の口からは、息だけが吐き出されていた。
「ああ、こんなにきれいなかんざしをあつらえてくれていたんだね。……ありがとう」
奈津は笑った。
宗助は満足したようだった。
割れたかんざしが宗助の手から零れ落ちた。
奈津に見送られて、千代と藤志郎は歩きはじめる。
千代が振り返ると奈津は大きく手を振った。その表情は少し切なげでもある。
頭に挿した割れかんざしが妙に印象的で、千代は小さく息をついた。
「……主人と一緒に暮らすって方法はなかったのかな」
ぽつりとつぶやいた言葉に、藤志郎が答えた。
「あのまま留まらせておくと、理に適わない行動をとり始める。あれは、もともと自然の理に反しているからな」
「たとえば」
「今回で言えば、いずれかんざしではなく奈津が食われていたろうな」
「……」
千代は何だか疲れてしまったようだった。
解決はしたのかもしれないが、心の中が妙にもやもやする。
(主人いなくなって幸せなのかな、奈津さん)
そんな疑問が浮かんでは消えていった。
お似合いで、釣り合いが取れていて、お互いのことを想いあっていた夫婦。
お互いに別れを納得できなくて、依存したままだったからこそ、今回のようなことになってしまったのだろうか。
(何か、おかしかったのかな。……自然の理には反しているけど、でも、でも)
藤志郎が正しいのだと心の奥底でわかっていたが、納得には程遠かった。
ただ、解決しないままであればいずれにせよ、奈津はずっと張りつめたままだっただろう。
(それに、二人が納得したなら、私がいくら言っても仕方ない)
宗助が奈津の笑顔を見て納得したのであれば、後は当人の心の持ちようなのかもしれない。
千代はようやっと気持ちを切り替える。
(これから、幸せになってほしいなあ)
そんな漠然としたことしか、千代には願えなかった。
「最近出てきた妙な妖怪は、いずれもああいったものらしい。この世に何らかの執着があって留まり、いずれは理に、道義に、人に反した行動をとり始める」
「そんなのになっちゃうのか」
「あれは、人でも妖怪でもない。そして仲間がほしいから、いずれ自分の側に引きずり込もうとする」
千代は宗助の姿を思い返す。
かんざしに妙な悪寒を覚えたのは、奈津への執着というより異形の雰囲気に対する恐怖なのかもしれないと思った。
暗く沈みこむ千代の耳に、からっと明るい大声が飛び込んでくる。
「唐傘おばけの大道芸だよ! 今日は松明のお手玉だ!」
(……燃えたらどうすんだ、あれ)
何とはなしに見つめていると、藤志郎も立ち止まった。
「妖怪として生まれたのであればそれが自然の姿だ。だが、人が妖怪になるのは自然ではない」
「でも私は」
人になりたいというのを否定された気がして不安になりながら、千代は藤志郎を見上げる。
いつもと何ら変わりのない表情だった。
「それについて答えを出すのは性急だ。少なくとも今回の件ではそうだ、とだけ思っておけ」
「……うん」
そう答えた後の静寂がもどかしくて、千代は首を振った。
歩を進める自称薬師の妖怪に問いかける。
「で、藤志郎、どこへ行くつもりなんだ?」
「そうだな……」
藤志郎はおもむろに草履を脱ぎ始める。
嫌な予感がして千代は後ずさりを始めた。
「……おい、待て縄を外すな草履を脱ぐなやめろホントやめ……わおーん!」
「存外北に飛んだな……。なら、行くか」
藤志郎は次の行先を決めたようだった。