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魔王城

 夕焼けに照らされた崖の上の屋敷は、近くの町からでもよく見えた。

「まだ帰りたくないよ」
「だめ、早く帰らないと崖の上の魔王がさらいに来るよ」
 公園でやりとりしている親子の会話を耳に入れながら、リリアはおいしそうなパンに目をやる。
 目深に被ったフードからでは見づらいが、焼きたてらしくどれもこれもおいしそうなにおいを漂わせていた。
 これならきっと喜ぶ顔も見られるだろうと、リリアは青いガラス玉のような目を細めて商品を選び、言葉少なに代金を渡す。
(早く帰らないと……か)
 さらわれるはずなどないのに、先ほどだだをこねていた子供の姿はもう公園にはないようである。
「ありがとうございました」
 紙袋に詰まったパンと一緒に、何か紙のようなものを手渡された。
「……これは?」
「あ、今町に来ている劇団のチラシですよ。うちの遠縁が出ているもんで……」
「そうなんですね」
 色鮮やかなチラシには、有名な恋劇のパロディらしい公演名が載っている。
 聞いたことのある劇団だ。もうすぐ、夜の部の公演時間になるらしい。
「……パン、公演の後で買いに来てもいいですか?」
 久々に町に出てきたことでもあるし、土産話になるかもしれない。誰かの顔を思い浮かべながらそんなことを思いついた。
「ええ、大丈夫ですよ。この分は取っておきますね。お名前は」
「ブランフォード」
 リリアはちらりと夕日に映える屋敷に目をやって、劇場へ向かうことにした。

 観劇が終わり、リリアが家路につく頃には太陽の姿などとうに消えていた。
 受け取ったパンのにおいが鼻孔をくすぐる。そういえば徐々にお腹もすいてきていた。
 白く細い月が顔を出し、崖の上の屋敷を照らしている。人気も少なく、誰も上ろうとしない山道へリリアは向かった。
(もう大丈夫かしら)
 歩きながら目深に被っていたフードを外すと、黒く長い髪が現れる。
 闇に溶けそうな色だから、きっと誰も自分のことには気づかないだろう。
(この方面に女一人で帰ってることが知れたら絶対に怪しまれるでしょうね)
 目指す先は、魔王が住むとされている屋敷。そして同時に、自分が住み込みで働いている場所。
 何も『魔王』といっても、おとぎ話にあるような、世界の破滅をもくろむ不逞の輩というわけではない。
 魔力を持つが故に忌み嫌われ、狩られることになった人々の中で、もっともその力が強い者であると言われている。
 伝聞形なのは、本人に聞いたわけではないからであり、また現代に魔力を持つ者などほとんどいないからであった。
(私はあるらしいけど)
 リリアも魔女狩りから逃げてきた人間である。魔力などほとんどないはずなのだが、目をつけられ、生まれた土地を追われることとなった。
 この悪習、魔力を持つ者を狩ることが違法であるとされたのはまだ記憶に新しい最近のことである。
 ようやっと屋敷の主もリリア自身も落ち着いて暮らせるようにはなったが、人々の中から正体のない恐怖が消えることはないらしい。
(急がなきゃ)
 ぼんやりと考えている間に、時間は刻一刻と過ぎていっていた。慣れた道であるとはいえ、あまり遅い時間になってしまうと行く手を見失ってしまうだろう。
 少しばかり早足になりながら、屋敷への道を進む。ぼんやりと明るい光が見えてきた。どうやら屋敷の庭は月見草が満開らしい。白いライトのように点々と、花が光を浴びて輝いている。
 その中にぽつりと、月を仰いで立つ姿。茶金の髪を肩まで伸ばし、その薄い青の瞳に月の光を受けている。そう若くはないが、鼻筋の通った美しい顔立ち。
 長いまつげを伏せ、嘆息し愁う姿にはどこか妖艶さが漂っているようでもある。長身痩躯の身に纏った黒い衣装が闇に溶け、白い肌が目立っているように見えた。
 遠くからでも見て取れるその姿はどこか現実味がなく、幻想的でもある。
 あの親子は、この人が魔王なのだといえば果たして信じるだろうか。
「遅くなりました」
 月見草を踏まないようにしてリリアは近づき、恭しく頭を下げる。
「ご苦労。もう少し遅いようならさらいにいこうかと思っていたぞ」
「ディオン様……ご冗談を」
「あながち冗談でもないが」
 心底ほっとしたような、安らいだ顔でディオンはリリアの方を振り返った。
 薄い青の瞳が、買い物かごの中にある鮮やかなチラシを射止める。
「それは何だ?」
「今、町に演劇の一座が来ているようでして……。そのチラシを」
「ほう」
 リリアの手にあるチラシをのぞき込み、興味深げにうなずく。
 何かに気づいたようにぴたりと動きを止め、リリアの顔をのぞき込んだ。
「お前も見てきたのか」
「……はい」
「それで遅かったのだな」
 ディオンの瞳の奥が少し寂しそうに揺れていた。
 何も言えないまま黙り込むリリアに、ディオンは言葉を重ねる。
「心配したのだぞ」
「申し訳ありません」
「……許さぬ」
 拗ねたように言ってみせるが、その顔はどこか笑みを含んでいるようだった。
 リリアもつられて困ったように笑い、頭を下げる。
「連絡もせず、まことに申し訳ございません。私にできることあれば、何でもいたしますのでご容赦くださいますよう」
「何でも……か」
 少し思案するように視線を上にやり、しばらくして頭を振る。
 口の端をあげ、目を細めてつぶやいた。
「私は、お前と静かに暮らせれば、ほかには何もいらぬ」
「ディオン様」
 穏やかな表情のディオンに、リリアは思わず目を奪われる。
 長い年月を共に過ごしてきているが、この表情がディオンに一番似合っているような気がした。
「まあ、強いて欲を言うならば」
 頬に冷たい手のひらが触れる。長い間、外に出ていたのだろう。
 そのままリリアにまっすぐ視線を合わせ、ディオンは小さく笑った。
「もう少し、その心を私に捧げてくれればいいのだが」
 願わくば、その全てを。
 心の中の言葉はのどの奥にしまって、ディオンはリリアの額にキスを落とした。つと身を離し、硬直しているリリアに言葉をかける。
「夕餉が終われば公演の話を聞こう。先ほど山菜を採ってきたのだ、……楽しみにしている」
 身を翻して屋敷の中へ入っていくその後ろ姿を見送りながら、リリアは額に手を当てた。

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