悪魔と先生と、狛犬
ユリはまっすぐ結華を見据えた。表情は笑っているが、どことなく、薄ら寒さを感じる笑みだった。
その反面、目には、あまり強い意志が宿っているようには見えなかった。
「そもそも、僕はあなたを地獄へ連れて行くために来ました。ねえ、結華さん、その命が下った理由、分かりますか?」
「え?」
「あなたが、今、地獄へ下るに相応の人間だからですよ」
まるで見下されているような気分だった。ユリの笑顔をどことなく不快に感じ、知らぬ間に結華もユリの顔をにらみつけるような形になる。
結華の表情など予想通りだと言わんばかりに、ユリは苦笑した。
「どうしてあなたが地獄へ下ることになったか、理由はあなたが一番分かっているでしょう? どこかで罪を犯したはずだ」
ちらりと、結華の脳裏を何かがかすめた。頭の中で過去のイメージが連鎖的に思い起こされては消えてゆく。
同時に、これが悪魔のささやきなのかと妙に納得していた。
(確かに)
もしかしたら、理由になり得るのかも知れない。ぐるぐると渦を巻く思考の中で、結華は大きく息をついた。
ユリは楽しそうに言葉を紡ぐ。
「その罪は、地獄へ下るに充分なんですよ」
「耳を貸すな、結華」
コマの憤ったような声が響いた。
言葉は結華に向けているものの、その憤りは明らかにユリに向いていた。
「かつて結華の魂が消え入りそうになったとき、私はあらん限りで不甲斐ない己を呪った。二度とあんな思いはしたくない。……少なくとも、こやつに渡しはせん」
大気が震えるような強さの声だった。
(心配してくれてたんだ)
そういえば、何かあるとコマに元気をもらいに来ていたことを結華は思い出した。
コマなりに、見守って心配してくれていたのだろう。
「お願いです、結華さん。僕、仕事なんです」
今度は弱り切った表情で、ユリが懇願する。
悲しげに切々と訴えるものの、やはりその瞳はどこか力無い。少なくとも、楽しそうではなかった。
「あなたの魂がないと僕は地獄へ帰れない。……人助けだと思って、お願いします」
「こんな下衆に渡す必要は」
「……いい加減にしてもらっていい?」
収拾がつかなくなりそうだったので、結華はあきれかえったような声でつぶやいた。
「この状況も事情も面倒だからどうでもいいけどさ……、私ユリにもコマにも、魂はあげないよ?」
正直、ユリが嘘をついていたからといって結華の意志は変わらない。
初めから、魂を渡すことについては断っている。
「何でどっちかに渡す前提になってるのかも意味分からないし……。私の命くらい私にちょうだいよ」
勝手に人の命の行く末をあれこれやりとりしてもらいたくなかった。
生きると決めているのに、どうしてこう、つまらない方向性に持っていこうとするのだろうか。
「しかしそれでは結華が」
「消えないよ。生きるし」
呆れの混じった表情でコマを見る。何かを悟ったようにして、コマはうなずいた。
ユリが相変わらず表面だけの笑みで首を振る。
「それでは僕が困ります」
「ユリの事情は分かった。でも私は魂を渡さない。悪いけど断る」
結華はきっぱりと断じる。
それでもなお同じ表情でユリは食い下がってきた。
「結華さん」
「何言っても、断る。……あのさ、これ以上の問答は面倒だし、私、もう帰ってもいい?」
正直、水掛け論に疲れてきていた。渡せ、渡さないの押し問答を続けたところで何の利があるというのだ。
魂を渡す気など結華には一切ない。交渉の余地すらないのだといい加減理解してほしかった。
「帰しません。魂をいただくまでは」
「じゃあ私も、ユリを地獄に帰してあげない。一生」
全く折れる気配を見せない結華を見据え、ユリは黙り込む。
その表情には焦りと困惑が浮かび始めていた。
「ねえ、直接手を下せないのは本当でしょ」
「……」
結華の問いかけに、ユリは答えようとしなかった。しかし結華には、肯定しているようにしか聞こえない沈黙だった。
答えの代わりに、ユリは探るような表情で問いかける。
「結華さん、一つ教えてください」
「何?」
「……死にたいと思ったことはないですか?」
直接的な問いかけに、結華は少々面食らった。
嘘をついても仕方がないのではっきりと回答する。
「……。あるけど?」
「では何故……」
何故断るのですかと問いかけたいのだろうと結華は想像した。
「説明は面倒だからパスさせてよ。……もういい? そろそろ日も暮れてきたから、帰りたい」
腕時計の時刻は、そろそろ六時にさしかかっていた。
家で母が夕飯を作って待っている頃だろう。お腹がすいたこともあってか、結華は早く面倒ごとから抜け出して帰りたい一心だった。
返答のないユリをしばらく見つめ、結華は今が好機とばかりにきびすを返す。
「待ってください、先生」
「何?」
「先生」と呼ばれ、思わず結華は振り返った。
「お願いです。哀れな弟子に、せめて一つだけご教授ください」
ユリは切迫した表情をしていた。その表情には困惑が混じっているようにも感じられる。
いらだっていた結華の心が、少しばかり落ち着いたように思えた。
「……ご存じのように、我々悪魔は心の傷ついた人の元へ派遣されます。それは絶対です。なぜならその心につけいって彼らを地獄へ誘導するために我々は存在しているからです」
(……)
ユリの言っていた「罪」とはきっと、自らの死を願うことなのだろう。
予想はできていたが、今のユリの発言でそれが確かなものになったような気がした。
「だからあなたも、どこかで傷を負い、弱っていたはずです。死にたかったはずだ。なのにあなたは、魂を渡さないと言う」
ユリがまっすぐに結華を見据えている。
まるで、「理解できない」とでも言っているようだと結華は思った。
「あなたは何かを、抱えているはずです。それなのに、どうして生きたいなどと言うのですか?」
「今が楽しいから」
即答した。
それ以外に何も言うそぶりがない結華に、ユリはひどく驚いたような、困惑しきった表情を見せる。
「それだけですか……?」
「そうだよ。……これ以上教えるつもりはないし、教えられないよ」
結華は苦笑した。
大きく息を吸うと、二人に手を振る。
「じゃあね、ユリ、キャシー」
あっけにとられたままのユリに背を向けて、結華は歩き始めた。
ふと気づいたように振り向いて、コマにも念押ししておく。
「コマ、また今度。コマにも魂はあげないからね」
恐らく、ユリから守ろうとして言い放ったことなのだろうと分かっていたが、結華は言わずにいられなかった。
コマは苦笑する。
「当然だ、もらいうけても困る。……結華」
「何?」
「心の底より、安堵した。もう……消え入ることはないな」
「……ないよ」
目を閉じ、安らかな表情を見せるコマに、結華はうなずく。心配してくれていたというのが伝わってきて、嬉しかった。
そうして結華が去っていく姿を見つめながら、ユリはどこか魂の抜けたような表情で、事務的につぶやいた。
「今日は、引き下がりましょうか」
「ユリちゃん、たぶん……これ以上無駄よ?」
声に全く力のないユリを気遣うように、キャシーは諭す。
途方に暮れたようにして、ユリは手で顔を覆った。手のひらの間から、困惑しきった言葉が漏れてくる。
「……どうすればいいんでしょう、こんなに強固に断った人はいない……」
しかしその言葉を紡ぐ口元は、どこか苦笑するようにして笑っていた。
力の抜けきった表情で、ユリは結華の去っていった方向を見つめる。
「用が済んだならさっさと地獄へ帰れ。二度と結華の前に姿を見せるな」
「うるさい狐ですね」
「それにしても、面白い子だったわね」
「いっそ、本当に弟子入りしてみたいです。どうして彼女は生きたいのか、興味がある」
「それもいいわね。あなた、元々あまりこの職業向いてないし」
「ひどいです」
ユリは弱り切ったような表情で笑って見せた。
両親にユリはもう帰ってこないだろうことを告げると、少しだけ淋しそうにしていた。
結華自身もどこか、何かもったいないことをしたようなもやもやとした気持になりながら天井を見つめる。
教えてあげれば良かっただろうか。
(楽しくないときもあったよ)
ユリの言う「罪」を犯したのはきっと、中学生の時だ。
(ちょっとだけ覚えてる)
きっと、転校生に近づいたのが原因だったんだろう。
でもまさか意味もなく疎外され、蔑まれ、なじられる羽目になるとは思わなかった。
何より食事を受けつけなくなるとも思わなかったし、そのせいで倒れてしまうとも思わなかった。
(二年しか経っていないのか)
十六歳になってから、ようやく高校一年生になった。療養の間に過ごした月日は、ずいぶんと長かったように思う。
当時何を考えていたかなんてもう覚えていない。つらかったかどうかさえ、実感としてはあやふやだ。
ただ母親が痛ましいくらいに結華を気遣って、父親が笑わなかったことだけを覚えている。
『消え入りそうに』
コマの言葉が蘇る。倒れたのは一度や二度ではない。何度も繰り返した。
意識を、命を手放した方が楽だろうと、面倒もないだろうと思ったこともある。
(でも、たった二年でこんなにも変わった)
何をしたわけでもない。ただ、自分の命と生を受け入れて、生きるだけ生きていた。死ななかったのは運が良かったのだろう。
そうする間に、学年が変わった。中学を卒業した。そして不思議なことに、再び生きるための糧を口にしていた。
状況がただ変わっただけだから、何かを乗り越えたわけでもないし、疎外した彼らのことを思い出さないわけじゃない。
それでも、命を手放そうとは思わない。
「……」
高校に入学した。周りの人より一つだけ年が上だった。それなのに彼らは、結華を疎外せず、蔑まず、なじらなかった。
入学してすぐ、花見に誘われた。カラオケに誘われた。メールアドレスも交換した。買い物にも行くし、食事にも連れて行ってくれる。
(すごいよね)
たとえ何かがあっても、悪魔のささやきに耳を貸さなければ、また楽しい今にたどり着けることを知っている。
だから、結華はユリの言葉にたぶらかされることはない。
(もうちょっと早くユリに会ってたら面倒だったかな)
生きてさえいれば傷が癒えるとか、乗り越えられるとか、そういったことはよく分からない。
でも、たとえば今後何かがあっても、命を手放さずに生きていれば、再び楽しい「今」にたどり着ける。
きっとそうだ。
(教えられなくてごめんね)
結華が今までに学んだのはこのくらいだ。
人生楽あれば苦ありなんて、こんな当たり前のことを教えるのは非常に面倒だったから、ユリには何も言わなかった。
(今頃、どこにいるのかな)
地獄にいるのか、それとも誰かの「死の手伝い」をしているのだろうか。
(悪いことしたかな)
ユリは結華が生きる理由を、本当に知りたがっていたように思う。
もしかしたら、単純に興味があったのかも知れない。今まで悪魔として生きてきて、人を地獄へ運んでいっていたのなら、初めてのケースに出会って興味を抱くのも当然だ。
(……また会えたら、教えてあげられるかな)
橙の瞳を思い出しながら、結華は眠りについた。
空は真っ赤に染まっていた。
結華は家路を急ぎながら、ここ数日のことを思い返す。
(……ちょっと楽しかったな)
変わった経験もできたし、悪くなかったのではないだろうか。
(まあ、ちょっと面倒だったけど)
悪魔にガイコツ、何より昔から知っている犬が人の姿をとれるものだったこと。
何より面倒くさがりの自分が、案外生に関してはしぶといこと。
知らないことがたくさんあったし、知ることができて良かったと結華は思う。
(でも、もういいかな)
色々ありすぎたせいか、少々お腹いっぱいではあった。
またユリやキャシーと出会いたいかと言われたら、それは全くの別問題だ。
「南条結華さんですね?」
聞き慣れた声がして、結華は立ち止まる。
振り返るとそこには、銀髪にスーツという出で立ちの青年が立っていた。
彼の足下には、四つ足のガイコツもいる。
「……何でここに」
「師のお手伝いをするため、この世に来ました。生きることについて、教えてください」