饗宴
気づけば空は暗く、暮れかけていた。
山道の途中で見つけたこの藁葺きの小屋は、庭の草が短く刈り取られていて、人が住んでいるようにも見える。
遭難するよりはましだろうと思ってサチは木製の戸を叩いた。
「すみません」
返事はない。
もしかすると無人の民家だろうか。そうサチが考えていると、やや低い声で返事があった。
「……誰?」
同時に、がらりと戸が開く。
「あ、あの、すいません……迷ってしまって――」
サチはそこまで言って、言葉を失った。
目の前で仁王立ちをしているのは、百八十センチはあろうかという巨躯に、厳めしい顔つきをした男性。
髪はぼうぼうと伸び、頭に二つの角が生えている。
(鬼……?!)
サチが呆然としているのをよそに、男はぱっと明るい笑顔を浮かべた。
「いらっしゃい! 遊びに来てくれたんだね! ささ、突っ立ってないでどうぞどうぞ」
「え……?」
告げられた言葉と胸に渦巻く恐怖とのギャップに、サチは何を言っていいのかわからなくなった。
「ああ、お客さんが来たのなんて久しぶりだなあ。看板を見て、来てくれたんだよね」
「あの」
「これでも料理は上手だから、心配しなくていいよ。さあさ、宴をしようか」
「宴?」
「おいで。先客は何名かいるんだ」
がっしりとした手にひかれるまま、サチは敷居をまたいだ。
見たこともないような明かりに、料理に、着物だった。
いきなり招かれた宴だからか、それとも今の状況が分かっていないからか何となく居づらい。
(これはいったいどういうことなんだろう)
不安になり、あたりを見回す。中央の囲炉裏の周りには、古めかしい和服を着た人々が座していた。
それぞれ旧知の仲なのか、にこにこと笑いあって楽しそうだ。
サチも同じように座っているとは言え、一人だけ高校の制服を着たままだから、明らかに場違いであった。
(さっきの鬼の人、どっか行っちゃうし)
サチはずり落ちるメガネを上げなおす。
ほどけかけた髪を一つに結って、小さく息をついた。
(ここはどこなんだろう……)
サチを家に連れ込んだ鬼はこの広間まで案内すると、「ちょっと待ってて」と言い残してどこかへ去ってしまった。
せめてここがどこであるのかくらいは把握したいと思うものの、勝手に動けばそれも危険である気がして、サチはただ座っているだけしかできなかった。
「ごめん、お待たせ。お皿が足りそうにないなあ。あれ、どうしたの、疲れちゃった?」
「あはは」
心配そうに顔を覗き込んでくる鬼が妙に無邪気に見えて、サチはとりあえず笑顔を向ける。
目の前に取り皿が置かれた。急におなかがすいてきたような気がして、サチはそろそろと箸を伸ばす。
「いっぱい食べてね」
鬼はサチの隣に腰を下ろし、座している人たちと同様に笑っている。
その笑顔を盗み見ながら、外見ほど怖くはないのかもしれないとサチは考え始めていた。
「俺はね、セキって言うんだ。ずっとここに住んでる。君は? どこから来たの?」
「サチです。あの、セキさん、一つ聞きたいんですが、ここってどこでしょう」
サチの質問にセキは目を丸くした。
「どこって……。もしかして君、迷い込んじゃったの?」
「そうみたいです。私でもわからないうちに、急にこの辺を歩いてて」
自分の状況を口にした途端、サチは自分の目の前が暗くなったように感じた。
(……どうしよう)
山道を歩いているさなかに何度も思ったことだった。
路頭に迷うとはこういうことを言うのだろう。
つい数時間ほど前までは見知った場所にいたはずなのに、気がついたら急に山道を歩いていた。
その前に何かをしていた気もするが、それが何であったかはどうしてか思い出せない。
(携帯電話もどこかに行っちゃったしな)
諦念とも何ともつかない暗い感情に、サチはため息をつく。
サチにつられてか、セキもじっと考え込んでいた。
「そっか、迷子だったんだ……。家族が心配するだろうね。どうしよう。とりあえず明日、明るくなったら山を下りる道を教えようか」
「ありがとうございます、助かります」
携帯電話がなくても、山さえ下りれば人に道を聞くなり、家族に連絡するなりでどうにかなるかもしれない。
(何で山道で迷ってたのかはわからないけど)
とりあえず、明日になれば何とかなるだろうという気がして、サチはほっと息をついた。
「みんな、紹介するよ。この子、サチね。今日一日だけこの宴に参加するから、仲よくしてあげてね」
セキがサチを紹介する。
全員の笑顔を見渡しながら、サチは軽く会釈をした。
宴の後、サチには広い板敷の部屋が与えられた。
「ごめんね。女の子泊めたことがなくて……。えっと、あ、何なら俺、外で寝ようか」
「いやいやいや、そんなことしなくていいです」
やたらと気をまわすセキに、サチは苦笑する。
同時に、この家の主が優しい人柄でよかったとほっとしていた。
「廊下の突き当たりに、風呂あるから使ってね。俺は朝に入るから」
「何か、すみません」
「いいよいいよ。お客さん久しぶりだし嬉しいんだ。それじゃ、ゆっくり休んでね」
「ありがとうございます」
セキが襖を閉める。
メガネを外し、傍の机に置いた途端、どっと疲れが襲ってきて、サチは布団に倒れこんだ。
(お日様のにおいがするな……)
いつもとは違う寝床。今日の出来事が走馬灯のように駆け巡ってきた。
気づいたら山道を歩いていた。
山道の途中で見つけた家を訪ねてみたら、鬼が出てきた。
宴に誘われて、ご飯を食べて、今に至る。
(もうどうなってるのか何がなんなのかわからない……)
気づいたら山道で迷っていた部分からしてサチには理解不能だった。
山道で迷う前に何をしていたのか、思い出せない。どうしてこうなってしまったのだろうか。
何度自問自答しても、答えは見出せそうにない。
とりあえず、明日になれば何らかの改善が見られるだろうということだけがかろうじてわかる状態だ。
(セキさんってやっぱり、鬼なんだよね? というか、鬼って実在するの……?)
その鬼と会話をし、接して、宴を行ってさえ先ほどまであまり疑問を抱いていなかった自分自身が不可解で仕方なかった。
気になり始めるといくつもいくつも疑問がわきあがってくる。
(内面は鬼ってわけじゃなさそうだったけど)
セキの角は飾り物というわけでもなさそうだったし、何より姿かたちがおとぎ話で見た鬼そのものだった。
しかし、少なくとも外見以外に恐ろしい部分は見受けられない。
それどころか、見ず知らずの人間を泊めてくれるような優しい人である。
(考えてもわからない……。もう、考えない方がいいかな。迷い込んだってだけだし)
明日になり、山さえ下りればもう考えなくてもよくなる問題だ。
それどころか、今の状況が夢である可能性も考えられる。
サチは無理やり結論づけると、風呂へ向かうことにした。
ひたりひたりと、忍ぶような足音。
セキは煌々と照る月を見つめながら、宴を開いていた広間へと向かう。
襖を開けて、残された料理を片付けはじめた。
「迷子なんだって。小さいのに、かわいそうに」
まるで独り言のようにつぶやく。
「久しぶりに会話をした気がするなあ」
その口調はどこか自嘲めいている。
明かりの中に揺れる影に微笑みながら、セキは小さく息をついた。