茶を沸かして注ぎ、湯呑をセキに手渡す。
落ち着いたらしく、セキは小さく息をついた。
しばらくの沈黙の後、ぽつりぽつりと語り始める。
「俺はね。一人ぼっちがとても嫌いなんだ。でも、それと同じくらい、人が苦手なんだ」
「人が」
「サチは別だよ。……でもね、人が苦手で苦手で仕方なくて、それでも友達がほしくて」
「それで幻影を?」
「それだけじゃないんだ。昔は本当に、人を集めて宴をしてたんだ」
セキは訴えかけるような瞳でサチを見つめる。
続きを促すようにサチがうなずくと、セキはさびしそうに笑った。
「で、その、人ってどうやって集まってきたと思う? 俺なんかのところに」
「俺なんか、って」
自嘲するかのように笑うセキの表情が痛ましくて、サチは視線をさまよわせる。
答えが出せないサチの代わりに、セキが答えた。
「俺はね、遊びに来てくださいって看板を出してたんだ」
「なるほど、それで来てくれたんですね」
ぱっと明るい顔をするサチに、セキは首を振った。
「そう思うでしょ、違うんだ。知り合いの鬼がね、お金を払って連れてきてたんだよ」
「そんな」
「俺と仲良くしてやってくれって、心づけを。でも、お金は限りがあるから、お金がなくなった途端にふらっと消えちゃったんだ」
努めていつも通りにふるまっているらしかったが、セキの表情は複雑だった。
態度と表情のギャップに、サチはやるせなくなる。
セキは自分の中にたまっているものを全て押し出すかのように、話を続ける。
「それで怒った人間がたくさんこの家に押しかけてきて、喧嘩しちゃって、人食いなんて言われて。俺はそれから、人が苦手になっちゃった。まあ、押しかけられたおかげで、セイがお金を払ってたってことを知ったんだけど……」
「セイさん、ですか」
昨日聞いた、「青鬼」の名だった。心づけをしてまで人間を集めた、セキの友人。
サチはセキの目をじっと見つめる。悲しい、寂しいといった感情がないまぜになっているようだった。
(友達が、みんないなくなっちゃったってことなんだな)
集まってきた仮初の友人も、セイという本物の友人も、いなくなってしまった。
何もかもなくなってしまって、寂しいから、夜な夜な幻影を作り出して宴を開いている。
セキは毎日、賑やかで楽しい、夢のような宴を開いて楽しんでいるのだ。
(……)
悲しい人だと、サチは思った。
楽しかった想い出を、当時への未練へと変えてしまっているようにも見えて、もどかしい。
「何て馬鹿なことしたんだろうね。セイと二人でご飯食べてたら、それでよかったんじゃないかって、いまだに思う」
「馬鹿なことじゃないと思います。誰だって、一人は怖いから」
見知らぬ場所に一人放り出されたと気づいたとき、空恐ろしくなったのをサチもよく覚えていた。
幻影を作り出して宴を開くことは、悲しいけれど馬鹿ではない。
セキは頭を振って、また笑う。
「セイが居たのにね。気づかなかったのは、愚かだよ」
「気づかなかったのなら、心の中では一人だったんじゃないんですか」
「……」
「気づいたのなら、一人じゃなくなります」
そう断じるサチの目を、セキはじっと見つめる。
(未練、だよね)
消えてしまったセイと、楽しかった思い出の宴への未練が、ずっとセキの中でくすぶっている。
だからこそ毎日宴を開いて、幻影の中で過ごしていたのだろう。
「セキさん、明日の夕食は、二人で食べませんか」
サチは問いかける。
「え?」
「きっと、楽しいと思いますよ」
セキはあいまいな表情でうなずいた。
今回の料理は全て、サチが作ったものだった。
セキが手を貸していないのも、広間以外で夕食を取るのも、今までになかったことだった。
相対する席に座り、二人は顔を見合わせる。
「さあ、食べましょうか」
「うん。いただきます」
セキはどこか緊張しているように見えた。
戸惑いながらも箸を伸ばして、料理に口をつける。
「あ。おいしい」
「ありがとうございます。いつもお世話になっていますから、せめてと思って」
「サチはえらいねえ」
いつもの調子で会話をして、セキの緊張は幾許かほぐれたようだった。
ほっとしてサチは息をつく。
「昨日は……。俺の話、聞いてくれてありがとうね。本当は、内緒にしておきたかったんだ」
「私は知りたかったんです。宴の本当のことも、セキさんのことも」
そして、セイという存在のことも知りたかった。
親しく思っているからこそ、知っておきたかった。
「鬼だと知っていても、そういうことを言ってくれるんだね」
「私は鬼がどういう存在なのか、よくわかってないんです。元いた場所には、居なかったし」
「……いいことだよ」
セキはしみじみとうなずいた。
不思議そうに見つめるサチに、小さく笑ってみせる。
「色々、人とは違うから」
「……そう言えば初めに、時代なんて気づいたら変わるとかって」
聞きすぎかとは思ったが、サチはつい口に出していた。
セキは気にした風もなくうなずく。
「鬼は、場合によったらいつまでも存在し続けることができるからね」
(寿命が長いってことなのかな)
幻影を作り出せるような存在なのだから、寿命が人と違っていても不思議ではなかった。
サチは思いついたことを尋ねる。
「もし、私がいた時代に戻ったら、また会いに来てもいいですか」
「ん?」
「寿命が長いなら、そういうこともできるかなって思って。無理なら……」
「俺、すっごいおじいちゃんになってそうだなあ。よぼよぼでもいいなら、来てよ」
サチの言葉を遮って、セキは快活に笑う。
受け入れられたことがうれしくて、サチも笑った。
「探しますね、私」
「うん。探してね。よろしく」
軽くうなずいた後、セキは困ったような表情をした。
サチが首をかしげると、箸をおいてつぶやく。
「もう少し早く気づけばよかったなあ」
「何がですか?」
その問いには直接答えず、セキは首を振る。
「何だかね、怖かったんだ。夕食は広間でないと。……朝も昼も、サチと一緒にご飯食べてるのに、おかしいよね」
「おかしくないですよ」
あの宴は、セキの心のよりどころだったのかもしれない。
自分が楽しかった頃の思い出をそのままに再現できる空間。そんなものがあれば、誰だってそこに浸っていたくなる。
長い間一人でいたのだろうから、宴がセキの支えになっていて当然だ。
そう思うと、セキから楽しみを奪い取ってしまったようで、サチは心苦しくなった。
「でも」
セキの言葉にサチは顔を上げる。
「こうやって二人で食べても、楽しいんだね。お話しできるし」
心底からの言葉に聞こえた。
サチの心に、安堵にも喜びにも似た感情が生まれてくる。
感情をそのままにサチは提案した。
「じゃあ、これからは、二人で食べましょうか」
「うん。その方がいいなあ。何で気づかなかったんだろうねえ」
穏やかに会話は進む。
楽しく食事をしながら、ふと、サチはセイのことが気になった。
助けられる方法は、自分がふもとの町に下りるしかない。
(でも、盗み聞きしたなんて言えないからなあ。何か、いい方法はないかな……)
「……ごめんね」
「え?」
ぼんやりと考えていたせいか、セキの小さなつぶやきを聞きのがしてしまったようだった。
セキはいつも通り、にこにこと笑っていた。
「何でもないよ。明日も一緒にご飯を食べようって」
「はい。ぜひ」
セキは穏やかな表情のまま、サチに持ちかけた。
「あのね、サチ。一昨日のことなんだけど――」
一昨日と同じ野太い声が、家の前で響いた。
「いるか」
その声に返事はない。
代わりにがらりと戸が開いた。男は玄関に立つ人物を見下げると、不敵に笑う。
「鬼は逃げたか。まあいい、お前さえ連れて行けば文句は言われまい」
男の恐ろしい口調に、表情がこわばっている。
その様子を嘲笑しながら、男は家の中に再び目を光らせた。
セキの姿がないか、再確認しているようだった。
「見れば見るほど奇怪な格好だな。お前もあやかしの類だろう。早く来い」
素直に従い、家を出る。
男は目的の人間を連れて、ふもとの町への道を下って行った。
男の後ろに、高校の制服を着た若い娘がついて、山麓の町へと向かう。
セキは庭で二人の後姿を見つめながら、小さく息をついた。
何かを考え込んでいるようでもあった。
「セキさん、よかったんですか」
「何が?」
「セイさんのこと……」
「うん。大丈夫」
案外あっけない返事だった。
自分がとてつもなく大変なことをしてしまったような気がして、サチは言葉に詰まる。
セキの作り出した幻影と、男が歩く姿はもうすでに見えなくなっていた。
「今頃、どうしているでしょうね」
「何とかなってるんじゃないかな。あの幻影は、術を解かない限り消えたりしないから」
「そうですか……」
ただ、自分が守られるだけであったことに、サチは後ろめたさを覚えていた。
セキの友人はどうなってしまうのだろう。
セキが決めたこととはいえ、解決の糸口が見つからない。
「サチ、鬼がどうして鬼になるか、知ってる?」
「知らないです。生まれつき……ではないんですか?」
「違うんだ」
セキのトーンに、サチは違和感を覚えた。
いつもとどこか違う気がして、サチの胸がざわつき始める。
(どうして急に、こんな話を)
一昨日まで、セキ自らのことを話す機会はあまりなかったように思う。
心を開いてくれたのかとうれしい反面、サチは嫌な予感を覚えていた。
「鬼になる方法があるんですか?」
「あるよ。死してなおこの世に強い執着や未練のある人間が、鬼となるんだ」
「死して……」
口にして、言葉の重さにサチは愕然とした。
「セキさんは」
「うん」
どうやって問いかければいいのか、サチには分からなかった。
セキも、同じ方法で鬼になったのだろうか。
答えは一つしかないような気がしたが、サチに断じることはできなかった。
そんなサチの様子を見守りながら、セキは目を閉じてつぶやく。
何かを思い出しているようでもあった。
「俺はね、人と違う見た目で生まれたんだ。それで山に捨てられて、そこで鬼と出会った」
「……鬼と」
「それがセイだよ。生きる術を教えてくれた。ときおりはここに、様子を見に来てくれた」
セキは一呼吸おいて、はっきりと断じる。
「そして、友達になってくれた。ご飯も食べられて、友達もいる、とても素晴らしい人生だった」
「セキさん」
晴れ晴れとした表情を見て、サチは素直に尊敬の念を抱いた。
憑き物が落ちたような表情で笑う表情は、子供のようだった。
セキはもう、幻影と宴に興じることはないだろう。
「サチは昨日、寿命を聞いたね。俺の人間としての寿命はとうに尽きてる。あと残ってるのは、未練だけ」
今までは、その未練を幻影に変えていた。
だが、あくまでまやかしだから心が満たされなかったのだろうとサチは考える。
「じゃあ……。また、看板を立てて、宴を開きますか?」
「ううん」
セキははっきりと首を振る。
意外な返答に、サチは目を見開いた。
「俺もね。毎日楽しく宴をしたいから、もっと人と仲良くなりたいから、鬼になったんだと思ってた」
ざわざわと木々が鳴る。
サチはセキの言葉を待っていた。
「でも、サチと過ごしたことで、一緒にご飯を食べただけでこんなにもすっきりしてる。だから俺は、友達がたくさんほしかったんじゃなくて、一人でいいから大切な友達がほしかっただけなんだ」
サチはまっすぐにセキを見つめる。
いつもの笑顔がそこにあった。
「セイもきっと、未練がなくなったから消えたんじゃないかな。俺はそう思ってるよ」
セキの言葉は、すとんとサチの心に落ちてきた。
もうすでにセイが鬼でなくなっていると信じていたから、サチを守ってくれた。
その事実がひどくうれしかった。
「サチ、色々、ありがとう。気づけて、良かった。会えて良かったよ」
「お礼を言わなきゃいけないのは、私です。何から何まで世話してくれて、守ってくれて。お礼もまだし足りないのに」
本心を告げながら、サチはまるで今生の別れのようだと思っていた。
何故だか急に物悲しくなって、セキの顔をまっすぐに見られない。
「反対じゃないのかな。……最後に、お願いなんだけど」
「はい」
「俺の友達になって」
真正面から、真剣な表情で告げられた言葉。
驚愕と嬉しさがないまぜになったような気持ちで、サチの心臓はどきりとはねた。
自分だけではなかったとほっとして、サチは告げる。
「もうお友達じゃないですか」
「そっか。……そうだね」
セキは安堵しているようだった。
「ありがとう。もう何も、未練はないなあ」
五月晴れのような笑顔。
そのすがすがしさの向こうにあるものが見えたような気がして、サチは急に恐ろしくなった。
ひやりとしたものが体を通り抜けていく。
「セキさん、もしかして」
居なくなってしまう。
しかし本人にとっては正しい道なのかもしれないと思うと、次の言葉が出てこなかった。
ただ、もどかしいだけの感情に、サチは叫びだしそうになる。
「ありがとう、サチ」
言葉を声にする前に、サチの意識は遠のいていった。
「サチ、こんなところでどうしたの?」
「え?」
「あ、その本。懐かしい、小学校の授業でやったよね」
「ああ、うん」
そう答えながら、サチは視線をさまよわせた。
どうやら図書館にいるようだった、
確かに先ほどまで山中にいたはずなのに景色が変わってしまっている。
セキの姿もない。
(……何で)
恐ろしいほどに寂しかった。
頭がはっきりとしてくるにつれて、今までの出来事がぐるぐると頭中を駆け巡っていく。
今のは何だったのか、セキはどうなったのか、なぜここにいるのか、なぜあの場にいたのか。
疑問しか浮かんでこず、サチはひたすらに混乱していた。
「ぼーっとしてるけど、どうしたの?」
「ううん、何でも……」
「そう? 何か、サチがぼーっとしてるのなんて珍しいね。じゃ、私はそろそろ」
「うん、またね」
ほとんど無意識で返事をしながら、サチは大きく息を吸う。
古い本のにおいが肺へと入り込んできた。
(セキさんは?)
ただそれだけが不思議で、不安だった。
手元の本を見つめながら、じっと考え込む。
(……笑ってた)
未練はもうないと言っていた。
きっとあの家にもう一度向かったところで、セキはいないのだろう。
(……)
寂しさは次々とサチの胸に溢れてきていたが、不思議と悲しくはなかった。
ただ、言い表せられない感情と想い出だけが渦巻いて、他のことが考えられそうにない。
頭を整理して事実を受け止めてしまえば、処理しきれず全てが涙に変わってしまいそうだった。
(いつまでも、このことは覚えているだろうな)
まるで夢でさえあったかのような想い出と、大切な友人のことを、この先忘れることはないだろう。
閉館まで立ち上がれそうにない体を無理やりに動かして、サチはカウンターへと向かった。
もう一度、この本を読みたい気がした。