
ひなたは思いがけない発言をした。
「本日、迫田先生の機密情報をゲットしまし……お姉ちゃん?! お姉ちゃん、今滑りましたか?! 縁起の悪い!」
「……今滑ったら、本番で滑らないよ。ところでワックスをかけすぎじゃないのかな、この廊下」
「そんなことはないと思います! どこの喜劇ですか!」
「ひなたにつっこまれるなんて……」
「人生の終わりのような表情はやめてください! 私も案外鉄の心臓なのです!」
「……ガラスのハートじゃないならいいじゃない」
あかりは立ち上がると、居ずまいを正す。
先ほど、ひなたから予想もしていない言葉が発せられたような気がしていた。
「何、機密情報って、どういうこと」
「お姉ちゃん、落ち着いてください。うちの学校の迫田先生です。私がファンクラブ会長をやっている方です」
「……落ち着いてるよ」
迫田に会う機会が減ったせいもあるだろうが、随分と、あかりは「迫田」というワードに敏感になっているようだった。
ひなたはにやりと不敵に笑う。
「どうやら、こっちの迫田先生とそっちの迫田先生、ご兄弟のようですよ」
「嘘」
「私の情報は確かです」
得意げなひなたの表情に、あかりは複雑な心境だった。
予感がないわけではなかった。
(……姉妹で、兄弟を、か)
ただ積もっていく想いを持て余し、あかりは卒業式に想いを馳せる。
心の中で確かになりつつあるこの感情は、伝えるべきなのだろうか。
「ああ、でもやはりこういうところは姉妹なのですね。同じ遺伝子を持つ男性を好きになるとは」
「やめて」
自分の口から滑り出た言葉に、あかりははっと口を押さえる。
ひなたが驚いた表情をしていた。
「ごめん、何でもない」
「そうですか」
(迫田先生、私より年上の娘さんもいるのに)
迫田を好ましくは思う。
心の中にある感情は、憧れにも恋にも似ている。
「やっぱりさ、先生に抱くべき感情ではないよね」
「そう……ですか」
ひなたがしゅんと落ち込んだようだった。
あかりはあわてて言いつくろう。
「私が思うだけだから。別に、ひなたが好きな分には、いいんじゃないかな」
「私の好きは、ファンとしての好きです」
「それなら、良いじゃない。胸張って」
「はい!」
元気に笑うひなたを少しうらやましく思った。
(好きだけど)
あの夕焼けの図書室で、迫田に見守られながら本を読んでいたいとは思う。
できることなら、卒業などせずに、ずっとあの空間にいたい。
迫田の傍にいたいと思う。
(メールしたいとか、付き合いたいとか、そんなんじゃないんだ、そんなんじゃ……)
一緒にいると心地よくて、あの場所が、迫田が大好きだから、これからも一緒にいたい。それが心からの願いであった。
ただ、それを告げるべきなのかどうか、あかりには判断がつかなかった。
卒業まで、さほど日はなかった。
夕暮れの図書室で、あかりは本を読んでいた。
今日は、他の生徒は誰もいない。
立ち上がると、いつものようにカウンターへ向かう。
眼鏡の奥の優しい目。いつものように笑う、白髪交じりの男性。
彼はカウンターの前に立って、あかりを待ってくれているようだった。
「迫田先生」
初めて名を呼んだ気がした。
「はい。借りて帰りますか?」
あかりが何も持っていないにも関わらずそう聞いてきたのは、明日もこの時間が続けばいいと思ってくれているからだろうか。
そうであれば嬉しいと思いながら、あかりは首を振る。
「今日で卒業ですから、借りられません」
「いつ返しに来てもらってもかまわないですよ。待っていますから」
冗談めかす迫田。
あかりの鞄の中には、卒業アルバムと、卒業証書くらいしか入っていない。
「ありがとうございます。……ありがとうございました、今まで」
「こちらこそ、色んな話を聞いてくれてありがとうございました。卒業、おめでとうございます」
丁寧に話す迫田に、どこかよそよそしさを感じる。
だが、もうこの学校の生徒でないのだから当然かもしれないと思い直し、あかりは窓の外に顔を向ける。
(……)
結子は、図書室に行くようあかりをけしかけて帰って行った。
彼女が何を期待しているのかも、自分に告げるべきことがあるのも、分かっていた。
「先生」
「はい」
(ずっと、大好きでした)
そう告げることができれば、いくらか自分の気持ちは楽になるのかもしれない。
だが目の前に立つとどうしてもためらいがあって、感謝の言葉だけを先に押し出す。
「先生と、出会うことができて良かったと思っています」
「僕もです。君のような生徒とは、もう出会えないかもしれませんね」
「……先生のおかげで、ちゃんと友達ができて、喧嘩もできました。何より、高校の思い出ができたし、人とちゃんと関われるようになったと思います」
「僕は何もしていませんよ。君が、僕の話を素直に聞いてくれて、受け入れてくれたから」
「それでも、ありがとうございました」
迫田に出会わなければ、高校の思い出などないままだったかもしれない。
ただすべてを受け流して、人と関わらずに、何もせずに時間だけが過ぎて行ってしまっていただろう。
少しでも、変われてよかったと思う。
(叶うなら)
もしも、甘えることが許されるのであれば、この空間にずっといたいとさえ思う。
だが同時に、卒業と当時に手放すべきだとも思っていた。
言いようのない寂しさとむなしさだけが、胸の奥から押し寄せてくる。
「……他には、何か言っておくことはありませんか」
「……」
迫田の影に目を落としながら、これが最後なのだとあかりは考えていた。
好意が見透かされているのはうすうす分かっていた。
だからこそ口にするのが恐ろしくて、あかりは黙り込む。
「僕は、君に言っておくことがあります」
「はい」
あかりが顔を上げると、迫田の寂しそうな笑顔があった。
「初めは、興味をひかれたんです」
「興味?」
「ええ。何だかずいぶんと、気を張って警戒しているようだったから」
「……私が、ですか」
そう聞き返しながら、あかりは出会った頃のことを思い返す。
迫田はゆっくりとうなずいた。
「怯えていて、寂しいのに、そのことには自分でも気づいていないように見えました」
初めは、一人の時間がほしいだけだったが、それはもしかしたら、とても寂しいことだったのかもしれない。
ただ、周りと関わろうとしないで怯えて、より周りと距離を取るという悪循環。
(私、不器用になったんだと思っていたけど)
人と関わろうとしなかった頃の方が、より不器用だったのだろう。
「気づかずに、何層にも壁を張って、一人でいることを選択しているんだと言わんばかりに警戒していたから気になって。少し、壁を揺らしてみようかと思ったんです」
あの日、迫田に話しかけられなければ、手伝いを求められなければ、短編集を借りなければどうなっていただろう。
少なくとも、こんなに満ち足りた生活は送れなかったかもしれない。
「もう教員ではないのだから、そんなことをする必要はなかったかもしれません。僕も、普段ならしていない。……金谷さんだけですよ、僕がこんなに構うのは」
「どうしてですか」
いたずらっぽく笑う迫田に、あかりは問いかける。
迫田は静かに首を振った。
「分かりません。ただ、もしかしたら、ずっとずっと前から気になっていたのかもしれませんね。君は他の子たちよりもずいぶんと落ち着いて見えたから」
「そうでしょうか」
「そうですよ。そんな君が懸命に、僕の言葉で不器用に変わっていく姿がいじらしくて、仕方がありませんでした」
恋情の告白にも似た言葉に、体が熱を持つ。
睫毛を伏せ、慈愛に満ちた表情で語る迫田から、目が離せなかった。
「娘のような存在として見ていたはずだったのに、いつしか、君を支えて、見守ってあげたくなっていた」
優しい声が、耳に心地よかった。
「どうか今度からは、図書室ではない場所で一緒にいられたらと思うようになった」
まるで情景を記録しようとするかのように、あかりの目は見開かれていた。
驚くばかりのあかりを見て、迫田は笑う。
「僕はこれからも、君と一緒にいたいと思っています。君は、どうですか」
「……」
「やはり、無理でしょうか。僕は年も離れているし、難しいかな」
笑顔が寂しそうに見えて、あかりは首を振った。
願ってもない言葉だった。
「そんなことありません。一緒に、いたいと思っています」
ぽんと、頭に手を置かれる。
髪を柔らかくなでられて、あかりは自分の顔が真っ赤になるのを自覚した。
「……よくできました」
迫田の目は真剣だった。
全身がくすぐったい。
「そういうの、言っちゃダメだと思っていて」
「こちらこそ、言わせてしまって申し訳ない」
大きな手のひらの感触が、心地よかった。
しばらくして、迫田が手をどける。
「連絡先、教えておきましょう。君はもう生徒ではないから、僕も手は抜かない」
(手……?)
「あれ、やっぱりそこは冷たいんだね」
くすくすと、本当におかしそうに迫田は笑う。
彼の笑顔は、ずいぶんと若いように見えた。
(今の、どう答えるのが正解だったんだろう)
「待ちましょう。そのあたりが理解できるまでは、いつまでも」
首をかしげるあかりに、迫田は瞳を閉じてうなずく。
夕焼けの図書室は、やがて闇へと染まって行った。