top of page

続:そのアップルパイは野菜であるか

 来店ベルを鳴らし喫茶店の扉を開けた瑞樹は、店主がいつものカウンターの向こうにいないことに気づいて少し戸惑った。
「こんにちは……」
「いらっしゃいませ」
 瑞樹の戸惑い気味の声を聞き慌てたように、入り口にほど近いテーブル席から店主たる川原義弘がガタガタと立ち上がる。
「ごめんごめん、瑞樹ちゃん。ほら後藤、お客さん来たから……」
「俺も客だろうが。お前、負けそうだからって」
 聞き慣れない声に瑞樹が川原の向こうを覗き込むと、明るい髪の色をした、強気そうな目の男性が座っていた。
 瑞樹は少し怯みながらも、テーブルの上にある絵札が気になり、川原に問う。
「ねえおじさん、これ何? きれいなトランプ」
「ははは、そうか。今の子、花札って分かんねえよなあ」
 後藤と呼ばれた壮年の男性は話好きらしい。
 強面からは想像できないくらいにこにこと笑うので、瑞樹は警戒を解きながら二人に近づく。
 机の上に並べられた絵札がどういうものなのかはわからなかったが、ただその絵柄は新鮮に映った。
「これが『花札』なんだ。名前は聞いたことある。和柄で可愛い」
「そうかそうか。……おじさんたちが子供の頃、ちょっと流行ったんだよ。ほら。ゲーム会社の南天堂あるだろ。あそこも元々は花札作ってたんだぜ――」
 後藤が話すのを、川原は少しそわそわしながら聞いている。
 その表情には、何かまずいことにならないだろうかという不安が浮かんでいるようだった。
 会話に割り込むようにして、川原は席を勧める。
「瑞樹ちゃん、お好きな席にどうぞ。注文何にする? アップルパイと紅茶?」
「うん。お願いします」
 川原がオーダーを通しに厨房へ向かう間、瑞樹は先ほどまで彼が座っていた、後藤と差し向かいの席に腰を掛けた。
 後藤は吸いさしの煙草を灰皿に押し付けながら、にこにこと笑う。
「瑞樹ちゃん、いくつ?」
「今年十七歳になるよ」
「へえ、おじさんの娘と同い年くらいだな。高校生だろう。学校は? 今日休みなの?」
 気さくにずけずけと聞いている後藤に割り込むようにして、川原は慌てた声を出す。
「おい、あまり――」
「私、悪い子なの。不良娘なの。不良娘だから、学校行ってないんだ」
「瑞樹ちゃん」
「だってお父さんいつも言ってるもん」
 川原の静止を聞かず、瑞樹はあえて朗らかに答えた。
 高校に馴染めなくて、現在通っていないのは事実だ。だから今、学ぶ場所も学ぶべきことも色々探している。
 探しているけれど、それは不良のすることなのだと、事実、父は言っていた。
 後藤は少し目を瞠った後、大げさに笑う。
「あはは! 不良娘か、不良娘! 面白いな!」
「お前なあ」
 川原は少し怒っているようだったが、瑞樹は後藤が自分の聞きたいことを真っすぐに聞いてくるのに、悪い気持ちはしなかった。
 否定するような口調ではなく純粋な好奇心のようであったし、何より後藤の吊り目の奥が、優しそうな光を湛えていることに気づいていたこともある。
「いいじゃねえか、不良ならお前も仲間だろ」
「俺のどこが不良やねん、真っ当な自営業やないか」
 後藤の口調が柔らかいからか、川原も少し安心したような表情で息をついた。後藤は川原を見て意味ありげに笑う。
「なあ瑞樹ちゃん。こいつの不良話聞くか? 面白いぞー」
「聞くー」
「いらんこと吹き込まんと早よ帰れや、もうー」
 付き合っていられない、というように川原はカウンターへ戻って行く。
 外に他の客の影が見えたこともあった。
 誰も聞いていないことを確認してから、後藤は微苦笑を浮かべ諭すように声をかける。
「なあ瑞樹ちゃんよ。不良娘なんて自称しちゃいけないぞ」
 そして、「まあそもそも、不良娘に見えないけどな」と付け足した。
 紅茶とアップルパイが運ばれてきた。ありがとうございます、と丁寧に礼をする瑞樹の仕草を後藤はじっと見つめている。
 いただきますの前に、瑞樹はその優しい目に問いかけた。
「何で言っちゃいけないの?」
「世の中には悪いおじさんがいるからだよ」
「でも、『パパ』はいつも私を不良だって言うよ。不良品だって。手間隙かけたのに学校辞めたから、出荷できないから、悲しいって」
 瑞樹が慣れない『パパ』という呼称を使ったのはわざとだった。
 自分のことを分かっていない恨みから、愚痴がつい口から零れていたのだと瑞樹自身も分っていた。
 本来初対面の人に言うべきことでもないが、しかし後藤の雰囲気は、つい本音を言いだしたくなるようなものであった。
「はははは。出荷、出荷かあ」
「野菜に例えられちゃうの。お父さんは農家さん。農家さんだったら普通、いつも家にいるけどね」
 瑞樹はここぞとばかり不満を噴出させる。後藤は快活に笑った後、一瞬だけ困ったような顔を見せ、そしてまたにっこりと笑う。
「良いことを教えてやるよ。瑞樹ちゃん。君のパパは人間なんだ」
「知ってるよ」
 何を当たり前なことを言っているんだという瑞樹の態度に、後藤は首を振る。
「いや。まだ君は知らない。……例えば瑞樹ちゃんは、俺を何だと思う」
「おじさんのお友だちの、……悪いおじさん?」
「そうだ。そして昔は悪い大学生でもあったし、君と同じように昔は高校生でもあった。そんなひとりの人間だ」
「うん……」
「君のパパも、俺と同じように、君と同じように、悩んだり悪いことをしたりしながら、育ってきたひとりの『人間』だ。初めから『パパ』であったわけじゃない。人間だ、神でもない」
「……」
 後藤の言うことはまだ瑞樹には理解しがたかった。
 しかし、何か瑞樹を励まそうとしているのだろうということだけは伝わってきて、そしてありがたかった。
「君にとってみればパパの言う『不良品』という言葉は重大なものかもしれない。それは『パパ』だと思うから余計だね。しかし俺にとっては笑えてしまうような言葉なんだよ。だって他人の一個人だからね。いいかいこれは重要なことだ、君にとっての『パパ』はおじさんにとっての他人だ。君の『パパ』は何も、絶対的な存在ではない、一個人なんだという視点を持つこと、これは大事だよ」
「うん……」
 そこまで言われて初めて瑞樹は、自らが父に言われた出荷の例えに拘泥しているように見えるらしいことに気づいた。
 冗談に使ってしまうほど、呆れ返っていたし、何とも思っていないと瑞樹自身は思っていたが、きっと他人である後藤にとっては瑞樹がその言葉に捉われているように見えたのだろう。
(……もしかしたら、そうなのかな)
 冷静なつもりでいた。
 しかし、じゃあ何とも思っていないのであれば、何で忘れもしないまま何度も冗談に使い続けているのかという理由の説明はできそうになかった。
 後藤は続ける。
「きっと君のパパは俺より年下だろう。だから分かる。『父親』ぶろうとして空回ってしまったんだろうなあと思う。それが君にどんな意味を持つか考えず、傷つけたんだろう」
「そうなのかな」
 人間だから失敗もするんだということを後藤は遠回しに言いたいのだろう。
 きっとそうだと予想はついたが、瑞樹にとってやはり父は『父親』たる存在だったから、自分に対して失敗したのならそれを許せないという気持ちも少しあった。
 父親の癖に、人生経験豊富なくせに、社会に出て働いてるくせに、何で間違うんだ。迷惑だから、子育てで失敗してほしくない、とも思った。
 何より後藤のように、達観して許せるようになるには、瑞樹はまだ幼くもあった。
 それすら全て見透かしているように、後藤は告げる。アップルパイはそろそろなくなりそうだった。
「俺が今言ったことは、あくまで一個人の一意見にしか過ぎない。正しいかどうかもわからない。そして瑞樹ちゃんが俺の意見を聞くべきタイミングは今なのかどうか、それすらもわからない。ただ、俺の年代からはそう見えるというだけだ。俺には俺の、十七歳には十七歳の見え方があって、どちらがいい、悪いもない。年を食ってるからって全て正しいわけでも偉いわけでもない。花札を知ってりゃ偉いのか、今どきの南天堂のゲームを知ってりゃ偉いのか、そんなの誰にも決められないだろう」
「うん、うん」
 後藤の言ったことの全ては難しかったが、最後に言われた言葉はすっと心の中に入ってくるようだった。
 何より、年上の見え方が全て正しいと言われず瑞樹の見え方があると言ってくれたことは、嬉しくもあった。自らは野菜ではないと主張できた気がした。
(お父さんにはお父さんの、見え方があるのかな)
 ふとそんな言葉が浮かんだが、あんまり思いやりたくもなくて、瑞樹はそれをすぐに頭から追いやる。
 色々ありがとうございましたと頭を下げた瑞樹に、後藤は「そもそも不良娘じゃないじゃない」と言ってまた笑った。

 後藤の帰った後、川原は心配そうに瑞樹に言った。
「ごめんな瑞樹ちゃん、二人にしてもて」
「今日は繁盛だったね」
「いーつーも。いつも繁盛してるで。けど、何や呟きサイトで紹介されたみたいやわ」
 少し疲れの見える川原いわく、ケーキメニューが豊富でなおかつ美味しい、そして雰囲気のいい喫茶店として紹介されたらしい。
「しばらくは混み合うかもしれんな」
「そっかあ。後藤さんにはしばらく会えないね。花札も教えてもらったけど」
「会わんでよろしい。……まあ、悪いやつではないけどな」
「うん。良い人だった」
「……そう断言するのもどうなんかな……」
 そう言いながらも表情に信頼を映している川原の目にはきっと、後藤はいい友人として映っているのだろう。
 瑞樹の目には、後藤は頼れる人生の先輩のように映った。
 きっと色んな人の目に映る世界も人もそれぞれ違うのだろう、今日はそれだけ覚えて帰ろう。
 ――瑞樹のことが野菜に見えた父は、ともかくとして。
 少しおかしくなってひっそり笑うと、瑞樹は帰り支度を始めた。

bottom of page