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 ちひろちゃんは、黄色いハンカチの上にたんぽぽの綿毛をたくさん乗せて、お天気屋さんごっこをしていました。
「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。お天気屋さんですよ。今日は雲が大安売りです」
 春のぽかぽかした日のこと。
 たんぽぽの綿毛の『雲』が、今日はたくさん手に入ったのでした。
「おや、こんにちは」
「こんにちは!」
 やってきたのは、黒い服を着たお兄さんでした。
 お兄さんはしゃがみ込んで品物をじっと見ると、満足そうにうなずきました。
「お天気屋さん、雲を一つくださいな」
「はい、どうぞ!」
 ちひろちゃんは元気よく、綿毛の雲をひとすくい、お兄さんに渡しました。
 お兄さんはにっこり笑います。
「ありがとう。お代はいくら?」
「うーん、うーん。お兄さんは初めてのお客さんだから、ゼロ円です!」
 ちひろちゃんはいつも一人でお店屋さんごっこをしていたので、お兄さんが初めてのお客さんでした。
 その初めてのお客さんが、とても素敵な笑顔のお兄さんだったので、ついついおまけしてしまったのです。
 何よりほんとうにお金をもらってしまっては、きっとパパに怒られてしまうでしょう。
 そう思ったちひろちゃんですが、不思議なお兄さんは首を横に振りました。
「こんなに良いものをもらって、それはいけないな。……そうだ。お兄さんもお天気屋さんなんだ。ここはひとつ、品物を交換するのはどうだい」
「うん! いいよ!」
 お兄さんも綿毛の雲を売っているのだろうと思ったちひろちゃんは手を出しましたが、どういう手品でしょう、お兄さんは手の平から、本当に真っ白な、ふわふわの雲を取り出したのです。
 そうして宙にふわふわ浮いた雲を、ちひろちゃんの小さな手に握らせてくれるのでした。
「わあ、本物の雲だ!」
「気に入ってくれたかな」
 その白い雲はするすると手の中を抜け出して、むくむくと大きくなったかと思うと、あっという間にちひろちゃんの乗れる大きさになりました。
 お兄さんは白い雲が飛ばないように、抑えてくれます。
「これに乗れば、お空の散歩も簡単だ。降りるときはお日様に向って、『下ろしてください』と言うんだよ」
「お兄さん、ありがとう」
「どういたしまして」
 ちひろちゃんが早速雲に乗ってみると、ふんわりと浮き上がり始めました。
 どんどんと地面が遠くなり、不思議なお兄さんがちひろちゃんに手を振っているのが、もうあんなにも小さく見えます。
「すごい、すごい! お兄さん、ありがとう!」
 ちひろちゃんはもう一度お礼を言うと、空の散歩に出かけました。

 夕方の空はとてもうつくしく、そして空から見る町はいつもと違って、新鮮に映りました。
 そうして散歩を楽しんでいると、いじわるカラスがちひろちゃんを追いかけてきました。
「あー、あー、泣き虫ちひろー。一人ぼっちのちひろー。お前のママも泣き虫だー」
「うるさい、うるさい。いじわるカラスなんか、怖くないもん!」
 いつもならカラスから逃げているちひろちゃんですが、今日はとっても素敵な贈り物をもらいましたので、カラスの真っ黒な羽も怖くありません。
「へっ、そうかー。かー」
 カラスはつまらなさそうに、どこかへ飛んでいきました。
 ちひろちゃんはお空のお散歩を充分に楽しむと、夕方のお日様にお願いして、おうちの前におろしていもらいました。
 もう一度お兄さんに会って、お空で見たものを教えてあげたいと思いましたが、あんなに素敵なお兄さんだったのに、その顔を思い出そうとするとどういうわけか、まるで雲のかかったように思い出せなくなってしまいました。
 不思議に思いながらもちひろちゃんがおうちに入ると、ちひろちゃんのママはいつもの通り、目を真っ赤に腫らしていました。
 ちひろちゃんのママはいつも、パパが帰ってきたあと一人で泣いていることをちひろちゃんは知っていました。
「ちひろ、お帰りなさい」
 それでもママは、いつも笑ってちひろちゃんを迎えてくれるので、ちひろちゃんはママのことがとてもとても大好きでした。
「今日はね、お天気屋さんごっこをしたの」
 ちひろちゃんはママに今日のことを教えてあげます。
「そうなの。楽しかった?」
「うん。雲がひとすくい売れたから、お空のお散歩をしてきたの」
「まあすてき。また今度、ママにも一つ売ってちょうだいね。さあ、ちひろの好きなハンバーグを買ってきたから、一緒に食べましょう」
「やったあ」
 ちひろちゃんは喜びながら、本当はママの作ったハンバーグが一番好きなことを内緒にしていました。

 その次の次の日は雨でしたが、ママがきれいな空きびんを一つくれたので、ちひろちゃんはお天気屋さんごっこをすることにしました。
 雨粒を瓶に溜めて、雨のもとを作るのです。
「お天気屋さんですよ。おひとついかがですかー」
 黄色い傘と、緑色のカッパ。
 青色のタオルの上に雨の瓶を並べていると、この間の不思議なお兄さんが黒い傘を差し差しやってきました。
「お一つくださいな」
「あ! お兄さん」
「やあ、久しぶり」
 お兄さんは優しそうな顔です。ちひろちゃんはお兄さんの顔を忘れてしまっていたので、この顔をきっと覚えていようと思いました。
「この間はありがとう。おかげで良い雲を作れたよ」
「どういたしまして」
「ところで、その雨の瓶、ぼくに売ってくれないかな」
「はい、どうぞ!」
 ちひろちゃんはこの間のお礼も兼ねて、雨の瓶はプレゼントするつもりでしたが、お兄さんはやっぱり首を横に振ります。
「こんな良いもの、ただでもらうわけにいかないよ。代わりと言っては何だけど、『雨の音』をもらってくれないか」
「……いいの?」
 なんだか自分ばかり良い思いをしている気がして、ちひろちゃんは聞きました。
 お兄さんはにっこり笑って頷きます。
「もちろんさ。こんなにすてきな雨の瓶があれば、世界中に雨を降らせることができる。……ぼくのあげた雨の音は、眠れないママにあげると良いよ」
 ちひろちゃんは、お兄さんと握手した自分の手の中から小さな雨の音がすることに驚いていました。
 そうして手に耳を近づけたり、また離したりしているうちに、お兄さんはぺこりと頭を下げて去っていきました。
 ちひろちゃんは、もらった雨の音をママの枕の下に隠すことにしました。

 次の日、ちひろちゃんはママのやさしい声で目が覚めました。
「ちひろちゃん、おはよう」
「ママ、おはよう」
 ママは何だかいつもよりきれいで、久しぶりにお化粧をしているようでした。
 目の周りも昨日より、すっきりしているようです。
「昨日は、とてもよく眠れたのよ」
 台所からは、何だかいい匂いがします。
 ママが久しぶりにお料理を作ってくれたのだと気づいて、ちひろちゃんは飛び上がりたいくらい喜びました。
「ちひろちゃん、今日はとてもいい天気よ。ピクニックにお出かけしましょう」
 ママが作ってくれていたのは、お弁当だったのです。
 ちひろちゃんはさっそくピクニックの準備のお手伝いをして、ママと一緒にお出かけしました。

 お出かけ先は、小高い丘の上にある原っぱでした。
 赤いレジャーシートを敷いて、ママとちひろちゃんはお弁当を食べていました。
 ちひろちゃんの大好きなハンバーグもあります。久しぶりに食べたママの料理のおいしいこと! ちひろちゃんはここが夢の世界ではないのかと思うくらいでした。
 お腹がいっぱいになったちひろちゃんが辺りを探検していると、原っぱの中に赤いレンガの石があるのに気づきました。
 ちひろちゃんはこの間、ママにお天気を一つ売る約束をしていたことを思い出したので、さっそく拾い上げるとお天気屋さんごっこを始めることにしました。
 それに何となく、このすてきな太陽を売っていれば、あのお兄さんに会えるような気もしましたし、三人で遊べばずっと楽しいだろうとも思ったのです。
「お天気屋さんですよ。仕入れたばかりの太陽です。太陽はいかがですか」
「まあすてきなお天気屋さん」
「お一つ、くださいな」
 ママに褒められて得意になっていたちひろちゃんの耳に飛び込んできたのは、何と、いつものお兄さんの声でした。
「お兄さん」
「どなたです」
 急に、どこからともなく現れたお兄さんにママは大変驚いて、ちひろちゃんを背に隠すようにして庇いました。
 少し怒ったようなママの声。ちひろちゃんがお兄さんのことを説明しようとする前に、お兄さんはにっこり笑い、名刺を取り出しました。
「私は、お嬢さんと同じ『お天気屋さん』です。お嬢さんには、いくつか品物を買わせていただきました。ところでお母さま。あなたは昨晩、雨の夜の夢を見ませんでしたか。私のような男に、行き先を示される夢を見ませんでしたか」
「どうして、それを」
 ママは怯えたような顔で、ただなすがままに名刺を受け取って、そしてそれ以上、言葉が出ないようでした。
 お兄さんはにこにことした笑顔のまま、ちひろちゃんの売っていた赤いレンガの太陽を手に取って、眺めます。
「やあ、これはまことにすばらしい太陽だ。どうだい『お天気屋さん』、これも買わせてほしいのだけれど」
「うーん」
 本当はママに売るつもりの太陽でしたが、お兄さんは今まで買ったお天気を、全て代わりの品物に交換してくれています。
 そして、譲ってくれた品物はどれも、ちひろちゃんにとってすてきな出来事を運んでくれていました。
 もしお兄さんがまた、すてきな品物と交換してくれるなら、それをママに売ることにしようとちひろちゃんは決めました。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。さて、今日のお代はお日様の勇気のかけらだよ。熱いから、飲むときは少し気をつけてね」
「お兄さん、ありがとう」
「どういたしまして」
 ママの背に庇われながら、ちひろちゃんはお日様の勇気を受け取りました。
 きらきらと赤色に輝く、ガラスのような真ん丸な玉は、ほんのりと熱を持っています。
 ちひろちゃんがそのきらきらに目を奪われている間に、お兄さんはもういなくなっていました。
 そしてちひろちゃんは、これがお兄さんに会える最後のような気がしていました。
 張りつめていたママの背が、ほっと緩みます。ちひろちゃんがそっと顔を出すと、ママは難しい顔で何かを考えているようでした。
「ママ、どうしたの」
 そうっとちひろちゃんは声をかけます。
「ううん、何でもないわ――、ねえ、ちひろちゃん。いいえ、小さなお天気屋さん。ママにこの太陽の、勇気のかけらを半分、売ってくれないかしら」
「はい、どうぞ」
 ちひろちゃんは、初めの予定通りお天気屋さんごっこができましたので、満足でした。
「ありがとう。じゃあママは、何でもちひろちゃんがほしいものをあげるわ。何が欲しい?」
「うーん」
 ママからお代をもらうことを考えていなかったちひろちゃんは悩みましたが、ようやく思いついてにっこり笑いました。
「ママの、おいしいお料理!」
 ママは少し驚いたようでしたが「ええきっと」と約束してくれました。

 しばらくして、ちひろちゃんはママと一緒に今のおうちを離れることになりました。
 パパとは離れ離れになりますが、パパがママをいじめて泣かせていることをちひろちゃんは知っていたので、ちひろちゃんは文句もありませんでした。
 ママは、引っ越しの秘密を少しだけ教えてくれました。
「お天気屋さんの、太陽のかけらの半分を、すっかり飲んでしまったの。そしたら何だか、ちひろちゃんとの約束を守れるような気がしたのよ」
 季節が巡って、もう一度春になりました。ちひろちゃんは今、毎日ママのお料理を食べて過ごしています。
 カラスにバカにされても、きちんと言い返しています。その内に、お友達もできました。
「お天気屋さんですよ。今日は雲が大安売りです。赤い太陽のかけらも、雨の瓶もありますよ」
 それでも時々は、一人でお天気屋さんごっこをします。
 そうしていればいつかお兄さんが現れて、お天気屋さんの秘密を教えてくれるのではないかと、待ち望んでいるのです。

 

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