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心配になる話

 屁理屈学の権威たるA博士は彼のパトロンとの食事に喜び勇んで出掛けたはずであったが、四半刻もしないうち、そのつり上がった蛇のような目の横に青筋をたてながら帰ってきた。
 しきりに、失礼である、失礼であると言っているので、B君は却って、A博士がかのパトロンに重大なる無礼を働いてやしないかと不安になり、その外套を預かりながら問いかけた。
「どうされました、お早かったですね」
「あまりに無礼だったので帰ってきたのだ。約束をたがえたのだ」
 A博士は、B君が投げ掛けた小石のごとき質問に、波打つ湖面どころか流水のごとく答え始めた。
「聞いてくれたまえ。かのC氏は私に、あの私の気に入りの洋食屋へ連れていき馳走すると約束したのである」
「存じています」
 A博士の言う『洋食屋』がフランス料理店であり、鴨のステーキもワインも非常に美味でA博士が気に入っていることはB君も十二分に知りきっていた。
 だからこそ博士はいそいそと、最近仕立てたばかりのスーツで出掛けたのである。
「しかしついてみればそこは和食屋であった」
「はあ」
「前の洋食屋が潰れ、代わりに建った和食屋であるというならば何も私もC氏を責めはせず、その新たな出会いを歓迎し、与えられるであろう海産物に舌鼓を打ったに違いないよ。しかしだねB君、かの悪逆非道たる極悪紳士C氏はこう言うのだよ――」
「はあ」
 曖昧たる相づちをうちながら、B君は、C氏のその、金と好奇心とがあり余るばかりに少しいたずら心の過ぎた性格を思い浮かべていた。
「『A博士の胃も肉料理ばかりではお疲れになるでしょう、私も心配だ。きっと賢明たる助手のB君は貴方の命に背けず美食ばかり用意しているのでしょうしたまにはヘルシーにいきませんか』――、聞いたかねB君、C氏は私を騙すばかりでなくB君、君の実力までもをバカにしたのだよ」
「はあ」
 A博士の悪癖たる演説は続く。B君はC氏に謝罪の電話を掛けるための心がまえをしながら、その演説を途切れさせるつもりでもう一度小石のような言葉を投げた。
「Cさんは博士をご心配なさったのですね」
 ぴたと、面白いようにA博士の言葉が止まった。B君が今が機会とスマートフォンを取り出したのと同時に、A博士から再び言葉の氾濫が発生する。
「心配、心配。心配であるか。笑止千万である、いいかねB君。まだ話は終わっていないぞ。いや、良い機会であるから伝えておくとしよう。心配というのはだね、ひとえに心配する側の身勝手なのである」
「はあ――」
 B君は曖昧な相づちを打つと、取り出したスマートフォンを再び尻ポケットへ仕舞う。選ぶべき言葉を間違ったらしい。
 A博士の演説は、今日は長い。
「心配という言葉があるだろう。相手のことを思いやるという意味だね。ではその、心配をする心優しき紳士淑女の諸君は、果たしてどの程度相手の心を知っているだろうか? 私は一切知らぬと思う。何故なら人たるもの、心の底から素直に気持ちを表明することはまれであり、そしてその表明された気持ちさえも、本物であるかどうかは他人からはわからぬでないか。違うかね」
「はあ」
「無論、心配とやらをする紳士淑女諸君の心遣い、その心ばえの立派であることはいうまでもない。しかしだね、その『心配』が本当に相手のためになるのであろうか。例えなっていたとしてもそれを確かめるすべは皆無ではないか。そして心配された側からの謝辞でさえ、それが心の底からのものであるかなど、誰が確かめることができようか――、さすれば、心配とは紳士淑女諸君の自己満足に近いのではないかね――」
「はあ」
 B君が曖昧に頷きながら、この屁理屈の洪水を受け流し、ともかくC氏に電話を掛けられる方法を思案していると、折よく電話がかかってきた。
 相手は件のC氏である。
「博士、電話なので少し」
「うむ、うむ、出たまえ。私は洋食屋へ行く算段をつける」
 いつもの白衣へ着替えたA博士は、不機嫌そうに自室へと戻っていく。B君が電話に出ると、C氏は幾分の笑いを含んだ、茶目っ気ある言葉で謝罪を告げた。
「すまないねえB君、博士は大層お怒りだったろう――」
「はい、それはもう――、あっ。いいえ、そんなことは」
「はははは、素直でよろしい」
 C氏は快活に笑う。重大で大切なパトロンの機嫌を損ねてはいないらしいと安心しながら、今度はB君が謝罪を告げた。
「申し訳ありません、博士が勝手に帰ってしまったっようで」
「いやいや、それを狙ってのことだよ。一泡吹かせようと思ってね。狙い通りで何よりだ」
「はあ」
 半ば想像はしていたが、本人から言われると思っていなかった言葉に、B君は曖昧な相づちを返す。
「私が騙して『心配で』など言えばどのような弁舌が返ってくるか期待していたがね。残念ながら、聞く前に逃げられてしまったよ」
「……」
「ははは、その様子じゃ私の悪戯の一部始終を聞いたようだね。そして君も、私が冗談半分、本気半分でかの博士を心配していたと期待していたように見えるがどうかね、当たっているかね」
「ええ、まあ」
 C氏はその快活豪放な笑い声を再び電話口に響かせる。そして、「大人の『心配』など信用しないことだよ」と訓辞を与え、やがて二言三言言ってから、電話を切った。
「……」
 紳士淑女の心配は、自己満足であるか。
 そして大人の心配は、信用に足らぬものであるか。
 B君は切れた電話の画面を見つめながら、他人ではなく、A博士ともC氏とも親しい自らの、これからの身の上を心配していた。

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