雪と黒猫とチョコレート
雪の降る中、美織はチョコレートを買いに家を出た。
手作りも確かに良いのだが、包装も形も味も美しく、完成されたチョコレートは、百貨店でないと手に入らない。
「やあ美織。今年もチョコレートかい」
路地の塀からだらりと下がった尻尾。黒猫が眠たげな瞳で美織を見つめている
「ええそうなの」
美織は笑い、黒猫は尻尾を軽く振る。
二月十四日。毎年のこの習慣を、美織はただ自らの満足のために続けていた。
「そうかい。恋人はできたかい」
「いないわ」
「好きな人は」
「いないわ。これはね、私の自己満足なの」
「ぼくが思うに、君はそろそろ出会いを求めるべきじゃないのかな」
「お生憎さま」
物言う黒猫に苦笑を返し、美織は雪道を進んで行く。黒猫は自らの毛色にも似た、蝙蝠傘が遠ざかっていくのを見つめながら呟いた。
「寂しい娘だ」
濃いピンクとダークブラウンのツートンカラーに、品のいい金のリボンを掛けた、美しい小箱。
「ただいま」
これぞと思う品を携えて、美織は広い我が家に帰りつく。
雪を払った蝙蝠傘をたたみ、暖房をつけながら奥の部屋へ進むと微笑して、鞄からそっとチョコレートの小箱を取り出した。
「ああ、きれい。これならきっと満足ね」
ミルク、ナッツ、ストロベリー、プレーン、ビター、ホワイトチョコ。
素敵な小箱の中には、美しく作られた粒ぞろいのチョコレートが行儀よく収まっている。
昨年は豪華にザッハトルテ、一昨年は趣向を変えてウイスキーボトル型のチョコレート。
「今年はこれが一番きれいだったの。どうかしら」
美織が優しく見つめるその視線の先では、誠実そうな黒髪の男性が微笑んでいた。
問いながら、彼が一度たりとも美織の選んだものを拒んだことがないのも知っていた。
「あら、これが一番ですって? 喜んでもらえてうれしいわ」
木製の小さな写真立ての前に、美織は美しい小箱を丁寧に置く。
彼が不治の病で真っ白な髪になる前に撮った写真だから、美織の記憶に残る彼の最後の弱々しい姿とは大きく違う。
美織はこの、最も美しいチョコレートを買いに行く習慣を毎年、自らのためだけに続けている。
「恋人なんてとうにいないのに、かわいい黒猫だこと」
物言う黒猫とのやりとりを思い出して美織はくすくすと笑う。
彼女の恋人も、最も好きだった人も、もはやこの世のどこにも存在しないのだから、「いない」と言うのは間違いでない。
しんしんと降る雪。美織はふうと息をつき、その場に座りこむ。
やがて窓の外、真白の中に、黒く小さな影がちらりと見えたような気がして、はっとして窓を開けた。
暖めた部屋に冷気が流れ込んでくる。
「ぼくが思うに」
雪にまみれた黒猫がにゃあと鳴く。
「君はそろそろ出会いを求めるべきじゃないのかな」
「まあ、こんなに冷え切って」
美織はその、冷えた小さな体を窓から手を伸ばし抱き上げて、雪を払い落とす。
手近なブランケットでくるむと、ヒーターの傍にクッションを敷いて、そっと黒猫を下ろした。
美織がミルクを温めて用意しているうちにも、ブランケットの中から、にゃあにゃあと声がする。
「美織、出会いは人とのものだとは限らないさ」
「え、なあに?」
「例えばこの広すぎる家に、ぼくを飼うのもそう、一つの出会い方」
「まあ――」
「どうだい、悪くないだろう」
黒猫が瞳を細めた表情は、写真立ての中の彼にどこか似ていた。