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亡霊

 夜間警備アルバイトの時給は千三十円で、貴司には魅力的だった。
 しかも冷暖房完備の屋内だという。これは是非にもとすぐさま応募したところ、一回の面接であっさり受かり、翌週からの出勤となった。応募数自体が少なかったこともあり、体格の良い貴司はすぐ採用されたらしい。
「じゃあ今日は俺と一緒に巡回しようか」
「よろしくお願いします」
 研修の担当になった先輩スタッフは五十代半ばの穏やかな元サラリーマンで、丁寧に分かりやすく仕事を教えてくれる。
 他のスタッフも年配の男性が多く、貴司に辛く当たるようなのもいない。それどころかまるで自分の息子のように接してくれていた。
 いいアルバイト先を見つけたものだと思いながら貴司は先輩と共に初めての巡回に出た。

 真っ暗な館内には絵画や彫刻などが所狭しと並べられている。貴司は芸術には疎かったが、例えば空を描いたらしい風景画などは明るいところで見ればきっと美しいのだろうということくらいは分かったし、事実、懐中電灯の中に時折浮かぶ作品に、わくわくするような気持ちがあった。
 絵画の傍には説明書きなども添えてあるようだ。美術館などほとんど今まで訪れたこともなかったが、今度昼にここへ来るのもいいかもしれない、と貴司は考える。
「あれ、ここ一ヶ所抜けてませんか」
 しばらくして、ある一角が気になり貴司は首をかしげた。
 壁面に、ちょうど絵画一枚分だけのスペースが空いている。
「ああ。○市の大きな美術館へ行ったんだ。世に認められた芸術作品にはよくあることだよ」
「へえ、そうなんですね」
 より多くの人に見てもらうため、大きな美術館へ移動させたということだろうか。芸術の世界はよく知らないが、そんなこともあるのだろう。
 あまり深く考える性質でなかったのもあり、貴司は先輩の説明に納得して巡回に戻る。
 雑談を交わしながらも貴司たちが彫刻の展示されるゾーンに辿り着いたとき、先輩は暗闇に向けて挨拶した。
「あっ、こんばんは」
「こんばんは」
 人影らしきものが動いて返事をした。貴司は気づかなかったが、見れば確かに小さなオブジェの傍で誰かが佇んでいる。声からすると年配の男性のようだ。
「新人くんの研修です」
 先輩はのんびりした口調で貴司を紹介する。
「そりゃどうも、よろしくね」
 男性のような人影が頭を下げ挨拶したらしいのに合わせ、貴司も慌てて「よろしくお願いします」と頭を下げた。
 驚いて、どきどきしている心臓を鎮め巡回に戻りながら、貴司は考えた。彼はいったい、真っ暗な中で何をしているのだろう。
(ああ、もしかして。光を当ててはいけない美術品でもあるのだろうか)
 貴司は芸術に詳しくないから知らないだけで、もしかしたらそういったこともあるのかもしれない。
 ちらりと振り返ると、男性は未だにオブジェの傍で佇んでいるようだ。小さな声で先輩に問いかける。 
「今の方はどなたですか、美術商の方とか」
「いいや。お客さんだよ。鑑賞好きの」
「えっ。閉館してますよ」
「そうなんだよ。閉館してからいらっしゃるんだ。ああ、もし今後もお会いしたらご挨拶してね。気むずかしい方なんだけど、どうやら君は嫌われなかったみたいだし」
「はあ」
 閉館してから来る、嫌われてはまずい客。
 例えば経営者の知人であるとかで、特別に無料で作品を鑑賞しているというようなことだろうか。いや、そんな上客ならば電灯くらいつけてもいいのではないだろうか。やはり光を当ててはいけない芸術なのだろうか。深く考える性質ではない貴司も少し引っ掛かったが、疑問は飲み込んだ。
 芸術に造詣の深い人は、ともかく変わったことをしたがるものだというひねくれた先入観もあった。
 何より、先輩は変わらずのんびりと歩いている。ならば、これは当たり前のことなのだろう。
 館内には、先輩スタッフと貴司の足音だけが響いている。
 ただ、光を当ててはまずい作品があってはいけないだろうから、貴司はそれだけ質問することにした。
「光を当ててはいけない作品ってありますか」
「そんなのはないさ。むしろどの作品も光を浴びたいだろう……、ああ、こんばんは」
「……」
「こ、こんばんは」
 返事のない人影は、恐る恐るだった貴司の挨拶にも微動だにしない。ただ、二メートル近い彫像をじっと見上げているようである。
(あ)
 その手には何か鋭利な、細長いものが握られているらしいこと、その鋭利なものを彫像に突き立てようとしているらしいことが、貴司にも分かった。
「お客さ……」
「ダメだよ」
 止めようとした貴司の肩を、先輩が予想外の力で掴んで、止めた。驚いて言葉を失う貴司に、先輩はたしなめるように再び言う。
「ダメだよ、邪魔しちゃ。すみません、失礼しました」
「……」
「ほら、君も謝る」
「も、申し訳ありません。お邪魔しました」
 訳もわからないまま、ともかく貴司は頭を下げる。暗闇の男性は軽くうなずいたようだった。許してくれたらしい。
 彫像から遠ざかりながら、先輩がそっと教えてくれた。
「あの彫刻は、あの人の作品なんだ。作者には、作品を壊す権利も、あるいは修正する権利もあるだろう。だから、邪魔しちゃダメなんだよ」
「はい。すみません、俺、知らなくて」
「これから覚えていけばいいよ。次からは気をつけてね」
「はい」
 先輩は変わらず優しい調子である。
 しかし、あまり深く考えない性質の貴司も、夜遅い美術館に芸術家が来て、作品の修正をしていくというのは少しおかしくはないだろうかと考えていた。
(そういうものなのだろうか)
 さすがに無理があることは貴司でも分かる。
 聞こうかどうか迷っている間に、どうやら館内を一周したらしい。お疲れ様と言いながら関係者入り口を開けようとする先輩の背中に、貴司は意を決して問いかけた。
「あのう、先輩。この美術館、少し変じゃないですか」
「ええ? 何言ってるの」
 先輩はのんびりと笑う。しかしやはり、貴司は不安であった。何だか、あの黒い人影が得体の知れないものであるように思えた。
「芸術も、芸術家の人たちのことも俺は詳しくないですけど――、でも何か、おかしいような」
 夜間の彫刻も、夜間の鑑賞も、またそう考えると初めに見た絵画が一枚足りないのも妙なことであったように貴司には思えた。
 美術館で働いたことは今までないが、それにしても、美術館とはこんな妙なものなのだろうか。問いかける貴司の真面目な表情がおかしいのか、先輩は扉を開けた格好のままふっと息を漏らす。
 扉向こうの廊下の明かりに照らされた表情は、苦笑とも呆れともつかなかった。
「ここは美術館でもないし芸術作品も置いていないよ。募集要項、分かりにくかったかな」
「え、でも絵も彫刻も――」
「あれは芸術のになる前の、芸術以前の遺物だよ。まれに、作者の死後に世に認められることもあるけれど」
 先輩はまるで当然のことを話すような、穏やかな口調である。
 貴司はすぐに理解が出来なかった。
 世に認められた絵画、芸術以前、作者の死後。今までの人生でおよそ触れたことがないような言葉である。混乱しながらも、貴司は漸くひとつだけ、質問を絞り出した。
「じゃあ、あの――、あの人影は」
 オブジェを見守る鑑賞者。自らの作品に立ち向かう芸術家。
 確かに動いていたはずの彼らはいったい何なのだろう。
 優しい先輩は穏やかに笑う。
「自分で考えてごらん。まあともかく、君が選んだのは、芸術未満の遺物を守る仕事だよ」
 貴司は真っ暗な館内を振り返り、そこかしこで作品にまとわりつきながらうごめく、亡霊のような人影をその目に認めた。

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