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暴君の愛猫

 昔、あるところに、暴君と呼ばれた王さまがおりました。
 民に重税を課しては遊興に耽り、他国と争っては田畑を荒し、諫める者があれば処刑するひどい王さまでしたので、皆は毎日怯えて過ごしていました。
 お妃も王子も、毒を飲まされ死んでしまいましたので、もうこの世にありません。
 しかしそんな暴君も、愛する猫を自室に飼っておりました。
「ロコよ。ロコ。私のかわいい猫よ」
「にゃあ」
 ロコは、王さまの部屋でその名を呼ばれると、嬉しそうにすり寄って返事をします。今は毛づやもよくスマートですが、元はどこを歩いていたか分からないような痩せっぽっちの黒猫で、宮殿に迷い込み寂しく鳴いているのを見かねた王さまが部屋に匿っているのでした。
 ロコは十二分に王さまになついていましたし、王さまもまたロコを愛していましたが、王さまはこの事を秘密にしており、またこのために、王さまの部屋には決して誰も近寄らせぬようにしてありました。
「ロコよ。ロコ。暴君の愛猫よ」
 王さまは暴君でしたが、決して周りの冷たい目の分からない暗愚ではありませんでした。
「ロコ。私はいずれ民の怒りのもとで、殺されてしまうだろう。私は残虐たる、悪逆非道たる、暴君なのだ」
 王さまは自虐を込めて、悲しそうに笑います。ロコがのんきに喉を鳴らす様子にくすりと笑いながら、王さまはほっと息をつきました。
 やがて美しく真っ赤なマントを脱ぎ捨てると、ロコにおいしいお魚をやりながら、話しかけます。
「しかしロコよ。物言わぬ、無垢なわが国民よ。お前にだけは真実を話そう」
「にゃあ」
「私は苦しいのだ。民に理解されぬことが。税を軽くせよと命ずれば私欲の大臣が却って重くし、皆に開いた宴は遊興と言われ、我が国を脅かす他国を追い返せば私は石を投げられる。いや、これは私が至らぬのだな。民の怒りはもっともなのだ。私が至らぬせいである」
「……」
 ロコは美しい緑色の目で、王さまをじっと見ています。王さまはやがて、おいおいと泣き始めました。 
「しかし愛する妻も世継ぎの王子も、大臣に毒殺されてしまったこと――、こればかりは、私が至らぬせいであったろうか? ああ、確かに大臣は有能であり、よく諫め、よく促した。だから先日の処刑を思いとどまりもした。しかし私は正義をなした。愛する者のために正義をなしたはずなのだ」
「にゃあ」
 ロコは、いつも可愛がってくれる王さまが悲しい顔をするので、精一杯慰めようと体をすり寄せます。
「お前は慰めてくれるのだな、ロコよ。なんと賢い猫であろうか。皆がお前のようであればよかっただろう」
 王さまは笑ってロコを撫でてやりながら、しかし、やがて首を振りました。
 今度は王さまが、ロコをじっと見つめます。
「ああ、いや。そんなものは望むまい。望むまいよ。私は強くあろう。例え暴君の謗りを受けようと、世が反論しようと、民に殺されようと為すべきことを成すのだ。だがロコ、お前はその時が来れば、逃げるのだぞ。暴君に愛されたという事実だけで、お前がスープにでもされてしまったら私は死んでも死にきれぬ。よいな、ロコよ」
 ロコは王さまの目をじっと見つめ返しながら、やっぱり「にゃあ」とだけ返事をしました。
 
 ――王さまの言う、「民が王さまを殺す日」は案外早くやって来ました。
 王さまは暗愚ではありませんでしたので、民衆の怒りのうねりに、暴動に先に気づきました。そして宮殿にいる者すら誰一人味方ではないことを悟りますと、覚悟を決め、ロコをそっと庭に逃がしました。
「さあ、行くのだ、ロコ。暴君の愛猫と気取られるなよ」
「にゃあ」
 ロコは王さまの尋常でない様子に気づいていましたが、それでも傍を離れようとせず、足にすり寄ります。
 緑色のまあるい目が、じっと王さまを見つめています。
 王さまは、ロコから離したはずの手を伸ばしそうになりました。
「ロコよ――」
 王さまはロコと共に心中することも考えました。このままロコをこの手に抱くことを考えました。しかし宮殿に迫る暴徒の叫声に、心を鬼にして怒鳴りつけました。
「行くのだ、ロコ! 私は暴君である! 残虐たる、悪逆非道たる王である! 猫といえど、反逆するなら処刑する!」
 王さまは腰から提げた美しい宝剣を引き抜くと、ロコの眼前に押しつけて、恐ろしい顔で睨み据えました。
「にゃっ――」
 優しかった王さまの豹変に驚いて飛び上がったロコは、一目散に庭の茂みを抜けて、どこかへ消えていきました。
 王さまはほっとしたような、悲しいような気持ちで後ろ姿を見送りました。
 やがて先の声を聞きつけた民衆によって、王さまは縛り上げられてしまいました。王さまは、逃げ出せぬことを分かっていましたので抵抗もせず、おとなしく火あぶりにされることを受け入れました。

 暴君と呼ばれた王さまの処刑場は、歓喜する民衆で溢れていました。しかし王さまは最後まで命乞いをすることなく、民意を受け入れました。
 それが王たるものの責任であると、王さまは覚悟を決めていました。ただ、気がかりなことはありました。
「ロコよ――」
 鞭打たれた傷の痛み、火で炙られゆく熱の中、王さまは愛猫のことを考えていました。
「ロコよ。ロコ。決して暴君の猫と気取られるなよ。逃げるのだ。傷を追っても、殺されてはならぬ。噛んでもならぬ。逃げるのだ。そして願わくば、決して誰も恨まぬことを――」
 王さまの魂がこの世から消えるその直前、王さまはあの、緑色のまあるい目の愛しかったことを思い出して、少し微笑みました。
 
 王さまの死骸は切り刻まれ、骨にはりゅう酸をかけられ、再び灰になるまで焼かれてしまいました。
 ただの灰になってしまった王さまを見て、民衆ははち切れんばかりに歓喜します。
「やった! やったぞ!」
「虚言と虚構の暴君よ! 国庫を食い潰した女狐や、放蕩息子と仲良く地獄に落ちるがいい!」
 歓喜の咽びが轟きます。
 妃が贅沢三昧で国のお金まで使ってしまっていたこと、王子は暗愚で、跡継ぎとはとても言えなかったこと。幾度も諫言した大臣はそんな王家を憂いて二人を弑したが、咎めた王に処刑された――。そう聞かされていましたから、民衆にとっての王さまは、暴君に違いなかったのです。
 何より、王さまが国を治めてからというもの、税は増え、宴は増え、他国から侵略を受けたのですから。これは、王さまが悪である確たる証拠でありました。
「ああやはり、大臣さまの言うとおり、正義は勝利するのだ! 忠臣のお志を継いだ私たちは、正義なのだ!」
「私たちこそ正義なのだ! これで世は良くなるのだ!」
「大臣さま、私たちはあなた様の仇を取りましたよ――」
 喜びあっていた民衆は、やがて一人、二人と去っていき、とうとう皆いなくなりました。
「にゃあ」
 王さまの魂がこの世から消え、しばらく経ってからのことです。
 元の痩せっぽっちになりながらも生き延びていたロコは、王さまのにおいを辿ってか、灰になった亡骸のもとにたどり着きました。
 緑色のまあるい目で、じっと灰を見つめます。
「にゃあ」
 ずっと王さまの部屋にいたロコには政治も真実もわかりません。王さまがほんとうに暴君だったのか、それとも厳しくも良い王であったのか。あるいは王さまだけが、自らを良い王だと思っていたのか。
「にゃあ――」
 ロコにはわかりませんでしたが、それでもロコは、灰だけの残る処刑場でいつまでも、王さまの姿を探していました。

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