熱狂
かつて熱狂し夢中になった人がいた。
彼は一世を風靡した人気歌手だった。
だからコンサートがあればすべて参加し、何かあればプレゼントや手紙を送り、ブログの更新があればコメントを残し、少しでも彼の行動が読めないと不安で情報を探しては安堵し、熱愛報道には全身で嫉妬した。
いつか彼から知遇を得るようになると――少なくとも、そう思えるようになると――、熱狂はますます深まっていった。
「ともかく、それくらい好きだったのよ」
「懐かしい話ね。当時はよく聞かされてた」
友人の言葉に相槌を打ちながら××は喫茶店自慢のコーヒーに口をつける。
少しだけ恥ずかしそうに、バツが悪そうに笑う友人は秘密を打ち明けるような口調で続けた。
「そうでしょ。……この間、久しぶりに観に行ってきたのよ」
「へえ、何でまた」
××が目を丸くして聞いたのは、物事に熱狂しやすく冷めやすい友人の性質を十二分に知っていたからだった。
それに何より、一世を風靡していたはずの彼は今やほとんどメディアへの露出もなく、忘れ去られたような存在になっている。流行だけに敏感な、友人の興味を引くとは思えない。
どうしてまた、再び熱狂に火がついたのか。
彼女は照れ臭そうな表情のまま続ける。
「久しぶりに彼の映るDVDを見てしまって――、本当に偶然なのよ。本当なの。どうしてか気になってしまって。そうしたらやっぱり、どうしても格好よくてね。美しかったの。そんな時にどこそこで歌います、って言われたら行っちゃうじゃない」
「へえ、どうだった」
欠片も興味はなかったが、ともかく話したいのだろうと判断して××は聞いた。
きっとまた若い頃のように、どこがいい、ここがいいというのろけにも似た情熱を聞かされるのだろうがやむを得ない。彼女はそういう人なのだ。
「……それが、ひどかったのよ」
友人は驚くほど穏やかに、慈愛のある表情で笑った。
××が問い返す前に友人は続ける。
「だってね」
久しぶりに訪れた会場は人もまばらで、自らと同じように熱狂していたはずのか見知った顔はどこにもなかった。
それもそうだ。彼は老け、あのころ皆を魅了したはずの若々しく美しかった顔や肌、奇抜なカラーだった髪、スマートな体型のどれも見るかげすらなくなっていた。
「まあ、随分経つものねえ」
「それだけじゃないのよ」
歌も今はひどいものだった。歌い方がまずかったのか、すっかり潰してしまったらしい喉からは蛙のひしゃげたような歌声が響いてくる。全盛期なら常に後ろにいたはずのバンドもおらず、彼はあまり上手でないギターをおぼつかない手で鳴らしている。
唖然とした。
会場も驚くほど狭く、設備も整っているとは言いがたかった。
思い描いていたはずの、若々しく美しい彼はもはや、映像の中にしかいないのだと愕然とした。
友人はコーヒーカップを置く。
「でもね。でも――、驚くほど、いい表情をするの、彼」
穏やかな調子であった。
「そうなんだ」
彼は孤高の歌手で、しかしそのどこか寂しげで歪んだような性質が魅力で、様々なメディアが持ち上げていた。
しかしその彼が、一切のしがらみもこだわりも捨ててきたような、純粋に歌が音楽が好きな少年のような笑顔で歌うのだという。
明るく笑い、歌い、何よりステージを楽しんでいるのだという。
惚れ直してしまったと、友人は続ける。
「もうね。客席なんておじちゃんとおばちゃんばかりで。若い子や熱っぽいファンなんて一人もいないのだけれど」
「十数年経つもの」
××はコーヒーに目を落とす。いくら若作りをしていても、カップの中に映る顔には少しずつ皺が寄り始め、肌の荒れも目立ち始めている。
日々の生活の疲れが、刻んだ年数が如実に顔に現れている。
友人は頷いて、やがてカフェの外に視線を移す。
「……それでも彼は歌うのよ。笑うのよ。ステージに立てるのが嬉しくてたまらないというように」
彼女の横顔に愛情を見た。
友の、熱狂していた頃とは少し違った穏やかな目が、まっすぐに××を射ぬく。
「だから、もう一度行くのよ。何度でも行くのよ。きっと彼が歌えなくなるまで、私はついていくわ」
熱狂から変質した愛を、××は友人の目に認めた。