廃電車の上る先
やはり、深夜だったと思う。通勤路の半ばにある公園の、その廃電車に乗ったのは。
「暗いな」
当然だ。月明かりや街灯があったところで、電気の通らない車内は非常に暗い。ガラスのない窓からわずかに月が覗いているがそれのみで、足元も当然おぼつかなかった。秋に近い夏の夜。虫も集っている。「はあ」、とはいえ誰かが掃除はしているらしく、案外埃臭くはなかった。公園にある電車への窓からの侵入、子供じみた興味に伴う、いい大人の深夜の奇行。誰かにばれてやしないかと心配で、それが杞憂に終わって息をつく。「疲れた」、万感の思いを吐き出すと余計に、車内の静けさが際立った。
「次は、――前、――前」
シートに体を預けてそのままそっと目を閉じる。いつもの通勤電車に似た感触のせいか、アナウンスが自然と頭に蘇る。やがてゴトゴトと体の揺られる感覚も。時おり混じる警笛とカーブを曲がったときのようなガタンという激しい音まで幻聴に混じる。やはり相当疲れているようだ。
「次はヨアケ前、ヨアケ前です。地上に戻られる方はこちらでお戻りください」
「……、うん?」
何のアナウンスだ。そう思うと同時に体がふわりと持ち上がったような気がして目を開け、視界に映った景色にそのまま飛び上がった。転びながらガラスのない窓に駆け寄る。埋め尽くすような星空。窓から顔を出して外を見回せば、一両だったはずの電車がいつの間にか連なって、公園どころか宇宙を走っていた。
「間もなくヨアケ前、ヨアケ前です。お出口左側です。お降りの際はお忘れ物のないようご注意ください」
呆気に取られている間に電車は止まり、左手側のドアが自動で一斉に開く。そんな馬鹿な。外にはプラネタリウムのような宇宙空間が広がるばかりでホームなどない。ただ電車が星空の中にあるのみだった。
「……きれいだな」
この宇宙に放り出しでもする気か。そう思ったはずだったが、まるで写真でも見ているかのような星ばかりの絶景に不満よりも先に感想と、そして足が進み出ていた。
不思議と星空は歩けるらしい。眼下のはるか遠くには、いつか衛星写真で見たような地球の青が輝いている。それにどうやら、想像と違って呼吸はどうにでもなるらしい。振り返ればさっきの廃電車。しかし深夜の公園で見たのとは全く違って、あちこちに浮いていた錆もなければ汚れもなかった。この電車の現役時代など知らないが、きっと当時の姿なのだろう。あの公園にあったのは一両だけだったはずなのに六両ほどにも連なって、先頭列車はライトで先を照らしている。明らかに姿が違う。
(……そういえば、さっきまで公園にいたのか)
電車を見ながらふとそんなことを思う。あまりのことにしばし忘れてしまっていたが、ついさっきまで眼下に浮かぶ惑星にいたはずなのに、今の自分は文字通り宙に浮いている。
上を見る、下を見る。思わずうっすら口を開けたまま、飽きるほど広大な空に星の並ぶ、辺り一面を眺め回して、そうして何となく、もう一度青い星にじっと見いっていた。
(――、全部が小さく見えるな)
「ヨアケを迎えられますか?」
「え?」
「それとも戻られます?」
唐突に、柔らかいトーンの日本語で話しかけられてすぐには答えられなかった。電車の方に視線を戻すと、いつの間にか、透き通るような美しさの女性が佇んでいる。
「この世を明けて、新しい星になることをヨアケと呼んでいます」
「……そうですか」
「どうなさいますか」
女性はこちらの様子に構わず言葉を続ける。有無を言わせぬ調子。白く輝く体。着物と羽衣を纏い、二つの円を描く飛仙髷に髪を結い上げた姿は天女そのものだったが、それでいて黒目がちでやや逆三角の顔の作りがどことなく宇宙めいていた。女性は無表情のままずいと進み出る。
「ヨアケを望んだのでは?」
「ああ、いや……ええと」
思わぬ言葉にまごついて、答えきれないまま口ごもった。この世を明けて、新しい星になる。おとぎ話のようだが意図するところはわかる。
(今は、――いいか)
疲れてはいた。疲れていたから気が迷って、この廃電車に乗り込んだ。些末なことでどうにも立ち行かない気がして。――眼下の青い惑星を見る。辺り一面の闇に散らばる星々を見る。廃電車を見る。天女を見る。
とんでもない量の非日常をぐるぐると見まわして、やがて小さく首を振る。何だかバカバカしくなった。
だから、今はいいか。こんな非日常の中で、そんなものはどうでも。そのまま、天女とは目を合わせないようにして、廃電車を指差す。
「……あの子ではないでしょうか、星になりたかったのは」
「ああ」
その女性は頷くと電車に近寄り、人にするようにそっと触れて、やがてにっこりと笑った。冷たいだろう電車のボディに顔を擦り寄せながら、「お疲れ様でした」と呟く。
「立派に役目を終えられたのですね。では、私と行きましょう」
「……」
いとおしそうに電車を見つめ、心からだろう労いを送る。電車の方もプァンと警笛を鳴らした。彼女はもう一度こちらの方を振り向いて頭を下げる。
「あなたも、ありがとうございました。この子の最後の未練だったようです。人を乗せて走るのが。……これでこの世は明けられると」
「そうでしたか」
「それで、あなたは?」
彼女は答えなどわかりきっていそうなものをもう一度こちらに問いかけた。今度ははっきり首を振る。
「いえ、大丈夫です」
「そうですか」
女性は無表情に戻る。何か言いたいことがある気がしたが、そのまま飲み込んだ。
「では、きっとヨアケ前に目が覚めますよ」
それきりだった。
窓の外を六両編成の電車が月まで駆けている。さっきの廃電車だろう。そう夢うつつの中に結論付けた。深夜三時。まだ夜が明けるには少し遠い時間だ。体を起こして窓の外をぼんやり眺める。夢にしては随分はっきりとした記憶だった。
「……寝るか」
寝て起きればまた日常に戻る。先ほどまでの記憶もきっと、変わった夢を見たものだと生活の中に溶けていくだろう。今日の自分はほんの少し、疲れていた。それだけのことだ。
その割に何だか心だけは軽くなっていて、目を閉じながら少し笑った。