金魚すくいの翌朝に
祭りの終わった翌朝の窓辺から、たくさんの金魚が空に上っていった。滝でも遡上するように雨垂れの中にひらひら吸い込まれていく赤とオレンジの背鰭をベランダの向こうに見送って、ふと「おかしいな」と口に出す。よくよく考えてみれば折からの雨続きで自分は祭りになど出掛けていないしこの辺りで祭りをやっているはずもないのだ。「やっぱりおかしい」おかしいのは祭りのないことではなくて、自分には確かに昨日、祭りに行った記憶のあることだった。
「どうだい?」
その時その場所には真っ赤な提灯が並んでいたように思う。珍しく定時を少し過ぎたくらいで退勤できたから、いつもなら絶対にまっすぐ家に帰って倒れ込んでいたはずだ。それが気づけば屋台立ち並ぶ祭り会場にふらっと紛れていた。
「あ、……はい」
退勤前後の記憶はあまりない。しかしそれでも確か日は暮れて、月がそろそろ目立ち始めていたはずだ。夏の宵闇の赤提灯。いかにも夏祭りらしい熱気につい懐かしさを煽られて、人が笑顔であちらこちらに流れていく中、今時らしくもない提灯だのお囃子だのにきょろきょろしていた。「三百円」雑踏の中でも店主のボソボソ声が妙に耳に響く。見下ろせば子供以来気にも留めたことのない、素っ気ない青のプラスチックの箱。これはこんなに小さかったろうかと思いながら、中をそわそわ泳ぐ金魚たちの、色鮮やかな背鰭を眺めていた。
店主のオヤジがついでのように聞く。
「やったことは」
「え? ああ、子供の時に」
「それなら好都合だ。はい、どうぞ」
ポイを差し出すオヤジの言葉に頷いて、抵抗もせずすっとしゃがむ。優しげな目のオヤジが綿菓子を預かって、ステンレスの小さなボウルも渡してくれた。ひんやりする。
「でも」
「ん?」
「俺の家、水槽とかないしな……」
三百円を出しながらそこでやっと、何で俺は金魚すくいをやっているのかと我に返る。さすがにもう大人だ。一人暮らしだし、その後ちゃんと飼ってやれる自信もないし。
まごまごする自分にオヤジは皺だらけの手をヒラヒラ振る。
「気にしなさんな。昔やったことがあるんだろう。じゃああんたのことも覚えているはずだよ」
「そっか」
何でかオヤジの言葉に頷いて、ポイをざばと水につける。不思議なことに金魚は逃げず、勝手にポイの上へと吸い込まれてくれた。三匹。無機質なステンレスのボウルにそっと落とす。
「すくってくれてありがとうな」
ボウルの中をヒラヒラ泳ぐ金魚をじっと見つめて、オヤジの声を聞いて、そうして、それで、どうしたんだろう。
「雨だったよな」
すくったはずのあの金魚達はどうしたんだったか。いつ綿菓子なんか買ったんだったか。そもそもどこの祭りに行っていたんだか。
空はこんなにもどんよりとして、まだ梅雨も明けちゃいないのに。
――あんたのことも覚えているはずだよ。
(……)
幼い頃にすくった金魚たちも、あの後いったいどうしたんだろう。名前をつけてしばらく飼っていたような気はするが、夏の終わりの記憶はあんまりない。薄情なものだ。
窓を開ける。ベランダに吹く生ぬるい風。もうすぐ夏が来る。それらしい匂いだ。
「……なるほどな」
雨粒の下る空を見上げて何となく、納得したような気持ちになる。夏の前に、思い出ごと空に上ってしまいたかったのか。手を合わせて、金魚の道に祈ってみる。
「行くか」
夏の記憶の金魚の輪廻。そんなこともあるのだろう。準備を終えて玄関の扉を開ける。傘を手にして出てはみたけれど通り雨だったらしくもう止んでいて、そこには初夏の空が晴れ渡っていた。