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Viola​

 明るい日の差す春の庭に、ビオラが一輪咲いている。今年のビオラは小さな体だったが、美しい紫と黄色の花弁を持ち、いつも凛と胸を張っていた。
 ビオラはこの洋風の一軒家のそう広くない庭に毎年たくましく咲くのである。老主人は昔ガーデニングに凝っていて小さな庭の真ん中に白の丸テーブルと椅子が一脚あるのはその名残だった。しかし大変気まぐれ屋の主人だから、今やそれらも使われぬまま苔と蔦に纏わりつかれている。
 そんな野放図な庭の中で懸命に咲いているのはビオラだけではない。あちらには真っ赤なサルビアが、あちらには濃紅のベゴニアが毎年たくましく起き上がる。そうしてたくましい彼女らは何度も世代交代を繰り返し、この庭を彩るのであった。
 今年の春の庭には時折、弦楽器の静かな音が流れていた。そう上手くはないが、それでも心によく響く演奏であった。ビオラが音に聴き入っていると、おしゃべりなサルビアは飽き性の主人が今度は音楽に凝っているのだと教えてくれるのだった。
「やあ」
「あら、こんにちは」
 春の日柔らかに差し込むある休日のこと。老主人の手の中から気障な挨拶をくれたのは、焦げ色をした、小ぶりの弦楽器だった。老主人がこの春の庭に面する窓を開けるのは珍しいことだ。彼はしばらく歌っては休み、歌っては休みを繰り返していたが、そうして演奏の手が止まる度、どうもこの自由な庭を眺めているらしかった。
 小さな弦楽器の彼がまるで珍しいものでも見るように、じいっとこの春の庭に見入っているのが気になってビオラは問うた。
「あなた、とても美しい声ね。ねえ、この庭が珍しいの?」
「ありがとう。……そうだね。普段は暗い楽器ケースの中にいるから、眩しいくらいだ」
 名も知らぬ弦楽器はそうしてまた老主人の手でしばらく奏でられ、ビオラはまたその音色に紫と黄色の花弁を揺らしていた。過日、口さがないサルビアは主人の気まぐれ趣味だと言っていた。確かに演奏はとても拙いのかもしれない。しかしどうしてかだろうか、彼の歌は一等美しくまた心地よくビオラの黄色と紫の花弁に響いていた。こんな心地はビオラがその生を受けてから初めてのことだ。
 名も知らぬ弦楽器は今日の小さな演奏会に礼を言う。
「美しい花弁の小さなお嬢さん。今日は聴いてくれてありがとう。ええと、僕はビオラという楽器だけれど、君は――」
 ビオラ。ビオラ。花のビオラは楽器のビオラのその声に、小さな花弁を震わした。
「まあ。まあ。何という偶然でしょう。私もビオラという花なのよ」
 同じ名だから、こうも彼の声が心地いいのだと直感した。
 花のビオラが感動しきりにそう告げると、楽器のビオラも大変に驚いた様子だった。
「何て素敵だ。お嬢さんと同じ名前だなんて不思議な偶然もあるものだね」
「そうね。私たち、素敵なお友達になれるんじゃないかしら」
「ああ、きっと」
 答えた楽器のビオラの声は随分と弾んでいた。それは花のビオラも同じで、彼女は一層立派にその花弁を張るのだった。
 お喋りなサルビアはビオラたちの様子をじいっと見つめていた。

 楽器のビオラと花のビオラの邂逅はこれが初めてだったが、飽き性の老主人にしては珍しく、その逢瀬はしばらく続くことになった。昼の決まった時間に老主人は窓を開ける。そして拙い演奏を春の庭へ聴かせる。伸び盛りの楠は緑の葉を揺らし、お喋りなサルビアもその時間だけは静かに聞き入っている。そして花のビオラはその度に紫と黄色の花弁を震わせて、一番にビオラの声の美しさを褒め、また楽器のビオラは彼女の花弁の美しさや庭の美しさを讃えるのだ。
 今日もまた演奏会が始まる時間になった。
「美しい庭のお嬢さん。今日も僕の歌を聞いてくれるかい」
 ビオラが言う。またビオラも待ちかねたように笑う。
「ええビオラ。待っていたわ」
「ああ、明るい庭に美しい友。何と素晴らしいことだろう」
 楽器のビオラが心の底からそう言うらしいことに、花のビオラは誇らしくすらあった。
 春の庭。老主人が手を入れず野放しにしていることでむしろ不思議と調和しているこの庭のことだ。彼は心から褒めているらしい。花のビオラには決して得られない、美しい声を持つ彼に庭を褒められる度、ビオラは自分が褒められているような心地になった。自分が彼の憧れである庭の一部を作っているのだと思うと、何より誇らしかった。だからこそ今日の小さな演奏会では彼の声に聴き知れて、彼の歌を一番に褒めるのであった。
 短い花の命の中で、彼の歌を聞くときがビオラの一番の幸せであった。今日の小さな演奏会もビオラの幸福の内に終わり、夜になっても彼女は余韻を楽しんでいた。
「物好きね」
 お喋りなサルビアはいつも、皆が寝静まった夜にそう揶揄う。ビオラは受け流すように、花を揺らすだけで答える。空にはぽっかりと月が浮かんでおり、明かりなどない静かな夜の庭を照らしている。
「あなたも物好き。いくら名前が同じでも花と楽器よ。すべてが違うのよ」
 ビオラがさらりと受け流したのが物足りないらしいサルビアは、鈴なりの真っ赤な花を春の風に遊ばせながら続けた。
 「そうね」とようやくビオラは返事をする。
「そうね。すべてが違うわね。でも名前は同じだから、何か素敵なことがありそうじゃない」
 ビオラは友を友情を否定されないように、やんわりと返す。
 波風の立たぬよう伝えるのは彼女の癖であった。サルビアは勝ち誇ったようにまたその鈴なりの花弁を揺らす。
「どうせすぐに飽きるわ」
「そうかもしれないわね」
「飽きるわよ、飽きるわ、あなたもあいつも」
「そうかもしれないわね」
 ビオラはやっぱり、やんわりそう答えた。そして、そう答えながらも「それがどうした」という心持であった。
 ――すぐに飽きるというから何だというのだろう。
 ビオラはサルビアが必死なのがあまり理解できなかった。花の命が短いことは毎年受け継がれる遺伝子の中で十二分に知り尽くしている。何かに逆らったところでつまらないことも分かり切っているからである。
「何かあったって仲直りすればいいのよ」
「ふん」
 ――すぐに飽きるというから何だというのだ。花の散るまで、束の間の友情であることはどちらも分かっているのだ。短い命の中で彼の声に音に出会えたのだから、素直に喜べばいいのだ。
(こんな短い命の中で、同じ名の楽器と出会うなんて)
 ビオラは自らの命が短く儚いことを常識のように知っていたから、当然楽器のビオラも知っているはずだと考えていた。
(ああもたくさんの歌を知っているのだもの、知らないはずがありましょうか。私の命が尽きるまでの逢瀬よ)
 春の月はどことなく潤んで美しい。今度は彼の知らぬこの夜空の話をしたい。ああ、明日も会えるだろうか。
「一雨きそうね」
「確かにそうだわ」
 ビオラはサルビアの言葉に花弁を揺らした。春の夜は穏やかに更けていく。深々とした春の夜の中で風だけはざわついていたから、何がこれから来るのか、春の庭は十二分にわかっていた。

 

 飽き性の老主人はそれからしばらく、窓を開けることはなかった。
 それは老主人の性格というよりも、春の嵐のあったことによることの方が大きかった。まず大風が吹いた。春色の花の自在に咲いていた美しい庭からは色々の花弁が巻き上げられた。次に大雨が風に吹かれて草木を打った。ビオラは大嵐の中で、自分は種を成さぬままにちぎれてしまうのではないかと葉茎の凍る思いをしながら耐えていた。
 そも、花には耐えるほかないのだ。特にこの庭のような、自然のままに咲かし伸ばされるままとなった、手入れのされぬところでは。風雨を防ぐ手立てもないまま、雨は必要以上に彼女らの体を打ち、風は容赦なく草木をなぎ倒そうと暴れるだけ暴れ、そうしてまた何事もなかったような顔をして、去って行った。
「ああ、何とか生きているわ――」
 折れるほどに大きくもなく柔らかいビオラは、春の嵐の後も何とか無事であった。もちろんあちこち煽られた茎や葉は痛み、自慢だった黄色と紫の花弁には少しばかりの傷を得ていた。それだけではない。楠はいくつかの枝葉を落としていたし、ビオラよりずいぶん背の高いサルビアはまるで倒れ掛かるような恰好で、舞い上げられ牧草のようになった草花の上に覆いかぶさっていた。サルビアは大丈夫かもしれないが、きっとあれらの草花は長くないだろう。
 庭の中央に置かれた椅子も横倒しに転がっている。無惨だ、無力だとビオラは嘆息した。
 嘆きの次に考えたのは、楽器の彼のことであった。彼は果たしてこの庭を見て何と言うだろう。無惨さに顔を背けるだろうか。あるいは姿変われど美しさは変わらないといつものように褒めるだろうか。
 いいや彼のことだ。きっとまずはこの様子を見て、心配してくれるに違いない。
 ビオラはまるで嵐などなかったとでも言うように輝く空を見上げながら、考えていた。

 飽き性の老主人が再び楽器と共に庭に面した窓を開けたのは、嵐の去ってから数日してからのことだった。
「やあ、友よ」
「しばらくぶりね」
 ビオラは変わらず気障な挨拶をくれた。彼の焦げ色の体はつやつやと輝いていて、何も変わらない。荒れた庭から眺める彼の姿は眩しいくらいだった。
(羨ましい)
 荒れた庭を風を雨を知らぬ彼が羨ましい。
(いけないわ、友に何てこと)
 ビオラはぐったりした茎をようやく持ち上げ、浮かんだ言葉を打ち消した。そして黄色と紫の花弁を精いっぱいに張り、彼には傷ついた姿を見せないように、せめて何でもないように答えてみせた。楽器のビオラはいつものように庭にじいっと見入っているらしい。ビオラはこの荒れた様子がどうしてか恥ずかしくなりながら、彼の言葉を待っていた。
「ああ、今日も変わらず、美しい庭だ」
 老主人の演奏が終わると同時にビオラは言葉を放った。いつものように庭を褒める彼の言葉に、花のビオラは何故かすぐに答えられなかった。
「……何も変わらない、かしら」
「うん。いつもの通り美しいだろう?」
 ビオラは何でもないことのように答える。ビオラは庭の様子を振り返る。落胆するほどに荒れてしまっている草木、傷ついた花々。いや彼は、あるいは励ますためにそう言っているのかもしれない。荒れてしまった庭を変わらないと伝えて、励まそうとしているのかもしれない。
「確かに少し変わってしまったかもしれないけど、雨上がりの庭だって美しいじゃないか。僕は雨に打たれることはないから羨ましいくらいだよ」
 これが雨上がりの庭程度、というのだろうか。
(何も知らないのね――)
「ほらね。言ったとおりでしょ」
 言い募る彼の声に重なって、遠くから微かにサルビアの声が聞こえた。ビオラは過ぎたばかりの春の嵐のことを、またその中で皆が必死に耐えていたことを思い出した。茎や葉の痛みは増すようであった。一体彼は何をもって美しいと言っているのだろう。
 ビオラがサルビアを振り返ると彼女はほかの草にもたれかかるばかりで静かであった。お喋りなサルビアは何も言わなかったのかもしれない。ならば先の言葉は自分が思ったことなのだろうか。ああ、せっかくの偶然でできた友に、この短い花の命の中でできた友に対してそんなことを思うなんて。いけない、いけない。いつものようにしなやかに、流さなければ。
 しかしビオラが心を抑えるより先に、言葉が先に滑り出ていた。
「ねえビオラ、そんなことを言って、私たちがどれほど傷つくか分かる? あなたが羨ましいわ。だって私より安全に、ずっと長く生きられるのだもの。私たちは――」
「ははは。そんなことを言うものではないぜ」
 花のビオラの言葉を楽器のビオラは遮り、あまつさえ一笑した。
 そうして今度は花のビオラをうらやむように嘆息する。
「だって君は、こんなに美しい春の日や、春の雨を存分に浴びて生きられるじゃないか。いくら安全だって、暗い楽器ケースの中に押し込められることもないのだろう。ああ、羨ましい、羨ましい」
 その口調は怒ってさえいるようであった。彼の目にはきっと雨上がりの美しい庭が見えているのだろう。
 巻き上げられた花弁やあちこち折れた枝葉、ごみの巻き付いた葉は見えていないのかもしれない。
「……ひどいわ」
 ビオラはただそれしか言えなかった。まずいと思っているはずなのに、言葉を取り消すことはできなかった。むしろ責め立てたい気持ちでいっぱいになっていた。サルビアの言葉をしなやかに受け流していたはずの彼女は、どうしてか彼には頑なになってしまった。短い花の命の中でそう必死になったって仕方ないというのに、譲ることができなかった。生を受けて初めての感覚であった。自分にも譲れないことがあるとこの時初めてビオラは知った。
(どうしてわかってくれないの)
 ――でも名前は同じだから、何か素敵なことがありそうじゃない。
 彼はすぐに答えなかった。老主人は夕方には窓を閉めた。
「ひどいのは、お互い様さ」
 窓が閉められる前に、捨て台詞が聞こえてきた。ビオラはその様子を見ながら友の冷たさに、何より受け流すことのできなかった自分自身にも落胆していた。老主人はその日庭の手入れをすることもなく部屋の中で彼を奏でているようであった。

 夜露に濡れる春の庭。主人は夜になっても庭を手入れすることなくそのままにしている。もう数日したら椅子ぐらい起こしに来るかもしれないが、億劫屋の彼に限ってそれも定かではない。
 月の差し込むこの庭で、嵐以来静かになっていたサルビアがぽつりと呟いた。
「楽器は楽器、花は花よ」
「やっぱり、聞こえていたのね」
 昼のことをビオラは思い出す。やはり、たとえ同じ名を持っていても友にはなれぬとサルビアは言いたいらしかった。
 サルビアはまた言う。
「何もかもまるっきり違うのだもの。分かり合えっこないわ」
「そうね……」
 サルビアの言葉にビオラは花弁を揺らす。同じ名でもまるっきり違う。一つは楽器、一つは花で寿命も違えば世界も違う。分かり合えぬのは道理である。緩やかな風が吹き、楠が葉擦れの音を鳴らす。それはまるで同意の声にも聞こえてきた。
 ビオラはぼんやりと呟く。
「私は花で、向こうは美しい音を鳴らす楽器だもの」
 ――普段は暗い楽器ケースの中にいるから、眩しいくらいだ。
 ビオラはいくらか、冷静さを取り戻していた。その中でビオラは彼の言葉を思い返した。あるいは彼には本当に、この大風によって荒れた庭が美しく見えるのかもしれない。自然のままにあることが、あるいは春の嵐になぎ倒されることでさえ美しく見えるのかもしれない。
「どうなのかしら。私には分からないわ」
「分からなくていいのよ。忘れなさい」
「……そうね、分からなくていいはずなのだけど」
「物好きね」
 賢いビオラはどうしてか、ビオラについて考えることをやめられなかった。
 サルビアは呆れたように一言吐いて、先に眠りについてしまった。

 春の嵐が過ぎ、ビオラとビオラが物別れした日を境にぱったりと、窓越しからもビオラの音は聞こえなくなってしまった。どうも主人は演奏にすっかり飽きてしまったらしいと、お喋りで生命力豊かなサルビアはほかの草木と噂をしていた。
 あれからもうずいぶん経つ。無論、ビオラも彼と物別れしてから数日程度は、思い返しては怒ったり落ち込んだりと忙しかった。二度と会いたくないとすら思う時もあった。しかしこんなに長く彼の演奏が止むのも生を受けてから初めてのことで、落ち着きをすっかり取り戻している今や却って恋しくすらなってきていた。
「せっかくできた縁だというのに」
 ビオラとビオラ。花と楽器という全く別のものである以上、理解し合って仲直りができるかどうかなどは分からない。しかしせめてもう一度あの声が聴きたい。あわよくば仲直りをして、自らの命を終えたい。
 会えないままであれば、何を伝えることもできないというのに。
 少しずつ、日差しは初夏に近づいてきている。交配も済ませた。花季の終わりは確実に近づいている。このまま老主人の気まぐれが続くようであればきっと彼と会えないまま、今生の別れとなってしまうだろう。何と言う未練ある生だろう。ビオラは自らの短い生を初めて恨めしく思った。こんなに短い生の中で、何かに逆らったところでつまらないことも分かり切っていたはずだったのに。
「だから言ったでしょう。まったく違うものなのよ」
 サルビアが笑ったのは庭の様相が初夏に近づいてきたころだった。被害を受けた草木もたくましく、その葉を天に向かって伸ばしつつあった。花季の終わりに向かうビオラは花を揺らして受け流すしかなかった。
 あれから老主人は一度だけ庭に出てきて軽い掃除をした後丸テーブルと椅子とを整え、また草花も簡単に整えるだけ整えていつもの気まぐれ生活に戻っている。
(暗闇って、どんな気持ちなのかしら)
 彼の声が聞こえないということは、きっとあれほど嫌がっていた暗い楽器ケースの中にいるのだろう。真っ暗闇。ビオラの生きている内に新月の日はあったが、そういう日でも街の明かりや家の明かりはあったから、本当の真っ暗闇を知らない。
(全く外に出られないって、どんな気持ちなのかしら)
 自分の結実と終わりが近くなるにつれて、ビオラはただビオラのことだけを考えていた。
 何と短い命だろう、何と未練ある生だろう。ビオラは少しずつ、あの日の言葉を悔いるようになっていた。
 せっかく紡いだ縁なのだから、もっと彼の気持ちを慮ってもよかったのかもしれない。しかし自分にも譲れないことがあった。花の命の在り方を理解してくれていると思って期待して、期待が外れて、ひどくショックだったのだ。
「いくら名前が同じでも花と楽器よ。すべてが違うのよ」
「そうかもしれないわね」
 サルビアの言葉はもうほとんどビオラに響かなかった。ただ考えるのはビオラのことだけだった。彼が花の儚さを知らないように、自分は楽器の苦しみを知らない。
 名が同じでも自分と彼とが真に分かり合うには、あまりにも自分の命が短かった。
「私と彼とは違う。同じ名でも違う。違うからこそもっと――」
 彼の声の聞こえないまま花の終わりを迎えるのはあっという間であった。夏に向かう五月の日差しは容赦なく彼女の美しい花弁を焼く。
 ――何かあったって仲直りすればいいのよ。
「ビオラ、久しぶりね」
 彼女の枯れて種になる前に、美しい音が聞こえてきたような気がしていた。

 まだ春であった頃のこと。ビオラはビオラと物別れした後、暗い楽器ケースの中に押し込められながらぶつぶつと呟いていた。
「全くひどい。何故僕が、あんな言葉を言われねばならないのだ」
 楽器ケースがバタンと閉まる。真っ暗闇が彼に訪れる。
 果たして次に外に出してもらえるのはいったいいつになることだろう。このところ毎日のように奏でてもらっているが、何か演奏の先生がついているというわけではない。この気まぐれな老主人が手慰みに、独学で弾いているというだけのようだ。そうなると、老主人の気持ち次第では楽器ケースの中でただ腐りゆくこともあり得る。止むをえまい、それが楽器に生れたものの定めである。
 木のままであれば、たとえ人が鑑賞に飽きたとしても大地の恵みを受けて空へ伸びることができるはずだ。
「全く。なぜ彼女は怒ったのだろう。わがままな花だ」
 あなたが羨ましいわ、などと。人の気まぐれ次第で暗闇に閉じ込められることなどない、恵まれた境遇なのは彼女の方だ。羨まれるべきは彼女の方だ。明るい太陽のもとで暮らすことのできる彼女が一体何を怒るというのだ。そりゃあ人の手で摘まれて命を終えてしまうような危険もあるだろう。しかしここは人家で、この老主人に花を摘む甲斐性がないとなれば彼女は自由にのびのびと生きられる環境にあるではないか。
 少なくとも夜には月が出て、今自分が置かれているような深淵の闇で怯えながら出番を待つということはないはずなのに、何たる言い草だというのだろう。
 そう言えば、今はどれほど時間が経ったのだろうか。一晩か、二晩か。一年か。怒っていたビオラはひんやりしたケースの中で少しずつ落ち着きを取り戻してきていた。
「……やはり名が同じでも、楽器と花では分かり合えぬものだろうか」
 そう思ってしまうと急に悲しくなり、せっかくできた縁が惜しくもなってきた。
 ビオラはぼんやり考える。春の庭。黄色と紫の可愛らしい花弁。拙い老主人の演奏に、自分の声に聴きしれていた姿。そして演奏の終わりにはいの一番に欲しい言葉で讃えてくれる。さしてうまい演奏というわけでもないのに。
「彼女は何とも美しい、凛とした花だ」
 春の庭に咲く美しい花弁は暗闇の中で思い出すにはあまりにも眩しく、思い出す度に胸が高鳴る。ビオラは暗闇の中で想い出に耽る。
 ――ねえビオラ、そんなことを言って、私たちがどれほど傷つくか分かる? ひどいわ。
 その胸の高鳴りは、あの言葉を思い出した途端に掻き消えた。
 ――ひどいのは、お互い様さ。
 自分の言葉を思い出してビオラはぞっとした。
 何てきつい調子だったことだろう。あんな言葉を返して、彼女はもう一度自分に微笑んでくれるのだろうか。
(いや、しかし)
 しかし羨まれるべきは彼女の方なのだ。楽器と花の違い、彼女ならそれを汲んでくれると期待したのだ。しかし彼女はそうではなくて、理由は分からないが、この自分を羨みさえした。つらいの花ばかりじゃないはずだ。ならば自分も貫き通すべきではないか。
「そんなこと……」
 縁が切れてしまうかもしれない。もう彼女は自分の声を、歌を聞いてくれないかもしれない。自分はそれを望んでいるのだろうか。
「いいや、せっかく同じ名で出会った。楽器と花、別々のものでこんな偶然はそうないのだ」
 ビオラはびいんと弦を震わせた。
(僕が一体、あの美しい花の何を傷つけたというのだろう)
 ビオラはあの日のことを思い返していた。雨上がりに濡れる庭。確かに少し、いつもと違う様子ではあった。しかしそれすらが暗い楽器ケースの中にいる自分には眩しく見えた。彼女もいつものように胸を張って、美しい紫と黄色の花弁を向けて挨拶してくれた。白い椅子は転んでいた。サルビアは向こうの方で伸びていた。しかし彼女は、あの美しい花だけは何も変わらなかった。
「何も変わらなかったはずだ」
 ビオラには、ビオラは庭の中で一番輝いて見えていた。
「……次に会えたら、どうしたのか、話してみよう」
 あの眩しい、春の庭。この老主人に買われてから初めて見た自然の美しさであった。どうかもう一度ビオラに会って、話をしなければならない。
 幸運なことに、彼が暗闇の中で考えている内に楽器ケースは開かれた。
 惜しむらくは、彼は花の命の短さも儚さも理解していなかったことである。

 明るい日の差す春の庭に、ビオラが一輪咲いている。
 ビオラはこの洋風の一軒家のそう広くない庭に毎年たくましく咲くのである。老主人は昔ガーデニングに凝っていて小さな庭の真ん中に白の丸テーブルと椅子が一脚あるのはその名残だった。しかし老主人は大変気まぐれだから、今やそれらも使われぬまま苔と蔦に纏わりつかれている。
 手を入れていないのに咲いているのはビオラだけではない。あちらには真っ赤なサルビアが、あちらには濃紅のベゴニアが咲いている。
 老主人が窓を開け、楽器のビオラがかつてと変わらぬ庭の姿を認めた時、彼はほっとした。ああ、いつもと変わらぬ景色だ。老主人も何も変わらぬ拙い演奏を気まぐれに奏で始めた。ああよかった。そんなに日が経たないうちに出してくれたのだ。彼女とやっと話ができる。歌いながら、ビオラはそう思った。
 ビオラはやがて紫と黄色の小さな花弁を認める。間違いない。会いたかった彼女だ。
 老主人の演奏が終わると、ビオラは急き込みながらその紫と黄色の花弁に声をかけた。
「やあ、ビオラ!」
「あら、こんにちは」
「ああ、ようやく会えた。僕はずっと君に――」
 焦った様子の弦楽器を小さな花は不思議そうに見上げた。
「あなたはだあれ?」
 ビオラはその言葉にすぐには答えられなかった。きょとんとして、そしてきょとんとしたが故にこれが彼女の、自分を驚かせるための手法なのだろうと思った。だから面白くなってつい笑ってしまった。
 怒らせたからって、意地悪なことをするものだ。
「ははは、面白いことを言う。僕だよ、僕。名前が同じだって笑ったのはついこの間じゃないか」
「何か勘違いしているのではなくって? 私はつい昨日に咲いたのよ」
 花のビオラは花弁を傾ける。そう言われてビオラはその美しい花弁を吸い込まれるように観察した。
 黄色と紫の花弁。美しい花弁。何か違うだろうか。何か。楽器であるビオラには全く分からなかった。しかし一つだけ分かったことがあった。
 愛した友に瓜二つの彼女は、自分の演奏に何の興味も持っていないのだ。
(ああ――)
 そうしてビオラは全てを察してしまった。
 花の命の何と短いことであろう。わが友の去るのはなんと早いことであろう。そして楽器の命の何と長いことだろう。たかだか、主人が楽器に飽いている一年の間に友はこの庭から去ってしまったのだ。
 今目の前にいる彼女は、美しい友の落とし種に違いない。
 ビオラは後悔した。しかし後悔してもこの美しい庭に咲いているのは、ただ一輪の、昨年とは違う美しさで胸を張るビオラなのだ。
 もう、何もかもが遅かったのだ。名が同じだけで何もかもがまるっきり違うことを分かっていなかったのだ。
 ――あなたが羨ましいわ。
 花の想いをビオラはようやく理解した。
「僕は。……僕は、ビオラという楽器だよ」
 ただただ、行き場のない気持ちが渦を巻く中、ビオラは一言そう告げるのが精いっぱいであった。庭からはころころと笑うような声が響いてきた。
「まあ。何という偶然でしょう。私もビオラという花なのよ」
 彼女に似た花弁が揺れる。ビオラの笑う声を聞きながら、ビオラは再び老いた主人の手で美しい音を奏で始めた。
 その音は昨年よりも少しばかり哀愁を含んで美しい春の庭に響き、花のビオラはうっとりとその音に聴き入っているようであった。

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