ある猫の話
満月の夜にだけ黒猫は話し出す。月の光が彼に知識を与えるらしい。
とはいえ黒猫の話す内容は他愛なく「もっとよい餌を」「そこではなく頭を撫でろ」など聞こえなくても良いようなものだ。
今日もまた満月だったから、黒猫は窓辺で月を待ち、思う存分光を浴びてこちらを見た。
「今日は大事な話があるのだ」
「餌か?」
「うむ。それも大事だな。しかしもっと大事なことだ、月へ帰る時が来た」
「は」
かぐや姫ならぬかぐや猫か。いったいどこのおとぎ話を盗み読みしたのだと問おうとして、しかし、黒猫のその月にも似た黄金の瞳の真剣なのに口をつぐんだ。そもそも彼は月の夜には話せるけれど、文字の読めた試しがない。
「どういうことだ」
辛うじてそれだけ問いかけると、黒猫は月の光差す窓辺に羽もないのにふわりと浮かび、こともなげに「こういうことだ」と答えて見せた。にゃあと一声鳴いて続ける。
「そもそもおかしいと思わなんだか。黒猫はいくら頭がよくとも月の夜に話しはしないぞ」
「そりゃそうだけど、なんかありそうだなって」
「ヒトというのは不思議なものだ」
話す内にも黒猫の姿は月の光に溶けていき、今やもはやうすぼんやりとした影ばかり。唐突な愛猫との別れに驚きながらもせめて言い残すことはと問いかければ影はややあって答えた。
「ああそうだ、あの缶詰。白い猫の描かれた缶詰。うまいな。エサは正直毎食あれでよかった」
「よりによってそれか」
「達者でな」
そうして知識の黒猫は目の前から消えた。声をかけても答えることはない。唐突な喪失感に顔も上げられないまま、彼は月の光にうなだれていた。
――はずだった。
「何でいる」
「うむ、無沙汰だったからな。ひと月ほど帰省してきた」
「怒るぞ」
次の満月の夜。さも当然とでも言うように、知識の黒猫は月の光の中にぼんやりと浮かんでいた。そして彼が問いただせばこれもまた当然であるとでも言うように、窓辺に難なく降り立ったのだ。自分の感じた喪失感は、孤独はいったい何だと憤る彼に黒猫はまるで呆れたように言う。
「月に帰れるのだからこちらにも帰れるに決まっているだろう」
「何だよお前、本当に何なんだ、あんな大げさに帰るときとか言いやがって」
「おや美味なる缶詰がこんなにも。感心感心。さあ開けたまえ、食わせたまえ」
「くっそ」
黒猫は床にごろりと寝転んで催促する。その目は彼が買いためていた白い猫の缶詰をとらえて離さない。揶揄うような口調で付け加えた。
「私が去る時より増えているようだな」
「うるさいうるさい」
そう返す彼の目はとても楽し気で――、あのまま去らないでよかったと、黒猫もやはり微笑むのだった。