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つめたい海のゼリー【偽】 ​

 真っ青なゼリーの中にフルーツの星と魚が散りばめられている。脚つきの透明なガラス皿もこの見事海を切り取ったようなゼリーに似合いで、言っては悪いが古く小さな、そして人の少ない喫茶店にしては珍しい、何とも芸術的なスイーツだった。
「ごゆっくり」
 中年の店主は無愛想にそれだけ言って立ち去っていく。コーヒーの匂いが立ち込めるダークウッドの店内。店主が皿洗いをしているカウンターに人はおらず、二つ三つあるテーブル席にはゼリー目当てにやって来た怜と、新聞を広げる総白髪に老眼鏡の紳士が一人。土曜日の昼下がりだ。
 「海の思い出をどうぞ」。有名なグルメサイトで見たのは確かそんな宣伝文句で、あちこち食べ歩いているというヘビー投稿者は「海が見えた」と絶賛していた。何でも一日十食の限定スイーツなのだというが、そのサイトでの星の数は2か3かだったことを考えると人気というよりは規模的に数を絞っているのだろう。口コミも少なかった。それにしては、皿もゼリーも可愛らしくてきれいなのが意外だった。
(あ)
 怜があんまりゼリーを見つめているせいか、新聞を読んでいたはずの紳士が不思議そうにこちらに視線をくれている。怜は慌てて青いゼリーをすくい、口に運んだ。
 途端、目が眩むような感覚がして思わず目を閉じた。

(海?)
 瞼の裏に青い海が映る。幻覚かと驚いて目を瞬けば、不思議なことに辺りの風景が人で賑わう真夏の砂浜に変わっていた。まだ初夏の、それも喫茶店の店内であったはずなのに、だ。うだるような暑さ。喧騒。潮の香り。水着の人々の行き交う姿。その笑顔。はてどんな魔法か、随分長い幻覚だと思っていると、行き交う人々の中にひときわ目立つ美しい女性の姿が見えた。青い水着の上から白いパーカーを羽織って、こちらへ手を振っている。会ったことがあっただろうか。不思議に思っていると、怜の後ろから小さな女の子の手を引いた、精悍な男性が彼女めがけて走っていった。
 若い家族の、夏の輝かしい一コマ。
 幸せな海の景色を、怜は確かに見た。

「奥さんをね、亡くしているのですよ」
 怜がはっと気がついたのは、いつの間にか目の前に移動してきていた紳士の声によってだった。「相席よろしいですか」と後から聞かれた狼狽もあって怜はおうむ返しにする。
「奥さんを?」
 先程までの幻覚は何だったのか。この紳士は何なのか。狼狽する怜の様子に構わず彼はちらとカウンターを振り返って続ける。
「ここのご主人。……この味、少し不思議でしょう。これは内緒ですがね、いつでも思い出せるように、奥さんとの思い出をゼリーに詰めたそうです」
「まさか、そんな非現実的な」
「でも、あなたも『見た』でしょうに――」
 紳士は人の良さそうな顔で笑う。しかしその笑顔が却って、先程見た若い夫婦のきれいな思い出に茶々を入れるようにも見えて怜は思わずムッとしてしまった。果たしてその不審は正しかったようで、紳士はにやにやと笑う。
「人は弱い生き物だ。耐えられなくなれば、非現実的なものにすがるのです」
「……だから、何だって言うんです」
 怜はとうとう不快を態度に出してしまった。しかしもう止められるものでもなかった。
 店主が思い出をゼリーに詰めたから何だと言うのだ。それだけ忘れたくないってことだろう。思い出にすがって何が悪い。
「それの何が悪いんです」
 怜の怒りに気づいたらしい紳士は苦笑いするとやや気まずそうに「では」と言って立ち上がる。
「あなたはお強いようだ。でももし、ゼリーに詰めたいものが、忘れたくないものがおありでしたら。……お安くしますよ」
 怜に睨まれた老人は会計を済ませて店を出る。ふと怜が机を見ると、飾り気のない一枚の名刺が置いてあった。魔法のゼリー屋らしい。
(バカにしやがって)
 美しい海の思い出を見たせいだろうか。余計に腹が立った。
 悲しい店主につけこんで、思い出の詰まったゼリーを作らせ、それを食べた客をターゲットにする。あくどい商売だ。

 怜は帰宅後もう一度だけ口コミ投稿サイトを開いて書き込んだ。「悪質な魔法使いが来店していることがありますので注意」。


 コメントは、店主の削除申請で翌日に消されていた。

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