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傘と黒猫とレモンタルト

 梅雨だというのに昨日のうちに雨は上がり、生憎の快晴である。美織は手早く準備を済ませると玄関に向かい、お気に入りの傘を下駄箱の中から取り出した。
 しばらく使われていなかった傘だというのに埃ひとつもないのはきっと、こまめに手入れを欠かさぬからだろう。
 玄関でもう一度姿見を確認する。服も靴も、持ち物も全て完璧だ。
 しかし下駄箱の上で微睡んでいた黒猫は、傘を差して玄関を出ていこうとする美織を長い尾で呼び止めた。
「美織、美織」
 まさに敷居を跨ごうとしたばかりの美織は振り返り、快晴の中の傘ごと「何かしら」と首をかしげて見せる。
 快晴に映る傘は白の地に、輪切りになったレモン、オレンジ、キウイなどが細かくちりばめられていて一瞬日傘かとも見紛うが、それは確かに雨傘であった。
 黒猫はあくびを一つしてたしなめる。
「美織。今日は雨は降らない。僕は顔を洗う気にならないほどの快晴だ。断言しよう」
「おあいにくさま。ほら、大雨よ」
「あのね。美織。傘はいらないよ」
「いいえ、雨よ。こんな日は雨じゃなくちゃつまらないわ」
「……好きにしたまえ」
 諦めた黒猫は顔を伏せるとまた眠り出し、玄関の扉は静かに閉まった。
「馬鹿」

 快晴の中をレモンとオレンジとキウイの輪切りが行く。
 通りすぎる人々はちらりちらり美織を振り返っているが傘の中の美織に視線は届かない。
「我ながら良いアイデアだわ」
 傘の外へ漏れぬよう小さく呟く。
 この中でどんな表情をしていようと、外の人にはわからない。何よりこんな雨降りの日にはぴったりの明るい傘だ。
 やがて美織は目的地にたどり着く。傘の中からは真っ黒のワンピースが、そしてもう一つの手に握られていた真っ白の菊花が現れた。傘を閉じて菊花を持ち直せば、違和感はたちどころに消滅するのだから不思議なものだ。
 苗字の沢山並ぶ中、美織は彼の名前を探してゆっくり歩く。すれ違う、黒い服の人たちと会釈する。
 何度も来ているはずなのに毎度迷ってしまうのは認めたくない心理でもあるのだろうか。
 ようよう彼の眠るところを探しあてた。軽く掃除すると、墓前に菊花を供え線香を立てる。手を合わせ、そうしてもう一度傘に目をやった。
 レモン、オレンジ、キウイ。
 ――ほら、君の好物だろう。
 懐かしい彼の声が聞こえた気がして、美織の表情はようやく緩んだ。
「遅くなってごめんなさいね。飼い猫が意地悪なのよ」
 今は亡き彼に声をかけ、やがて美織は立ち上がる。
 さあ、レモンタルトでも買って帰ろう。美織は再び傘を差すと歩き始めた。


※「雪と黒猫とチョコレート」と同じ世界です。

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