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​夢屋の貘

 自分の死体に蛆が湧く。皿いっぱいの青虫を食べさせられる。得体のしれぬ豹のような動物に腰骨辺りをかみ砕かれたかと思ったら、自分を咀嚼する音を聞きながら食われていく。溶けた鉄を鼻の穴から流し込まれる。
 ここ数週間の春花の夢記録である。
(いや、だからってこれはなあ……)
 本日、マンションから出たところで出会ったのは白亜の美しい壁。一階と二階とに互い違いにはめ込まれているのはクローバー、スペード、ダイヤマークでくりぬかれた乙女チックな色付き窓ガラス。笑顔がデザインされた丸い金ぶち時計を見上げれば赤いレンガの三角屋根。扉の形はハートマーク、極め付きの看板は女子中学生の好きそうなフォントで「わくわくドリーム」と書いてある。
「派手すぎるわ」
 連日の悪夢でとうとう現実でもおかしな幻覚を見るようになってしまったのだろうか。それとも服を選ぶ元気もなく適当な恰好で出てきた二十代への罰なのだろうか。春花は目の下のクマをどうにか隠した厚化粧で、建物を見上げる。
 しかし残念ながらこの悪夢のような建物は現実らしく、昨日まで影も形もなかったはずが本日急に出来上がっていたらしい。夢屋だろうと当たりをつけながら春花は店前で逡巡する。そうただ、逡巡していただけのはずだった。
「いらっしゃいませ! あなたがわくわくドリーム初のお客様です!」
 歓迎の文句と共に路上で鳴り響いたのはクラッカーである。一体何ごとかと音の方を見遣るとそこにはおろしたてらしい真っ黒のスーツに身を包み、短い金髪を太陽にきらきらさせる男性が一人立っていた。
「あ……、はい?」
 その爽やかな顔貌に似合わぬ胡散臭さと何故か頭にかぶっている紅白のパーティ帽子に春花が目を奪われている内、彼はぐいぐいと春花の背を押してくる。
「さあどうぞ中へ!」
「えっ」
 いや「中へ」じゃない誰だ。まず警察を呼ぶべきなのか。いや、もしかしたらただの客引きかもしれないし、何より夢屋は探していたのだし――。あまり回らない思考で春花はぐるぐる考えながら、住宅セールスの断りに二十分以上かかる自分の性格を呪っていた。

 夢屋は簡単に言えば、夢をコントロールする商売である。睡眠障害のトレンドが「不眠症」から「悪夢症」に変わった理由もその対処法も科学がなかなか確立できない中、口コミで段々流行りだしたものだ。ただ、夢屋が一般的な商売になったのはここ二十年くらいのことで、春花も生まれてから就職するまで直接的な縁はなかった。家族や友人が悪夢症に悩まされて夢屋を次々契約する中、春花は静かな森の中で妖精と遊ぶ夢を見たりぼんやり海に浮かぶ夢を見たり、ただ読書をするだけの夢を見ていた。お気に入りは白いワンピースを着てひまわり畑に遊ぶ夏の夢で、これは夏の風物詩でもあった。それほどに夢の悩みとは無縁であったから、夢見の良さを心の裡では自慢にさえ思っていた。
 夢屋は秘密主義で、夢をコントロールする原理は未だ誰も解き明かせていないし開示もされていない。だからテレビも専門家も初めこの商売の怪しさをあげつらった。一昔前の水素水、もっと昔で言えば水銀が不老不死になるという噂と同じだとあらゆるメディアが報じ危険視し、警告していた。しかし民間で様々な夢屋が勃興しトレンドになり、また世にあふれる悪夢症患者のほとんどが夢屋に登録し、その悩みを解消するにつれて次第に迎合賞賛し始めた。今やスーパーなどと同じくらいの頻度で夢屋を見かけるし登録が当たり前で、悪夢症でなくとも良い夢を見たい人は皆夢屋に登録している。
 それだけ一般的な商売なので、春花も周りからはかなり遅れたが、就職直後に悪夢を見るようになり登録した。
「いやー初めてのお客様! 嬉しいですねえ」
「あはは。……あのー帰っていいですか。一応今、別の夢屋さんにも登録してるんで」
「ええ? 夢屋、お探しなんでしょう? あなたの瞳はそう言っていましたよ!」
 ファンシーな夢屋とファンキーな見た目の濃い店員。「今本」というらしい金髪の彼は目をきらきらさせながらカウンター越しにずいと身を乗り出す。さっきめちゃくちゃファンシーでファンキーな名刺もくれた。正直春花としても悪夢で疲れているので帰りたい。本当に困る。
 唯一安心できるのは外観に反して内装は割と常識的なことくらいだ。旅行代理店みたいですねとお愛想で伝えると今本は内装が間に合わなかったので今後パーフェクトに改装していくつもりですと元気に教えてくれた。安心できない。
「んんーでも信田様? お化粧で上手に隠してらっしゃいますけど悪夢を見られているのでは? かなりお疲れに見えますが、今の夢屋に満足されてます?」
「……それは」
 今本はじっとこちらの目を覗き込んでくる。そう来られると返す言葉がない。春花はずり落ちる眼鏡を直しながら目をそらした。悪夢症は不眠症と違い、眠ることは可能だ。しかし反対に、夢の中で夢と気づいても起きることを許されない。気疲れが残り、それが溜まっていく。
「あ、僕としたことが。……はい、粗茶ですがどうぞ」

「あ、ありがとうございます……」
「いえいえ」
 気づけば今本が温かい茶を用意してくれていた。春花はぼんやりしつつ受け取り、大きな息をつく。しかし、さすが夢屋だ。会社では疲れてるのかなど聞かれることもなかった。詳細を話すつもりもなかったが困っているのは事実なのだし相談してみてもいいかもしれない。万一このテンションで無理やり契約を推し進めるなら警察だ。スマホもちゃんと持っている。
 春花はようやく回り始めた頭で決意すると、湯呑をカウンターに置いた。
「その、さっきお兄さんの言った通りで。今の店が悪いっていうんじゃないんですけど最近段々悪夢を見るようになってきてしまって……。別の夢屋はないかなって検討中でした」
「……なるほどですね。今はどちらに登録されてます?」
 今本は笑顔のままだがその様子からは先ほどまでのおちゃらけた雰囲気は感じられなかった。問われて春花はチェーン展開している夢屋の名前を告げる。
「『夢ノート』です」
「ああ、夢ノートさんですね。知ってますよー、働いてました。契約の時、スケジュール帳くれますよね」
「あ、はい。そうです。……だから何でかなって思うんですよね、結構大きい会社ですし」
 今本も働いていたという「夢ノート」は夢屋が登場し始めたころからある企業で、夢屋の最大手チェーンだ。あちこちに支店があり、先日全都道府県制覇記念ということで月額料金を値下げするキャンペーンも行っていた。
 だからサービス内容も安定しているはずなのだが最近はどうも悪夢を見る。ネットで探してもあまり同じような事例が引っ掛からず困っていて、別の夢屋にするべきか悩んでいたと春花は白状する。今本は真剣に聞いていたが「大丈夫ですよ」と頷いた。
「僕いたころ結構あったんですけど貘さんとの相性もあるんですよー。変更手続きもできるはずです。そっちの方がいいんじゃないかな?」
 「貘」とは夢の調整ができるスタッフだ。夢屋は貘を何名抱えているか、どれだけ質のいい貘がいるかを売りにしている。
「え、でも契約は」
「いいんですよ! 僕、独立はしましたけど道楽商売で、とりあえず外観とか内装とか好きにやりたかっただけですから」
「ははは……」
 春花は心底ほっとした。派手な外見に驚いていたが、無理やり解約させて自分の店に引き込むつもりはないらしい。
(う、でも気が引けるなあ)
 春花が今夢ノートで担当してもらっている貘は「木下」という初老の男性で、他の顧客の掛け持ちだと聞いている。外見も優しそうな総白髪のおじいちゃんなのだ。おじいちゃんというよりはおじい様という言葉が似合う感じの人で、最初の契約の時にも若い女性を舐めるようなことをせず分からないところは紳士的に教えてくれた。何より身形もかなりきっちりしていて仕立てのいいスーツに身を包んでいたのを覚えている。春花が迷っていると今本はにっこり笑って背を押してくれた。
「大丈夫ですよ。基本的に事務手続きは事務スタッフがやるんで、担当さん出てきて気まずい感じにはならない筈です。マイページとかでもできるんじゃないかな、忘れちゃったけど」
「本当ですか」
「電話してみます? 何かあったら僕代わりますよ。元職場だし」
 春花は今本の申し出をありがたく受け取り、電話をかけてみることにした。

「お電話ありがとうございます。夢ノートK支店です」
 二コールですぐに落ち着いた感じの女性が出た。春花がほっとしつつ、貘を交代してほしい旨を伝えると女性は驚いた様子もなく手続きに進んでくれる。
「貘の変更ですね。承知いたしました、まずはお客様のご登録から――」
「あ、できるんですね」
「はい、少々お時間はいただきますけれど問題ございませんよ」
 できるのか。よかった、これでようやく悪夢から解放される。
 春花は女性のアナウンスに従って手続きを進める。しかし、何でこんな簡単なことを思いつかなかったのだろう。相談すればよかったのだ。やっぱり、相当神経がやられていたのだろうか。
(でも……)
 春花はちらと今本の方を見る。きんきらの金髪に初めはびっくりして怪しんでいたが、店に入っておいて契約もせず、ただ他店の貘変更して帰るって、どちらかというとこっちの方が結構失礼かもしれない。
 せっかく客引きしてくれた今本には申し訳ない。何かするとすれば、しっかりお礼言って帰って、周囲にも宣伝することくらいだろうか。自分もこの派手な外観に初め怪しんだから自分と同じく敬遠する人も多そうだし――。
「信田様、お電話代わりました」
 手続きがほとんど完了したかと思った瞬間、急に電話の保留音が流れ、男性の声に変わった。春花は一瞬戸惑ったが、この優しそうな声はあの白髪の、初老の――。
「あ、き、木下さん……、えっと、お久しぶりです」
 貘の交代は直接話さないんじゃなかったのだろうか。もしかしたら最終調整で確認がいるとかそういった感じだろうか。聞き逃していた。ちらりと今本に目を遣ると何故か目の前でピースしてくれた。そうじゃない。
 最後までさっきの女性が手続してくれればいいのにと思っていると、木下は優しい声のトーンのまま話を続けた。
「信田様、どなたに聞かれたのかは分かりませんが、……生憎、貘の交代はできないのです」
「あ、そ、そうなんですか」
 春花は少しショックを受けながらも引き下がる。おや、先ほどの女性はできると言っていなかっただろうか。春花が考えるうちに木下は言い募る。
「騙されています。あなたは騙されていらっしゃる。……ああ、いえ、先ほどの者が案内違いをして、申し訳ございません。そもそも、あなたのような美しい夢を見る方をお譲りするわけには」
「木下さん?」
「私にもっと食べさせていただかなければ困ります。あなたの夢は大変に美味しい、あなたの夢は、あなたの夢こそが私の――」
「き、木下さん?」
 春花の返答に驚いたのか今本は「どうしました?」と問うように首をかしげ、その間にも木下は電話越しにぼそぼそと何かを言い続けている。こちらの声もあまり聞こえていないらしく、ただ落ち着いたトーンで同じような言葉を繰り返しているようだ。春花がおろおろしている内に視界で金髪が光った気がした。
「信田様、お電話代わりますね」
 異変を察してくれたらしい今本が春花のスマホに手を伸ばし、そのまま電話を代わる。流れるような口調でそのまま話し始めた。
「お世話になります、わくわくドリームの今本と申します。木下さんお久しぶりで――、ええ。ちょっと悪夢を見てしまうようで。あはは、そうですか。いやいや吹き込んだりは……、まあ、選ぶのはお客様ですからね」
(え)
 スマホの向こうから激高しているらしい声が漏れ聞こえてくるので春花は目を丸くした。あの優しそうな、紳士的な様子だった木下が怒ったというのだろうか。今本もおかしいことを言っている様子はなかったというのに。しかし今本は気にしていない様子で話を続けている。
 春花がどうなるだろうとそわそわ見つめている内に今本はくるりと振り向いた。受話器を抑えるような仕草でスマホを隠して問いかける。それでも罵声らしい温度の声が漏れ聞こえてきて、春花は心臓の前でぎゅっと手を握る。
「信田様、どうなさいます?」
「え?」
「契約解除はできるみたいですよ。ただ貘の交代は難しいと。木下さん、自分が責任持って見ると仰ってます」
「な、なるほど。……?」
 責任感からあんなことを言ったのだろうか。腑に落ちない。一体どういうことなのだろう。春花がそう考えているのを今本は悩んでいると取ったらしくひらひらと手を振る。
「あ、僕には気を使わなくて大丈夫です。お好きな方を」
 聞かれているのは今と同じく木下の担当で夢ノートを継続するか、解約してこのわくわくドリームで契約し直すかということだろう。スマホの向こうではまだ怒鳴り散らしている。この店も少々うさん臭くはあるが、正直もう、迷うほどのことではないように感じた。
 木下さん優しかったんだけどなと思いつつ春花は頷く。
「あの、解約でお願いします」
「聞こえました? ははは、何も吹き込んでませんってば。じゃあさっきの事務員さん、花田さんかな? もう一回代わってもらえます? 手続きしてもらうんで……、いや木下さんそもそもどうやって介入して……。もー、何言ってるんですか」
 今本はそうやってしばらく話していたが、やがて春花の方をちらと見た。
「あ、花田さんお久しぶりです今本ですー。信田様に代わりますねー」
「も、……もしもし」

 春花の手元にスマホが返ってくる。初めに対応してくれた女性スタッフの声に変わっていた。
「先ほどは大変失礼いたしました。担当の花田でございます。では信田様、ご解約のお手続きを進めますね」
 花田さんというらしい女性はかなり申し訳なさそうな口調だった。さっきの木下の様子も気になったが、解約と新規契約が進むことで気持ちもだいぶ回復していた春花はいえいえと気遣いつつ解約手続きを進める。
 彼女は丁寧に解約事項を説明してくれた。こうして夢ノートの解約とわくわくドリームへの新規契約手続きはトラブルがありつつも終了したのであった。

「うわー災難でしたね、それ……」
 後輩は露骨に嫌そうな顔をしてくれた。春花も苦笑しつつ頷く。
 勤め先の休憩室、ちょうどお昼の時間なので二人差し向いに昼食をつついている。話題は先日の夢屋変更事件だ。かなりびっくりした出来事であったが、一週間ほど経てばただの話のタネであった。
 元々担当してくれていた貘の様子がおかしかったことや、外見がとても派手な新興夢屋と契約したということを伝えると後輩は興味深そうに聞いてくれた。彼女も「おしゃれな最高の夢が見たい」という理由で夢屋をあちこち乗り換えて契約しているタイプで、夢ノートとも契約していたことがある。
「それで結局、ちゃんと良い夢見られるようになったんですか?」
「ん? んー、うん。昨日は半々だったかな」
 それでも十分だと春花は続けるが、後輩の方がむしろ不満そうだった。
「半々って何ですかそれー! 駄目ですよ!」
「あはは……、ほら夢っていくつか見るじゃん。前半はいい夢なんだけど後半からはやっぱり悪夢なんだよね。でも正直、それでも十分解放感あるんだけど」
「えー、それ優しすぎです。っていうか何でしょそれ、移行の手続き中ですかね」
「何だろうねー」
 言いながら春花は弁当の卵焼きをつつく。朝、弁当を作る気力がわいたのは久しぶりだった。ただ、先ほど言った通り昨日の夢は半々だった。前半は鳥のように空を飛び回る夢であったが後半は……、ちょっとお食事中には思い出したくない夢だった。後輩の言う通り手続き中なのかもしれない。
(それにしては長いな)
 悪夢ばかり続いていた日に比べれば随分マシで、体調も回復したし不思議なくらい気疲れもない。なので、不満があるわけではないのだが、できればそろそろ悪夢半分、いい夢半分を止めてもらえるとありがたい。
(昔はこんなことなかったんだけどなあ)
 春花は後輩にばれないようにため息を吐く。いい夢ばかり見るのが自慢で、新卒入社の頃に夢屋未契約だと伝えると同期、先輩の皆に驚いてもらえた。珍しいねと言われるのが嬉しくて自分からそんな話を持って行ったこともある。ただ仕事に慣れてきた頃に確認不足で大きなミスを起こして初めて先輩に叱られ、その日は初めて悪夢を見た。これが噂に聞く悪夢症かと、叱られたことも忘れて即日で夢屋に駆け込んだ。
(木下さん)
 その時に優しくしてくれたのが木下だ。眼鏡の奥も優しい総白髪の落ち着いた男性で、先輩に叱られたことも含めて話している内ぼろぼろと泣いてしまったが、人生相談にも乗ってくれて手続きも優しく教えてくれたのだ。それから三年ほど経つが、定期的な更新の確認なども特に問題なく、それどころか仕事のことまで気に掛けてくれる素敵な人だった。
 木下のおかげで契約も滞りなく済んだし、この間のように連続して悪夢を見るようになるまでは元のように美しい夢ばかりを見ていた。だから貘の仕事もきっちりしてくれていたはずなのだ。むしろ木下と話してから却って夢見が良くなったくらいで感謝さえしていた。ひまわり畑に遊ぶ夢や、静かな森の奥の湖に佇む夢、鳥になって空をかける夢、どれも良い夢ばかりを彼は見せてくれていたはずなのだ。
 ――私にもっと食べさせていただかなければ困ります。あなたの夢は大変に美味しい、あなたの夢は、あなたの夢こそが私の――。
 私の、一体何なのだろう。夢を食べるなんて故事からついている「貘」という職業名だが、あれはただの故事であって木下も昨日会ったばかりの今本も人間であるはずだ。
(今本さんは人間かどうか怪しいな……)
 春花は先日あったばかりの怪しい金髪男を思い描く。アリスモチーフが好きなのかもしれないが、夢屋の店構えがあんなに趣味全開で本人もどことなく軽かったら客も来にくいのではないだろうか。
「そう言えば私、今の夢屋さんで聞いたんですけどー」
「ん?」
「怖い話あるらしいですよ、夢屋さん。悪夢症じゃない人に悪夢見せて、もっともっと夢屋を繁盛させようとしてるとか!」
「え? 都市伝説か何か?」
「はい! 見てくださいこのチャンネル! 夢屋さんの都市伝説解説なんです。これとか面白いですよ、夢の良い、悪いの総量って本当は決まってて……」
「お、おお……、うん……」
 原色をたくさん使ったサブカルチックな画面を見せられ春花は微妙な態度を返す。いや、後輩が楽しんでいるのであればいいのかもしれない。肌艶もいいし。思いながら春花はきれいな女性がまことしやかに語る都市伝説の動画を後輩と一緒に見つめる。
 手続きさえ終われば、悪夢からもっともっと解放されるはずだ。その内目の下のクマも消えるだろう。まだ悪夢は半々だったが何となくほっとして春花はこっそり笑った。

 トランプのスートをあしらった窓から日が差し込み金髪を照らしている。客のいない店内で今本は満足げに窓の外を見つめていた。
「やはりいいですねえ、思った通りの窓の美しさだ。たまに中学生に雑貨屋と間違われますが……」
 外を通る人は大体怪訝な顔をして中を覗き込み、オフィス風の内装に驚いて視線を戻している。それさえ嬉しそうに今本は外へひらひらと手を振っていた。
「あ、電話ですか」
 静かな店内に電話の音が鳴り響く。この間敷いたばかりの電話回線だ。これもいつかアレンジしてやろう。今本は笑顔のまま電話を取った。
「お電話ありがとうございます、わくわくドリーム今本……」
 やがて相手の声に笑顔を凍らせる。
「ああ木下さん。先日はどうも。……あはは、まあ確かに美味しそうではありますねえ。しかし食べちゃだめで……」
 今本がそこまで言うと電話は切られたらしい。ツーツーという音を聞きながら今本はため息を吐き、受話器を置く。
 そして再び天井を見上げ、今度は手の平で顔を覆った。
「養殖貘め。諦めたかと思いましたが」
 今本はしばらくぼーっとしていたがやがて大きな伸びをすると本日閉店の看板を探し出し、そこからあわただしく準備を始めた。

 繰り返し、塩水に顔を沈められる。自らの意志ではない。後ろから大きな手のひらがしっかりと自分の後頭部を押さえている。とても逆らえそうにない強い力だ。明らかに男の手のひらで、それもやや節くれだっている。体は何か強い力で縛られて動けない。
 辺りは暗いがどうもここは海らしい。夜の海だ。ざばんと音がした。まただ。真っ暗で塩辛い海中に何度も顔だけを沈められる。溺れる、と思った瞬間に再び空気中へ引き上げられ、水中か空気中か分からぬままただ必死に息を吸う。
 ――それで結局、ちゃんと良い夢見られるようになったんですか?
(半々だよ)
 春花が後輩の言葉を思い出し涙を流しそうになった途端、夢の場面は変わる。しかし為されることは何も変わらない。塩辛い海中が熱砂に変わるだけだ。砂の中に顔を埋められる。息などできるはずもない。首に爪が食い込んでいる。顔が少しずつ焼けただれていくのが自分でもわかる。生を諦めそうになればまた砂から顔が引き上げられ束の間の息継ぎをする生き地獄が続く。
(夢屋、変えたはずなんだけどなあ)
 感覚は、ある。どうせ夢なのだから感覚をなくしてほしいのに、ある。悪夢の例に漏れず明晰夢できっと翌日の記憶にも残り気疲れにもなる。
 悪夢だと認識した途端顔からぼたぼた剥がれ落ちていくものがある。それが汗でなく焼けただれた肌である証拠に、火傷の肌の痛みも血が吹き出ている感覚も確かにある。
 誰とも知れぬ強い手のひらに負けながら春花は考える。何故こんな目に遭うのだろう。
「許さない」
 落ち着いた、しかし怒気を孕んだ声は誰かのものに似ている。誰だかはわからない。絶対に知っているはずなのに今は分からない。しかし、聞いたことはある。ただそれだけだ。
 良い夢半分、悪い夢半分であることに不満はなかったはずだったが今日の悪夢が一等ひどいだけについ夢屋を恨みそうになる。怒ってなどいなかったはずなのに、何故だか怒りがあふれてくる。ああ、やはりあの怪しい外観通り、外れの夢屋だったのだ。一から検討し直すべきだ。パーティ帽など最初から怪しんでしかるべきだった。謝れば木下はまだ許して――。
「ははは、失礼な」
「え?」
「黙りなさい」
 一瞬だけ、人を食ったような声が後ろからした。しかし問い直した途端にまた元の男性の声にかき消された。聞く間もなく再び熱砂へ顔が沈められ息が止まる。抵抗のできない体は天から差す日の光にじりじりと焼かれていく。強い力で砂の中に顔が埋められたまま、声だけが聞こえてくる。
「信田様。あなたがお悪いのです。怪しげな夢屋などと契約するから。前の夢屋を彼を裏切ったのだから」
 顔が焼けただれる中で聞こえる嘲り混じりの男の声。落ち着いた初老の男。これはあの人の声だと気づくのにしばらくかかった。夢屋を変えたから悪夢を見るのか。彼は春花を熱砂に沈めながら続ける。顔だけでなく体すべてが砂に沈み行くような感覚がしていた。
 彼の声は、合成のように歪んだ声に変わる。
「彼を選んだのが悪かったのです。私を裏切ったのが悪かったのです。さあ選ぶべきは誰でしょう、私の正体は何でしょう、言ってごらんなさい」
 若い男性の声が聞こえたり、落ち着いた男性の声が聞こえたりする。夢ではよくあることだ。顔から首、首から肩と熱砂に沈み行く中、この声の主を当てようと春花は必死で考える。
「……木下さん?」
「ええ。お久しぶりですね。しかし、ひどい裏切りだ。……私を忘れましたか、どうして私に夢を与えてくれないのです。私はあなたのために仕事をした! ならば少しくらいあなたの夢を食べたっていいでしょう。あなたの味が忘れられないというのに! 美しい夢を食べるのはあなたでなくて私であるべきだ!」
(ああ、彼が全て正しいのだ)

「あなたは『悪夢症』なのです、生涯ね」
 そうか悪夢症は治らない。ならば良い夢を貘に分け与え、自分は残りかすの悪夢を見るのが正解だ。幸い自分の夢は美味しいのだ。彼の好みにぴったり合って喜んでもらえるだろう。それが正解だ。ああ、やはりあの夢屋は怪しかった。全ては木下こそが正解だ。彼こそが全て正しいのだ。
(え? 私、そんなこと――)
 おかしい、そんなこと思っていない。
 春花がそう言おうとした途端、バチンと何かの電源を切るような音がした。

「あああ! 邪魔するな!」
 誰かの絶叫と共に辺りの様子が一変する。砂漠も照りつける太陽もどこにもない。岩のごろごろする荒れ地がただ広がっていて、春花はそこにパジャマ姿で膝立ちになっていた。目の前に立って遠くを見つめているのは先日出会ったばかりの金髪だ。
「これは、夢堕ちと言われるものですよ」
 彼の見つめる先では木下が頭を抱えてうずくまり、聞き取れない言葉をつぶやいてはにやにやと笑っている。
 少しばかり憧れさえしていた彼のそんな姿は見たくなくて、春花は今本に問いかける。
「夢、オチ?」
 今本は表情をふっと緩めてひらひらと手を振り、また訳の分からない言葉で説明しようとする。
「あ、失礼、失礼。漫画とか小説のあれじゃないですよ、まあ忘れてください。んーとですね、養殖物の貘に多いんです」
「養殖物」
「本当は悪夢の種もこんなに広がる予定じゃなかったのに。全く人の失敗を商売にしやがって」
(全然わからない、何言ってるのこの人)
 夢堕ち、養殖物、悪夢の種、人の失敗?
「いや、そういう夢なのかな……」
 何だか夢屋の企業秘密をばらそうともしているような言葉が不思議で春花はぼそっと呟く。いや、そういう夢なのかもしれない。こういった部分含めて濃い目の夢を見ているのだろう。夢の中だし今本の言っていることが本当という確証もないのだ。しかし妙に気になる言葉でもある。
 考え込んでいる春花の様子に気づいたらしく、今本ははっとして大袈裟に手を振った。
「ありゃー、もう、もう全部夢だと思って忘れてください。内緒なんですー、企業秘密! 夢屋は全て企業秘密なんですよ!」
「全部自分から仰ってましたが」
「あはは……、あ。でも一つだけ覚えておいてほしいんです。信田様、別に悪夢症じゃないですよ」
「はい?」
「悪夢症ではないですけど、僕と契約はしておいた方がいいです。他の夢屋だとこんななっちゃいますから」
 今本はまだ何かを呟いているらしい木下を指さす。彼を見つめる今本の表情はどこか悲哀が混じっていて、口調は軽いながらも春花と同じく悲しんでいるのだろうということは伝わってきた。話を変えるようにして今本は問いかける。
「信田様はもともと夢見が良かったのではありませんか」
「ええ、そうですね。元々は……」
「軽いストレスで悪夢を見て、悪夢症だと駆け込まれたのだと思います。ただ、そこに不運が重なった。あなたの夢があまりにおいしそうで、木下さんもついやってしまったのでしょう。でも正直めちゃめちゃ気持ちはわかるんだよなあ……、森の湖の上を飛んだり、大きくて静謐、清潔な図書館でじっくり本を読んだり……」 
 春花は今本の言うことを何とか理解しようと耳を傾ける。悪夢症ではない。夢が美味しそう。木下もついやってしまった。

 ――私にもっと食べさせていただかなければ困ります。あなたの夢は大変に美味しい。
 夢を食べるなど現実的でないと思ったが、そもそも夢のコントロール自体が非現実なのだ。何でもありなのかもしれない。常識を取り払って春花は考えてみる。
「……つまり私はもともと夢見がよくて、美味しそうな夢を見ていて。一回怒られて悪夢を見たのを悪夢症と勘違いして……」
 就職直後、大きなミスをして叱られた日。あの日の悪夢はただの偶然で、夢屋契約後に見たひまわり畑に遊ぶ夢も、森の奥の湖の夢も、空をかける夢もただただ春花が自力で見ただけの――。

「ええ。貘にとって美味しそうな餌をぶら下げながら夢屋と契約した。契約しようがしまいが、あなたの夢はずっと良い夢ばかりだったと思いますよ」
「そして、つい木下さんが食べちゃって、壊れちゃったと……」
「ご名答です。ついでに言うと木下さん、ファンタジー系の夢大好きなんです」
 何だか体から力が抜けて、春花は思わず天を見上げた。夢の中の空はどこまでも明るく、先ほどまでの照りつけるような太陽の暑さもない。フォローをするように今本が続ける。
「昔みたいに天然物の貘が悪夢だけを食べる世界だったらよかったんですけどねえ。木下さんは本当に良い方なのですが、生れついての貘ではない。修行を積んで貘になった方だ。こんなに悪夢商売が広がっちゃ、そうしないと人材が確保できない」
 修行を積んで貘になる、というのが養殖物の貘ということなのだろう。
 今本はべーっと舌を出してみせる。驚いたことにその舌には、真っ黒な刺青のようなものが走っていた。
「僕なんかは舌が肥えてますから悪夢のうまさを知っている。でも修行で悪い夢ばっかり食わされていた貘が興味本位で良い夢を食べると、簡単に夢堕ちする。良い夢ばかり食べるようになる。……その日に見る夢の良い、悪いの総量は大体決まってるんです。そのバランスが崩れるのが悪夢症、あなたは悪夢症ではなく」
「……その日に見るはずだった良い夢を全部食べられてた?」
「正解です。まあ信田様は全部が良い方に傾いていてちょっと異常ですけど。うわ、僕全部喋っちゃいましたね。まあ、これも『夢オチ』ってことで許してくれません? 全部夢でしたってことで」
 今本は笑っている。春花は木下の方に視線をやった。悪夢を見せられた恨みは不思議となかった。それよりこれできっちりと契約が終わるのだろうという直感と、木下も被害者なのではないかという憐れみが心に残っていた。
 そろそろ七時ですね、と今本が懐中時計を確認する。春花の起床時間だ。
「では信田様、今後ともわくわくドリームをごひいきに」
 今本は腰を曲げて丁寧なお辞儀をする。派手な金色の髪が夢の太陽に照らされてきらりと光り、スマホのアラームが鳴り響いた。

 その日から、春花が悪夢を見ることはぱったりとなくなった。昔のようにひまわり畑の夢や、黄金色の稲穂にダイブする夢ばかりを見ている。
 あの日の夢のことはまだ怖くて聞けていないが、後輩の見ていた動画のことを今本に問うと「これは女装した僕ですね」とのことだった。
 アリスモチーフの夢屋は、まだマンションの前にデンと構えている。

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