小説屋の一枚
男は小説屋なのだという。
「小説家でないのかい」
「小説家でない、小説屋だ。小説を売っているのさ」
「それなら古本屋だろう」
「違う、違う。古本屋でない。だって俺の売る小説は本ではなく、ほんの一ページなのだもの」
「ははは。不良品でないか」
「不良品はお互いさまさ」
男の皮肉に苦笑を返して、田原は煙草に火をつける。ちりりと頭が痛んで顔がゆがんだ。この所家でも外でも構わず気鬱で、どっと疲れの出ることが多い。そしてその手前には必ず頭が痛くなる。
あまり流行っていない喫茶店でのこと。田原の前に座る男は注文した珈琲を冷ましながら飲んでいる。やがてその白黒の細い棒縞の袂から、四つ折りにした紙を取り出した。
「考えてみると、お前とは付き合いが長いことになる。特別に売ってやるよ」
「別に欲しかないが」
「欲しかなくとも、あっても困るまいよ。同郷のよしみだ、久々に会うたも縁だろう」
「なるほど邪魔にはなるまい。それなら縁の記念にもらっておこう」
「縁の記念は面白い」
田原は軽く笑って紺絣の懐へ紙きれをしのばせる。件の小説屋の一枚らしい。読んで物笑いの種にでもしてやろうかと考えないでもなかった。
煙を吐いて灰皿に灰を落とすと、田原はまた元の通り、幼馴染の身の上話を聞き始めた。
喫茶から帰って読んだ小説屋の一枚は、広げると新聞紙ほどの大きさにこそなったが、さほど興味を惹かれるものでもなかった。
東京へ出てから、面白い小説だの講談だの、おおかた目を通して目が肥えていたこともあるが、差し引いてもその、あまりに風景描写の濃密すぎる一枚を読み切るのが田原には苦痛であった。
故郷のことを書いた内容であるらしいが、懐かしさを偲ぶくらいでどうということもない。
ただ眠気を呼び起こすには十二分であったので、田原は久方ぶりに、睡眠薬を飲まず眠りに落ちた。
「それで。気鬱はどうだい」
「すっかり治ってしまったよ」
「それは何より」
田原は物笑いの種にするつもりだった一枚を大事に懐に忍ばせたまま、再び同じ喫茶で男に会うていた。
礼のつもりもあった。
――何故なら睡眠薬を飲まずに眠った夜、田原は故郷の夢を見た。
それだけならどうということもなかったろうが、強烈に鮮烈に、見知った風景がありありと迫ってきた。
黄金色をした稲穂の上を秋赤音が飛び、いつしか子供の姿になった田原は男と共に追いかける。
畦道の泥臭い匂いや踏みしめる柔らかな土の感触、遠くで鳴る寺の鐘。
久方ぶりに無心に、全く何にも考えずに走り回った。やがて青く高かった秋の空が暮れ家へ戻れば、子守をしていた姉が迎えてくれた。母は夕食の準備をしていた。
ただ無心に、明日は何をして遊ぼうと考え――、やがて目が覚めた時に田原は涙を流していた。
涙は一筋では止められず、結局二筋、三筋と増え、悲嘆することなどない筈なのに狂ったように泣き、やがて落ち着いた。
考えてみればあの涙まで含めて、夢の一つだったのであろう。
そして故郷のあの風景こそが、あの無心こそが、都会擦れした田原の求めていたものであったのだろう。
無心でいられる夢の中だからこそ、風景が田原の心に迫ったのかもしれない。
「なあ。あの小説、ほんとうはあんたが書いたんでないのかい」
田原は幼馴染の男に問うた。
醜態をさらした自分のことは隠したが、ひょっとすると男は全て見通しているのかもしれないと疑っていた。
男は肩をすくめるような仕草で笑う。
「言ったろう。俺は小説家でなく小説屋だ。書くのは性には合わねえさ」
そう言って冷めかけの珈琲を啜る男を見ながら、田原はあの一枚の筆跡が、妙に田原自身のものと似ていることを思い出した。